第六部八幕:仮面をつける理由
【第六部八幕】
やあ、君。僕はホームズだ。そして、ホームズを愛するシャーロキアンの一人だ。
なのにーーシャーロック・ホームズと名乗っている。
第七幕では、アイリーン・アドラーを名乗るシャーロキアンを虚実荘に泊めることになった。
なぜかって?
彼女は命を狙われていて、夜中に外に追い出すわけにもいかないからだ。
家政婦メイベル・アダムズのいる一階で眠らせた。
ーー僕は女というものを嫌いじゃないが、苦手だ。
過去のトラウマというやつが、いまだに僕の背骨に冷たい指を這わせてくる。
だからこの状況は、事件の匂いと同じくらい、僕には厄介だった。
翌朝、居間に集まった僕らの前で、アイリーン・アドラーは静かに語り始めた。
その声音には、昨夜よりもはっきりと『怯え』が混じっていた。
彼女の話は、こうだった。
「私は命を狙われている。
これはーー妄想の類ではないの。
実際に私の親戚が大怪我をしたから。
私を守るために。それとも偶然だったのかしら。
あの時、ロンドンの街の中を私たちは歩いていた。
その親戚、彼女と一緒にいたの。
私たちは姉妹のように似てて、仲良しなの。彼女、無事なのかしらーー。
彼女は馬車に当たったの。走行中の馬車にね。幸いーー当たりどころが良かったのか、彼女は最悪なことにならなかった。
今は、近くの病院で入院しているわ。
心配してる。
でもーー問題はその後。ーー誰かが私をつけまわしていたの。
男でした。叔母様の屋敷でも、その視線、なんなんでしょう。悪意なの?
ずっと嫌な感じがしてーー。
叔母様にも迷惑がかかると思ったわ。
このまま叔母様の屋敷にいたらーー。
誰かに頼ろうと考えましたわ。
でも、警察に相談なんてーー考えられません。
警察に相談したら、外聞が悪いでしょ。余計なことまで聞かれて、きっと何かしらの理由を、根掘り葉掘りきかれると思うの。それってーーとてもーー、その、ーー不愉快に感じますわ。
そしたら新聞にシャーロキアンのホームズというグループが募集されていたの。
シャーロック・ホームズよ。
あの名探偵になる人なら、
相談に乗ってもらえるかもと思ったわ。
すぐに叔母様の屋敷から出る事にした。叔母様には別のホテルに滞在すると言ったわ。心配かけたくなかったの。
私はアドラーになって、彼に会いに行った。昼ごろに出発したの。夜に会いに行かないわ。
そして、シャーロキアンのホームズの一人に会ったの。
あなたのいう帽子ホームズよ。
彼って、本当に帽子をかぶってたわ。
私は彼に不安に思ったコトの話をした。こんな風に。
そしたら彼は、ここには私を匿えないと言ったわ。それで、あなたの所に案内してくれたの。
その頃には、すっかり夜になってた。
実は泊まるところも、特に決めてなかったの。泊めてもらえて、助かったわ」
彼女の長い説明が終わると、居間には沈黙が落ちた。
ワトソンは髭の先まで固くなり、僕は彼女の表情にひどく胸を刺されていた。
僕はゆっくり息を吸った。
そしてーー少し残酷な役割を引き受けた。
「アドラーさん。なるほど、君は大変な思いをしている。
だがね、僕にはどうしても気に入らないところがある」
彼女の眉がわずかに動いた。
「昨夜ーー君は『理由なんてわからない』と僕らに言った。
でも君の話を聞くと理由は、遺産相続に関係すると思ったがーー、
その事に関してーー何か言いたいことはあるかな?」と柔らかく言った。
「叔母様の遺産がどれほどなのか、わからないんです。
でも、大した額ではないでしょう。叔母様には他に親戚はいます。多く。
私が得られるものは微々たるもの。
これを理由として命を狙われるなんて有り得ないわ。
だから、理由がわからない。
それが気に入らないと言われてもーーこまるわ」
「ーーうん。まあ、そうだろうね。
僕は他にもわかった事がある。
君がアイリーン・アドラーの仮面を好んで使う理由だ。この仮面は、シャーロック・ホームズすら打ち破る狡猾な知性の持ち主だ。
男社会を美貌と知性で踏み砕く巨人のごとき女性だ」
彼女は自分がほめられたかのように、目を細めた。
その様子をみながら、僕は言葉を続けた。
「その仮面をつけなきゃいけないのは、君が真逆の人間だからさ。
無知で無邪気で、誰かにカモにされてきた。女が本当の君だ......」
その瞬間、彼女の顔に露骨な嫌悪が浮かんだ。
美しい人間が怒ると、やけに絵になるものだ。
「たしかに、私が無知で無邪気で誰かにカモにされるから、アドラーの仮面を欲しがったとしてーー、それが私が誰かに命を狙われている理由には、ならないはずだわ」
そういうと彼女は、僕を見つめた。
彼女の声と反応で僕の心は、かすかに震えた。彼女はキレイだ。
「その通りだ。ーーだが、命を狙われていると君は言ったんだ。
そう感じた攻撃は一回だけなのか?
君の親戚の女の子が、事故にあった後にも、何かあったのでは?」
「ーーあったわ。でも、それは、そこまでじゃない。個人的なことよ」
「ーーなら遺産相続による可能性が高い。
君は無意識のうちに、その可能性を除外しようとしてた。だけど、そんなの関係ないね。
もし僕らが捜査するとしたら、その線でーーつまり、君の叔母様の遺産に関係してると思って”真っ先に”追うよ」
「叔母様に話をするつもりなの?」
「話すさ。ーーそれも君抜きでね」と僕は言った。
「……っ!」
アイリーンは椅子をぎゅっと握りしめた。
その細い指の関節が白くなる。
それから、まるで紐が切れたように力が抜け、
ゆっくりと、重力に逆らえないまぶたが閉じた。
一筋。
頬を伝った涙だけが、彼女の“本心”を訴えていた。
(こうして、第八幕は乙女の涙で幕を閉じる。)




