守れた
──逃げなければ。
一匹のスライムが、森の中をなりふり構わず逃げていた。
自分の体を構成する、夜空のような濃い藍色の体液が、血痕のように地面へポタポタと垂れていく。
柔らかいが決して貫くことのできないはずの表皮へ、いくつも禍々しく鋭い傷痕が刻まれていた。
木々の間を滑るように進むたび、恐怖に身が竦む思いがする。
『襲撃者』はこれだけ明るい昼間の空から、突然襲ってきた。
自分の知らない、恐ろしく鋭い攻撃だった。
スライムは、普通のスライムではなかった。
人間に名付けられたのはマザースライムという名で、母親のように温厚で人に優しく、人からは魔石をもらい、代わりに傷を癒やす聖水を与えることで上手く共生していけていると思っていた。
それは、勘違いだったのだろうか。
(余計なことを考えてる暇はない。とにかく、これを────)
向かう先は決まっていた。
交渉役として何度も顔を合わせた、この森の防人の一族が近くに住んでいる。
誰でもいいわけではない。
マザースライムに信じられるのは、最早彼らだけだった。
小さな山小屋が見えた時、遥か上空から一直線に何かが降ってきて、マザースライムの身体を貫いた。
防御も反撃も間に合わず、それはまた空へと舞う。
マザースライムは勢いのまま扉を突き破って小屋の中へと傾れ込む。
(そんな……)
頼りにしていた防人がいるはずの小屋の中には誰もいなかった。
すぐに色々な可能性が脳裏を過ぎる。
(裏切り? 共謀? 彼らがそんなことをするはず────)
状況を把握しようと全ての感覚器官を研ぎ澄ませると、微かに魔力の反応を感じた。
床の一部の板が外れるようになっている。
すがるような気持ちで床板を持ち上げると、そこには小さな子供が身を固くしてうずくまっていた。
マザースライムはそれを見て全てを察した。
恐らく、防人も襲撃を受けた。
ここへ子供を隠して、自分たちが囮になったのだ。
その作戦が上手くいかなかったことは、空からの襲撃者が物語っている。
マザースライムは自分の一部を切り離してその子の隣に滑り込ませ、床板を戻す。
切り離した小さなスライムに声帯を真似た器官を作る。
精度など気にする余裕もなかった。
「これを……」
半ば無理矢理、子供の手に明るい青色の魔石を握らせ、スライムは溶けて消える。
本体の方にもそれは伝わった。
「お前が頼れる人間はここだけだもんな」
姿を見せない襲撃者の声が空から聞こえる。
何らかの方法で声を伝えているに違いない。
外に来いと誘っているのが分かる。
しかし外に出れば、空からあの攻撃が来る。
だが、そんなことなどもうどうでもいい。
マザースライムにとって守るべき最重要なものはすでに変わっている。
(私は今日ここで死ぬだろう)
しかしせめて一矢報おうと、覚悟を決めて小屋から外に出る。
そこで目にしたのは、防人の人間たちの死体だった。
遥か上空から落とされたのだろう、かろうじて人の形が分かるほどに潰れていた。
(幼稚な挑発だ。しかし────)
今までの彼らとの記憶が一瞬で過ぎていく。
共に過ごした様々な季節、他愛無い会話。
静かな怒りが沸々と湧き上がるのを感じる。
「人間の交渉役は先に殺しておいた。これで心残りもないだろ」
もう言葉を交わす必要はなかった。
マザースライムは自身にできる最強の魔法『腐食』を発動させる。
触れたもの全てを腐らせるこの魔法はあまり使いたくないものだった。
そこまでしてでも、この敵に一矢報わなければ、死んでも死に切れない。
鋭い風切り音が聞こえる。
マザースライムはその音に合わせて、身体を大きく膨張させた。
広範囲に爆散させれば、その飛沫で空の襲撃者へ致命傷を与えられる。
しかし、その直後。
(な────)
マザースライムの胴体を凄まじい速さで丸太が貫通する。
恐らくは風の魔法で杭を発射する準備をしていたのだ。
膨張した身体ではその衝撃を吸収できない。
『腐食』の魔法で溶かす間も無く、マザースライムの身体は破裂することなくその場に萎み、傷口から漏れ出た体液を止めることもできず、縮んでいく。
「こいつ魔石を持ってねえ! 逃げてる途中で捨てたのか!?」
風に乗って悔しそうな声が聞こえる。
(守れた……)
薄れる意識の中で、マザースライムは勝ちを確信した。
敵は逃げる最中に魔石を隠したと思い込んでいるようだ。
命よりも大切なものを守ることに成功していたのだった。




