記憶を食べる転校生
⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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三月の風にはまだ刺すような冷たさが混じっていた。
市立第二中学校の二年生、小林透子の日常が静かに崩れ始めたのは一人の転校生がやってきた日からだった。
「初めまして、浅見想太です。よろしくお願いします」
教壇に立った少年は、独特の雰囲気を持っていた。
季節外れの転校生にクラス中がざわつく中、彼は透子の隣の空席に座った。
「よろしく、小林さん」
誰にも教えていないはずの名前を彼はさも当然のように呼んだ。
それが全ての始まりだった。
第一章:消える“昨日”
異変はすぐに起きた。
透子の親友である真帆が浅見と一緒に図書委員の仕事をした翌日のことだ。
「ねぇ。去年の夏休み、私たちどこに行ったっけ?」
昼休み、お弁当を広げながら真帆が唐突に言った。
透子は箸を止めて、真帆の顔を凝視した。
「何言ってるの。二人で江の島に行って、生しらす丼を食べたじゃない。真帆がトンビにコロッケを盗られて大泣きしたでしょ?」
真帆は困ったように眉を下げ、自分のおでこを指先で叩いた。
「……思い出せないの。写真を見れば透子と一緒に行ったってことはわかるんだけど、潮の匂いとか透子と何を話したかとかそういう“思い出”がすっぽり抜け落ちてる感じなの」
最初はただの物忘れだと思った。
けれど、浅見に近づいた生徒たちは皆、一様に“大切な何か”を失っていった。
合唱コンクールで一生懸命練習した記憶。
亡くなった祖父からもらった優しい言葉。
それらは、まるで見えない何かがスプーンで掬い取ったかのように綺麗に消えていた。
第二章:食卓の正体
透子は確信した。
原因は浅見想太だと。
放課後、透子は一人で図書室に残っていた浅見を問い詰めた。
「浅見くん、あなた何者なの? 真帆やみんなに何をしたの?」
浅見は読みかけの本を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
窓から差し込む夕日が、浅見の瞳を不気味な琥珀色に染めている。
「お腹が空いていたんだ。僕たちは食べないと消えてしまうから」
浅見は悪びれる様子もなく、むしろ悲しげに微笑んだ。
「記憶は鮮やかなほど美味しい。特に愛情が詰まった“温かい思い出”は最高のご馳走なんだ。君の友だちからは君との夏の思い出をいただいたよ。とても……甘かった」
透子は怒りで身体が震えた。
「返して! あれは、私たちの……大事な宝物だったのに!」
「無理だよ。一度食べてしまったものはもう元には戻らない。でも……」
浅見は椅子から立ち上がり、透子のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。
氷のような冷気が浅見から漂ってくる。
「君の記憶はもっと美味しそうだ。もし君が僕の“特別”になってくれるなら他の誰からも奪わないと約束してもいい。どうだい? 友だちを守るために君の一番大切なものを僕に差し出す気はあるかな?」
第三章:残酷な選択
それは悪魔の契約だった。
透子が彼と仲良くなり続ければ、真帆たちは守られる。
しかし、それと引き換えに透子の中から大切な思い出が一つずつ消えていく。
透子はその条件を飲んだ。
真帆がこれ以上、自分との思い出を失って他人を見るような目で自分を見ることに耐えられなかったからだ。
それからの日々は、静かな地獄だった。
学校帰りに浅見と歩く。
一緒にカフェで勉強をする。
傍目には仲の良い二人にしか見えなかっただろう。
けれど、浅見が透子の肩に触れるたびに彼女の脳裏で何かがパチンとはじけて消えた。
昨日、お母さんと喧嘩して仲直りした時の温もり。
三年前、可愛がっていたペットと遊んだ記憶。
ピアノの発表会で震える指を鍵盤に置いた瞬間の緊張。
「ごちそうさま。今日はいい味だった」
浅見が満足げに微笑むたび、透子の心には穴が空いていった。
鏡を見てもそこに映る自分が誰なのか、時々わからなくなる。
それでも、『真帆が笑っていればそれでいい』と透子は自分に言い聞かせた。
第四章:忘却の果て
一ヶ月が過ぎた。
透子はもう自分がなぜ浅見と一緒にいるのか、その理由すら思い出せなくなっていた。
「透子、最近元気ないね。大丈夫?」
真帆が心配そうに声をかけてくる。
透子は笑って答えようとしたが、ふと気づいた。
(この女の子は誰だろ?)
制服が同じだからきっと友だちなのだろう。
でも、彼女と何を話してどんな時間を過ごしてきたのか、透子は何も思い出せないのだ。
「ねえ、あなた……誰だっけ?」
透子の口から出た言葉に、真帆の顔から血の気が引いた。
その背後で、浅見が満足そうに目を細めているのが見えた。
「ああ、残念だ。もう君の中には食べるような“強い記憶”が残っていないみたいだね」
浅見は冷たく呟いた。
「空っぽになった君はもう、僕にとって価値がない。さようなら、透子。君の味は一生忘れないよ」
翌日、浅見は転校していった。
嵐が去った後のように、唐突に。
クラスメイトたちの記憶障害は止まった。
浅見から奪われた記憶は戻らないが、新しい思い出を積み重ねることはできる。
彼らは『あの時期は変だったね』と笑いながら、日常へと戻っていった。
ただ、透子一人を除いて。
結末:残された空白
一年後、卒業式の日。
透子は教室の窓際で、真帆と向かい合っていた。
真帆は泣きながら透子の手を握り、何度も二人の思い出を語ってくれる。
江の島のトンビの話。
テスト勉強をした話。
二人で約束した将来の夢。
けれど、透子の心には何も響かない。
真帆が語るエピソードは透子にとって、知らない誰かの物語を読まされているようなただの情報の羅列に過ぎなかった。
「……ごめんね。思い出せないの」
透子の心は、あの日浅見に食い荒らされたままだ。
愛情も、憎しみも、悲しみも。
感情の“もと”となる記憶を失った透子は、笑うことも泣くことも上手くできなくなってしまった。
ふと、校門の方を見ると一人の少年の姿が見えた気がした。
透き通るような肌と琥珀色の瞳。
彼は透子に気付くと口元に指を当て、楽しげに『ごちそうさま』と唇を動かした。
透子が守りたかったものは、一体何だったのか。
それを確かめる術さえ、今の彼女の内側にはもうひとかけらも残っていなかった。
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