第六部十幕:アドラーの叔母
【第六部十幕】
やあ、君。僕はホームズだ。そして、ホームズを愛するシャーロキアンの一人だ。
なのにーーシャーロック・ホームズと名乗っている。
第九幕では、アイリーン・アドラーことハリエット・グレイの叔母の屋敷へと入ることができた。
家政婦は、僕らをこの家の主人がいる居間へと案内してくれた。
「ホームズさん。これからお会いするのは、この屋敷の女主人エミリー・グレイ様です。失礼のないようにしてください」
その部屋の暖炉には火がくべられ、パチパチという音と、心地よい熱気が部屋を満たしていた。
壁には、深紅の壁紙が貼られ、その上には金縁の額に入った風景画がいくつか飾られていた。
窓は大きく、厚手のベルベットのカーテンが引かれているため、光は柔らかく、部屋全体を包み込んだ。
部屋の中央には、年代物のソファとアームチェアが並べられてた。
その前には小さなコーヒーテーブルが置かれていた。
僕らが部屋に足を踏み入れると、奥のアームチェアに座っていた老婦人が、ゆっくりと顔を上げた。
彼女が、ハリエット・グレイの叔母、グレイ夫人だった。
「珍しい客がいらっしゃったわ。シャーロック・ホームズ......さんね。ふふ。この家に、お招きするには面白すぎる方だわ」と彼女は僕らを見て微笑んだ。
「無作法かと感じられますが、ワタシの足腰はめっきりと弱っております。
このままでの挨拶を許してくださいね」と彼女は言った。
「マダム。こちらこそ、いきなりの訪問ーー申し訳ございません。
ハリエット嬢の事について、お話をしたいと思いましてーー」
そう言いながら、僕は部屋を観察した。
部屋の隅には、書棚があった。
中には古い本がびっしりと並んでいた。
棚の前には、小さな読書机が見えた。
机上に読みかけの新聞と、眼鏡が置かれてた。
ーーおそらく、ここが叔母の日常生活の中心なのだろう。
「あの子、自分の本心を見せないからーー心配していたんです。昨日、いきなり屋敷を出ると言ってーー引き止めるべきでしたわ」と叔母は言った。
「ハリエット嬢は、身の危険を感じていました。ここを離れたのは、マダムの身を心配してのことです」
「まあ、この屋敷に危険? 彼女の考え過ぎだと思いますわ。
ここには、遺産分配のために呼んだ弁護士と、庭の手入れをさせる庭師に、家政婦しか出入りはしてないのに」
「ーー本当に?」
「そうねーーもしかしたら、誰かがコッソリと入り込む可能性は、あるかもしれないわ。戸締りには気をつけさせてますのに」
「その方々は皆、顔見知りで?」
「弁護士の方は新しい方よ。
でも、前の弁護士の方から紹介されたの。信用してるわ」
「親戚の方がケガをなさったと、彼女から聞きましたが」
「ロンドンの馬車は、時々事故を起こすものだわ。事故に遭ったのはーーキャロラインと言いますが、ほんと、そそっかしい子なの」
「なるほどーー、遺産分配のお話が出たとのことですが、お体の具合は大丈夫なのでしょうか?」と僕は聞いた。
「この先、何が起こるかわからないですからね......。決められることは、決めておかないと、後々迷惑をかけるでしょう?」
「たしかに」
「ふふ。ワタシ、ホームズさんに質問をされているわ」
叔母は微笑み、近くに置いてあるティーカップに手を伸ばした。
「家政婦からコンサルタントと聞きましたが、何の相談を受け付けているの?」
「ある程度は、なんでも。
私の鋭い知性が役立つならーー。
ただし占いや降霊術、
妖精に関する相談は受け付けません。
あれは知性のない遊びですから。
夢中になる方の知性を疑います」
「あら、厳しいのね。」
「マダム。新しい弁護士とは誰ですか?どこに住んでいるのです?」と僕は彼女に聞いた。
彼女はしばらく黙っていた。
だけど、ある地区にすむ弁護士の名前を告げた。
僕らは彼を調べなきゃいけない。
ワトソンが震えるペンで手帳に書き込んだのを見届けた。
叔母は、僕の目をジッと見て聞いてきた。
「このロンドンについて、ホームズさん。
あなたは何を思いますか?」
「嵐の前の静けさ......です」
「ーー嵐は、どのような形をしていると思いますか?」
「嵐の形は分かりません。ただ、嵐に関わろうとする形は......蜘蛛だと思ってます。蜘蛛が嵐を引き寄せようと糸を吐いているんです」
「......まあ、怖い。ロンドンの蜘蛛ね。
まるで、そう、アーサー・コナン・ドイルの描いた彼のよう......」
「マダム。お互いに腹を割って話し合えませんか? 何を隠しているんです?」
叔母は首を横に振った。
「ホームズさん。ワタシは去るだけ許されている者です。神はワタシを近いうち、彼の国へと招くでしょう」
彼女は、そう言って目を瞑った。
「ハリエットを頼みます。彼女への遺産は、必ず彼女の手元に。
これは、ワタシからあなたへの依頼です。少し疲れましたわーー家政婦には伝えておきます。今日のところはお引き取りください」
そう言って彼女は、手元にあった呼び鈴を鳴らした。
家政婦がすぐにやってきて、僕らを玄関ホールまで案内した。
そして僕らは、かなりの額の小切手をもらえた。これは小遣いにしては、懐を温かくしてくれるものだった。
(こうして、第十幕は新たな依頼で幕を閉じる。)




