睡眠役Ⅲーサヨナラ
夜が来るのが怖かった。
横になるたび、頭の奥がざわついた。瞼の裏は赤く熱を帯び、耳だけがやけに冴えている。遠くを走る車の音。冷蔵庫の低い唸り。時計の針が跳ねる、ほんの小さな音。
真理が出て行ってから、三ヶ月になる。
理由は言わなかった。最後の日、彼女は小さなバッグを一つだけ持ち、玄関で一度だけ振り返った。何かを言いかけたようにも見えた。だが結局、何も言わなかった。ドアが閉まる音だけが、別れの言葉の代わりだった。
真理。
残されたのは問いだけだった。なぜ去ったのか。何が彼女をここから追い出したのか。その答えを探すように、私は夜ごと天井を見つめた。
仕事も手につかなかった。電話一本で「しばらく休みます」とだけ伝え、それきりだった。時間だけが、私を置き去りにして進んでいった。
私は心療内科の白いドアを押した。
「眠れてますか?」
机の向こうの女医が、問診票から顔を上げた。静かな目だった。私は小さく首を振った。
「薬で眠らせる方法はいくつかあります。通常の睡眠導入剤もありますが、あなたの場合……」
女医は問診票を閉じ、少し声を落とした。
「妄想療法という方法があります。治験段階ですが、ある種の誘導剤で、特定の情景を夢として持続させるんです」
「夢を、見るんですか」
「ええ。眠る前に、幸せだった情景を強く思い描いてください。その光景がそのまま続き、睡眠へ誘います。一日一錠。効果は約八時間。それ以上の服用は絶対に避けてください」
「副作用は?」
女医は一瞬だけ黙った。
「夢と現実の境界が崩れるかもしれません。最悪の場合、戻れなくなるかもしれない」
私は笑おうとした。だが、うまく笑えなかった。
その夜、錠剤を水で流し込み、目を閉じた。
思い描いたのは、真理と並んで歩いた夕暮れの河川敷だった。空は茜色に染まり、川面が揺れて光っている。真理は缶コーヒーを両手で包みながら、「まだ温かい」と笑った。その声を聞いているだけでよかった。
私たちは、他愛のない話をした。帰りに何を食べるか。駅前に新しくできた店は本当においしいのか。明日の天気は雨らしい、と真理が言った。
「じゃあ、傘を持っていかないと」
私がそう言うと、真理は少しだけ首を傾げた。
「あなた、いつも忘れるじゃない」
そう言って笑った。胸の奥が、ゆっくりとほどけていった。
だが、夢の終わり際。
真理の隣に、男がいた。
男の顔は見えなかった。ただ、その男は私が真理にしてやれなかったことを、さらりとやってのけた。真理の荷物を黙って持つ。車道側を自然に歩く。話の合間に、彼女の好きな店を覚えていて、何でもないように立ち寄る。真理はその男の隣で、私には向けたことのない柔らかな顔をしていた。
目が覚めると、焼けるような空虚感があった。私はまた、錠剤を飲んだ。
二度目の夜。
男の輪郭が、少しはっきりしていた。
真理の帰りが遅い。男が玄関で腕を組んで待っている。真理は「ごめん、電車が遅れて」と言った。男は黙って聞いていた。責めるわけではない。ただ、その目が笑っていなかった。
「連絡くらい、できただろ」
声は静かだった。
「ごめん」
真理が小さく言う。
「心配したんだよ」
その言葉だけなら、優しさにも聞こえた。だが男は、真理が鞄を置く間も見つめ続けていた。
「誰といたの」
「会社の人」
「男?」
真理は答えなかった。
私は夢の中で、それを遠くから眺めていた。
——少し器が小さいな、この男。
三度目の夜。
「さっきの電話は誰とだ」
男が真理に詰め寄っていた。声は低く、抑えられていた。だが、その分だけ圧が強かった。真理はスマートフォンを握ったまま、困ったように目を伏せている。
「会社の人だって言ったでしょ」
「名前は」
「どうしてそこまで言わなきゃいけないの」
「やましいことがないなら言えるだろ」
