第六部九幕:ホームズは女好き?
【第六部九幕】
やあ、君。僕はホームズだ。そして、ホームズを愛するシャーロキアンの一人だ。
なのにーーシャーロック・ホームズと名乗っている。
第八幕では、アイリーン・アドラーを名乗る女性の心を傷つけた。
真実を知るためとはいえ、僕は最低だという自己嫌悪があとからきた。
アドラーは、本名を名乗った。
ーーハリエット・グレイ。
それが彼女の名前だ。
彼女は、郊外にいる親戚の家と、このロンドンのマリルボーン地区に住む叔母の屋敷を、行ったり来たりしていた。
「ある事情があって、私はそういう生き方をしなきゃならないの。」
そう言って、彼女は前の話をしなかった。
僕らは彼女から教わった叔母の家へと向かった。
馬車で行きたかったが、そんな出費はなるべくしたくなかった。
叔母の家まで歩いてる間、僕はワトソンと話をした。
「彼女の話、どこまで信頼ができると思う?」
「アドラーを名乗っているんだ。
そう簡単に信じない方がいい。
ボクらは女っ気はないし、
あーゆー美女には気をつけなきゃ。
お酒を分けなきゃならないハメになる」
「僕も同意見だ。ーーおい、ワトソン。アダムズさんを忘れている。君もたいがい悪党だぜ」
ワトソンの顔が歪んで、彼は顔を下に向けた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「正直、グレイさんの美しさは反則だよ。ボクはトキめいた。ホームズは?」
「もちろん。ーー心が揺らいださ。
彼女の別の顔も知りたいと思うぜ」
「原作ホームズも、そうなのかな?」
「ふんーーこれ以上は黙っとこうぜ。イエスキリストが女好きかって話題に通じるからさ。冒涜的な話題になる」
そんな話をしていたら、目的の屋敷についた。
僕らは、いかにもマリルボーンらしい、どっしりとした石造りの邸宅の前に立った。
煤けたレンガの色は、長年のロンドンの風雨と排煙に晒されて深みを増していた。
まず目についたのは、錆びついた鉄製の門だ。所々が剥がれ落ち、鈍い光を放っていた。
門扉は重々しく、蝶番が軋む音が聞こえてきそうなほどだ。
その奥には、手入れの行き届いた庭が広がってた。
庭の石畳の小道は、湿気を帯びて光を反射している。
三階建ての典型的なヴィクトリア朝のタウンハウス。
控えめながらも堂々とした佇まいだ。煙突からは煙が立ち上ってた。
家人が中にいるんだ。
玄関の濃い緑色のドア。
そこに真鍮製のノッカーが鈍く輝いていた。
このノッカーを叩く前に、僕はワトソンに軽く目配せした。
『僕が話す。君は黙ってろ』という意味だ。そろそろ酒が足りないと呟く頃だから。
ノッカーを叩くと、しばらくして重いドアが内側から開いた。現れたのは、質素な黒いドレスを着た、おそらく家政婦だろうか、年齢不詳の小柄な女性だ。彼女は僕らの顔をじろじろと見つめ、不審げな表情を浮かべた。
僕が「グレイ夫人にお目にかかりたい」と伝えると、彼女は無言で僕を上から下まで観察した。
「お約束などは、ございますか?」
「いいえ。ミス・ハリエット・グレイについて、お話をしたい事があります。非常に繊細なお話ですので、グレイ夫人と直接お会いしたいと思っていましてーー」
「お名前を伺っても?」と彼女は、ますます怪訝な顔をして言った。
「ホームズです。シャーロック・ホームズ。ベーカー街でコンサルタントをしてます」と僕は言葉を続けた。
彼女は一瞬だけ微笑んで、すぐに扉を閉めた。
ワトソンは不安そうに僕を見ていた。
「そろそろ、酒が切れそうだ。
見てくれ、指の震えが止まらない」
ワトソンは僕の顔に手を持ってきた。
その指はブルブルとかすかに震えていた。
僕は無視した。
そして閉じられた扉の前で、立ちすくんでいた。
このまま帰って、どの面さげてハリエット嬢に会えばいいのだろう。
僕の知性は、彼女に対して自分をマヌケな男に見せないように考え始めた。
でも、必要なかったようだ。
扉がひらかれ、先ほどの家政婦が周囲を見回して、すぐに入るように手招きした。
僕らは広々とした玄関ホールへと入った。
これから、ハリエット嬢の叔母に会う。どんなバアさんが現れるか分からない。気を引き締めていかなきゃいけなかった。
(こうして、第九幕は叔母の屋敷で幕を閉じる。)




