第六部十四幕:さようなら依頼金
【第六部十四幕】
やあ、君。僕はホームズだ。そして、ホームズを愛するシャーロキアンの一人だ。
なのにーーシャーロック・ホームズと名乗っている。
第十三幕では、ハリエット嬢は変装ができた。
彼女がアイリーン・アドラーを時々外しているという行為に気づくべきだった。僕は彼女を問いつめようとした。
そして彼女に拒絶された。
その後、彼女の叔母エミリーが亡くなった。
彼女の様子を見るべきなのか悩んだ。
それから彼女の叔母から生前に頼まれた事を、思い返した。
『ハリエットを頼みます。
彼女への遺産は、必ず彼女の手元に』
彼女への遺産は絵だけだ。
だけど本当にそうなのか?
彼女の叔母から僕に渡された金は、
依頼金にしては多すぎた。
考えてみたら、僕はあの叔母に利用されたのかもしれない。
僕が彼女にーーハリエット嬢に依頼金を遺産として渡すのが、叔母の試練なのかもしれない。
実は僕は少し依頼金に手をつけていた。何に使ったかなんて聞かないでくれ。個人的なものだからね。
彼女が僕の前に現れたらーーもし、来たら、僕は”あの金”を渡すかもしれなかった。
そして彼女は、僕の前に現れた。
前よりも、やつれていた。それでも、美しかった。まるで満足に血が吸えない吸血鬼みたいにね。
この虚実荘221Bの居間に僕らはいた。僕らーーハリエット嬢と、シングルソファに座った僕だ。牛革の四脚の安楽椅子は、僕の疲れた身体を受け止めてくれるんだ。例の金で買った。
暖炉の火が揺らめいて、僕らの影だけが揺らめいていた。
「あの、ワトソンさんは?」と部屋の扉の前で立ち尽くす彼女は、そう言った。
「彼は寝室にいる。ーー彼には君の秘密を話していない」と僕は囁くように言った。
「あなたなりの気配りかしら......」
「......たぶんね」と僕はそういうと、黙った。ワトソンに言っても仕方ない。彼は”例の金”で買ったスキットルを愛でているんだ。外の調査の時に重宝するからね。
「ここに来たのは......間違いだったかもしれない」
「そうかもしれない」と僕は苦笑した。
もっと買えば良かった。
僕はーーそれから立ち上がって、
彼女に分厚い封筒を渡した。
「本当は、もっと安全に渡すべきだろうけど。今の君を見ていたらーーすぐ渡すべきと思った」
「これは何?」
「君への遺産を渡すように、頼まれた。君の叔母さまにだ」と僕は依頼金であることを伏せた。
「どうして、あなたが?」
「......君が受け取らないと思ったんだろう。彼女は、会ったばかりの僕を信頼してくれた」
僕は少し微笑んだ。
「買い被りすぎだ。僕はこいつを猫ババするつもりだった」と軽めに言った。
彼女は僕を睨みつけた。
僕は気にせずに話を続けた。
「君は、諦めなきゃいけない。
企んでることをだ。
ーー君がよく分かっているはずだ」と多少のハッタリをこめた。
すると、意外にも彼女の反応は早かった。
「ーーわかったわ。あなたの言う通りにする。アシュワース弁護士に絵を売るわ。それで、私、アメリカに行く」
僕は拍子抜けと共に、彼女がアメリカへ行くと言ったことに衝撃を受けた。
「それがいいかもしれない。僕が君の道をあれこれ言う筋合いはないからーー」
僕は彼女の前でホームズであり続けるのが、難しかった。
仮面の下の僕か呼吸をし始めるんだ。
「このーーお金は、受け取っておくわ。そのーーありがとうーー心配してくれて......」と彼女は僕に言った。
「しばらく、ここにいなよ。全て上手くいくーー」と僕はそう言った。
彼女は微笑んで、部屋を出た。
この時、僕は彼女をムリにでも捕まえておくべきだった。
掴める距離だった。
なのに僕は、その一歩を踏み出せなかった。
あれは臆病だったのか、
それとも紳士のつもりだったのか……今でも分からない。
そうだ。
機会はあったのに、僕はムダにした。
彼女は、その後ーー姿を消した。
アシュワース弁護士に会いにいった彼女がどうなったかは、僕は本当に知らない。
グレグソン警部補が次の日、急いで僕のところにやってきた。
「ホームズ!大変だーー、インナーテンプルで火事があったーー。
死んだのは弁護士だ。
レジナルド・アシュワースだ。
こいつは、殺しだーー」
僕は耳を疑ったーー。
(こうして、第十四幕は火事により幕を閉じる。)