真理はしばらく黙っていた。そして疲れ切った声で言った。
「……もう、そういうの疲れた」
男の顔が強張る。
「どういう意味だよ」
「毎回、誰といた、どこにいた、何してたって……」
「確認してるだけだろ」
「違う。疑ってるの」
男が苛立ったように舌打ちする。
「お前が変な態度取るからだろ」
その瞬間、胸の奥で何かがざらりと動いた。私は夢の中の男を見ながら、奇妙な感覚に襲われていた。
——この言い方を、私は知っている。
——この空気を、私は知っている。
真理が静かに言った。
「最初は、優しい人だと思ってた」
男は黙った。
「でも違った。あなたは、私を好きなんじゃない。失うのが怖いだけ」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
目が覚めると、強烈な疲労感があった。眠ったはずなのに、少しも休んだ気がしなかった。三日目の朝、鏡の中の自分を見て、初めて怯えた。目の下は黒く沈み、頬はこけていた。私はそのまま心療内科へ向かった。
「夢の内容が変わるんです」
女医にそう訴えると、彼女は驚かなかった。
「誰かが出てくるんです。真理の隣に、男が」
「その男は、あなたにとって不快ですか」
「不快どころじゃない。真理を縛ってる。真理が不憫で仕方がない。何であんな男といるのか理解できません」
女医は何も言わず、新しい薬を差し出した。
「解毒剤です。妄想を睡眠のスイッチから切り離す効果があります。ただし、不完全薬です。この承諾書にサインしてください」
その夜、解毒剤を飲んだ。
瞼が落ちる直前、私はあの男への怒りを思っていた。だがその怒りは、どこか輪郭を失い始めていた。
夢の中で、男と真理が口論していた。部屋は薄暗かった。見覚えのあるカーテン。見覚えのあるテーブル。見覚えのある、壁の小さな傷。
「もう限界よ」
真理の声は震えていた。
「あなたといると息が詰まる。あなたはいつも私を疑って、縛って……」
男が怒鳴った。
「じゃあ何だよ! 浮気してないって証明しろよ!」
その言葉を聞いた瞬間、私は全身が凍りついた。
——それは、私が真理に言った最後の言葉だった。一字一句、同じだった。
真理は泣いていなかった。泣く力さえ、もう残っていないように見えた。
男がゆっくりと振り返る。街灯の光が窓から差し込み、その顔を照らした。
私だったーー
男は真っ直ぐに私を見つめて静かに言った。
「お前は、真理を愛していたんじゃない」
そして私を指差した。
「失うのが怖くて、閉じ込めてただけだ」
そして…ニヤリと笑った。
「器が小さくて、嫉妬深いヤツだ」
男はそこで、ゆっくり口元を歪めた。
「——普通じゃないくらいにな」
ーー嫉妬深さ……
私は息苦しさを感じた。
目が覚めた。
解毒剤が妄想を途中で切断したのだろう。三時間しか経っていなかった。天井を見つめたまま、動けなかった。
真理が去った理由が、ようやくわかった。私は愛されなくなったのではない。私が、愛せなくしてしまったのだ。疑い続け、確認し続け、怯え続けた。そしてその怯えで、真理を追い詰めた。
女医からもらった薬を、すべて捨てた。
机の上の真理の写真立てを手に取る。写真の中の真理は笑っていた。私の隣で。まだ、私が彼女を壊していなかった頃の顔で。
ふと思った。夢の中で、あの男を器が小さいと蔑んでいた自分のことを。
そして男の言葉を思い出した。
“普通じゃないくらい”ーー
——そうか…私は、自分自身にさえも嫉妬していたのだ。
真理に、まだ笑ってもらえていた頃の自分に。
私はテーブルの上のボールペンを握ると、写真の中の私にペン先を押し付けていた。
握る手に力が籠る。
薄いプラスチックの膜が歪む。
だがーー
私は静かに、写真立てを伏せた。




