第六部七幕:疲労
【第六部七幕】
やあ、君。僕はホームズだ。そして、ホームズを愛するシャーロキアンの一人だ。
なのにーーシャーロック・ホームズと名乗っている。
第六幕では、僕らのハウスメイドではないシャーロキアンのアイリーン・アドラーが夜にやってきた。
これは、まずい状況なのかもしれない。
ここは、虚実荘221Bの三階、この狭いが落ち着く居間。
晩御飯を終えて、ゆっくりとした時間を過ごすはずが、美女がやってきた。
アイリーン・アドラーと名乗っていた。もちろん、本名じゃない。
僕と同じーーニセモノなんだ。
「ーーそうかい」と僕は彼女から視線を逸らした。
「新しいハウスメイド?僕らはハウスメイドを呼んだつもりだった」と彼女にとりあえず聞いた。
「君、新しいハウスメイド?」
「まさかーー1階の人から、勝手に上がっていいと言われたわ」
「職務怠慢だな。しかも、こんな時間にーー君のような女性が来るのはまずい。ウワサになる前に、帰りたまえ」
僕がそういうと、彼女は困ったような顔をした。
「これには訳があるんです」
「命に関わること?」
「ええ」
どうやら深刻な状況みたいだった。
「ーーわかった。部屋に入りたまえ」
そう言って、僕は彼女を招き入れた。
それから僕はワトソンのとなりに腰掛けた。
彼女は僕のソファに座って、話をし始めた。
「ねえ、あなた。私はアドラーよ。そして、アドラーを愛するシャーロキアンの一人なの。
なのにーーアイリーン・アドラーと名乗っている」と彼女は微笑んだ。
「私は、コナン・ドイルの書いた彼女の強さに惹かれて、この名前を時々名乗っているの。でも本気じゃないわ。マスクみたいなものなの。
私には、もう一つの名前がある。
あなたに、言うべきか悩んでいる。
言わない方が、お互いにいい関係でいられると思うの」
彼女は意味ありげに微笑んだ。
彼女が微笑むたびに、ワトソンのヒゲが震えた。
「私は命を狙われている。
理由はよくわからない」
彼女の口から、その言葉が出た時、ワトソンが立ち上がった。
「それなら、こんな所に夜来るなんて、おかしい!どこに住んでいるかわからないけど、馬車の音すらしなかった」僕はワトソンが興奮しているのに、うんざりした。酒の飲み過ぎだと思ったんだ。
ワトソンの言葉に、彼女は不機嫌そうに応えた。
「歩いてきたわ。でも、一人じゃない。もう一人のホームズに助けられたの。彼は、あなた方を頼るように言った」と彼女は言った。
「帽子ホームズだ……」と僕は呟いた。
彼はホームズの群れを集める建物は用意できるが、アイリーン・アドラーと名乗る女を匿う場所は持ってないようだった。それとも僕の煮え切らない態度への警告なんだろうか。
アイリーン・アドラーは、僕の顔をじっと見つめた。
そのヘーゼル色の瞳は、ただ怯えているだけじゃない。
助けを求めてはいるがーー同時に、こちらを値踏みしていた。
「あなたなら、助けてくれると彼は言ったわ。
“シャーロキアンのホームズの中で、一番マシなのはあいつだ”って」
「“マシ”か……誉め言葉として受け取っておくよ。」
僕は片眉を上げてみせた。
もちろん本音では、帽子ホームズにひと言文句を言いたい気分だった。
ワトソンが酒瓶を抱えたまま言った。
「つまり……また依頼人が増えたって事だよ、ホームズ」
「そうなるね」
僕はため息をつき、しかしアイリーン・アドラーから視線を外さなかった。
彼女の言葉、表情、呼吸の速さ……そのどれもが嘘つき特有のパターンには当てはまらない。
どうやら“本当に追われている女”のようだ。
となれば、僕らはもう逃げられない。
グレグソンとレストレードの板挟みに、さらに美女の依頼まで追加されたわけだ。
まったく、人生とは贅沢な苦労をさせてくれる。
「いいだろう、アドラー。
君の依頼を聞こう。
ただし、話を聞くのは明日だ。
君も疲れているかもしれない。
話したい事を整理してほしい」
彼女はすぐに頷いた。
その頷き方に、嘘はなかった。
ーー今夜、僕らの居間はにわかに“事件の匂い”で満たされた。
ようやく、僕らの知性を錆びつかせずに済みそうだ。
僕は暖炉近くの真鍮のベルコードを引いた。
一度、二度、三度ーーまるで亡霊でも呼び出すかのように、何度も鳴らした。
しばらくすると、ノックもせずにハウスメイドが部屋へ入ってきた。
いつものように僕を無視し、ワトソンをまっすぐ見た。
アイリーン・アドラーが小さく息をのんだので、僕は肩をすくめて示した。
「気にしなくていい。ああいう流儀なんだ」
「アダムズさん。彼女を君の部屋で眠らせたまえ。緊急事態なんだ」
「かしこまりました」とメイベル・アダムズは不機嫌なまま応えた。
「言っとくが、僕らは彼女に指一本も触れちゃいない。彼女は、そういう種類の仕事もしてないーー変なウワサを流せば、君の立場は危うくなる」
「ーーかしこまりました」と彼女が言った後、ワトソンが動いた。
「すみません。酒をください。お金はここにあります」と彼女に手渡しした。
彼女は一瞬笑顔になり、すぐに真顔にもどった。
「ワトソンさん。かしこまりました。
明日の昼には用意します」
彼女が去ろうとした時、ワトソンはさらにそっと金を手渡した。
「依頼人のこと、頼むよ」
アダムズは深々と頭を下げ、その“義理”だけはわずかに残していった。
扉が閉まり、階段の軋む音が消えていく。
居間は急に静かになった。
ワトソンは酒瓶を抱いて座り込み、アイリーン・アドラーは落ち着かない顔で暖炉の火を見つめていた。
僕はというと、ただ椅子にもたれながら思った。
ーー面倒事というものは、なぜこうも夜に寄ってくるのか。
昼間に来れば、もう少し優雅に対応できるものを。
だが、その夜は無事に一日が終わった。
明日にできる面倒ごとは、全部明日に回すことに成功した。
(こうして、第七幕は依頼人により幕を閉じる。)




