3.見上げた空
誰かに呼び止められることもない、静かな廊下。
エルフェリアでは、考えられない光景だ。
官僚として割り当てられた執務室に入り、机の上に積まれた書類を見下ろす。派遣――それは、表向きの理由でしかない。
ヴァル=ノインが欲しているのは、人材ではなく、忠誠の証だ。
エルフェリアから来た人間が、どこまで従うのか。命令に、疑問を持たずに従えるのか。その答えを、王家は測っている。
「分かってはいたが……」
逃げられないのは、最初から分かっていたこと。
陛下も、分かっていて自分を出した。
リサお嬢様を、守るために。
そう思えば、胸のざわつきも、だいぶ落ち着きを取り戻せた。
「ユリウスッ」
背後から呼ばれて振り返ると、淡い色のドレスに身を包んだエリシア様が立っていた。
「エリシア……様」
「だから“様”は要らないって言ってるのに」
軽く頬を膨らませてから、すぐに表情を戻し、淡々と告げる。
「今日、お父様から貴方に任務が出るわ」
「……任務、ですか」
「えぇ。あなたによ」
その言葉だけで、察してしまった。
「怖い?」
「いいえ」
即答した自分に、少しだけ苦笑する。
「怖くはありません。ただ……」
「ただ?」
「選択肢が、最初から一つしか用意されていないように感じます」
エリシアは、一瞬だけ目を伏せた。
「……それでも、あなたは断らない」
「王命ですから」
満足そうに微笑んだ笑顔を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。それが、善意だと分かっているから。
――案の定というべきか、謁見の間で告げられた命令は、まさに予想通りだった。
「国境付近で、不穏な動きがある」
「偵察……でしょうか」
「ほう、察しが良い」
王は、愉快そうに口角を上げる。
「非公式だ。事故として処理しても構わぬ」
「……承知致しました」
拒否権など、存在しない。
「無事に戻れば、褒美を取らせよう」
「望むものは、ございません」
「そうか――ならば、愛しい娘との縁談を、正式なものにしてもらおう」
その言葉に、胸が一瞬だけ強く締め付けられた。
リサお嬢様の顔が、脳裏をよぎる。
『どこにも行かないわよね?』
冗談めかした声。
不安を隠した瞳。
――あぁ。
「恐れながら」
「何だ」
「その件は、帰還後にお考え頂ければ」
「……生きて戻れる自信がある、と?」
「いいえ。ただ――」
生きている内に、約束を増やしたくない。
その言葉は、胸の内にだけ留めた。
「忠誠は、命を以て示せ」
「御意」
その一言で、全てが決まった。
夜明け前。
城門を出る前、誰も居ないと知りながら、ふと足が止まる。
ここに、リサお嬢様はいない。
それでも――
自分がどこかへ行くと知れば、朝早くても見送った。寝間着だろうが、全力で手を振ってくれた。
「……お嬢様」
声に出してしまった名前が、風に溶ける。
嘘をついたまま、何も告げずに去った。それでも、後悔はしていない……はずだった。
もし、あの時。
正直に気持ちを伝えていたら。
違う未来が、あったのだろうか。
考えても、答えは出ない。だからこそ。
「これで、良い」
誰に言うでもなく、そう呟いて、歩き出した。
この先に待つのが、忠誠の証か、終わりか。
それは――
まだ、誰にも知られていない。
***
国境へ向かう道は、夜明けと共に霧に包まれていた。
馬を進めるほどに、周囲の気配が薄れていく。人の気配も、獣の声もない。ただ、冷たい空気だけが肌を刺した。
「……静かすぎる」
独り言は、誰にも届かない。
指定された場所は、ヴァンノイン改革の象徴とされる地……。多くの戦からこの国を守ってきたのは、随分前の話。
勘というものは、こういう静けさにこそ発揮される。
「……やはり、来たか」
矢が抜ける音と同時に、背後から気配が迫る。
一人、二人。
剣に手を添え、霧ごしに人数を確認するが、すぐ後ろの崖に意識が削がれる。
「エルフェリアの犬め」
吐き捨てられた言葉に、わずかに眉が動いた。
「これが、狙いか」
何も言わずに、迫る気配を振り払うも、刃が脇腹を掠め血が滲んだ。奇しくも視界が一瞬、揺れる。
それでも、踏みとどまっていたはずの足が、僅かにズレた。理解した瞬間、すべてが繋がる。
ここに一人で来た理由。
非公式という言葉の意味。
事故として処理される、その結末。
浮遊感に見上げた空は、霞がかり、走馬灯のように記憶が捲られていった。
『ユリウスッ……どこにも行かないわよね?』
笑っていた、あの顔。
冗談だと思って、誤魔化した自分。
「……行きませんよ」
嘘だった。
ずっと。最初から、嘘だった。一番大事なことは、伝えられなかった。
それでも、お嬢様を守れた。
「リサ様、大変です! ユリウスが――」




