第6話 幼き牙
夜明け前の森は、まだ眠りに沈んでいるようだった。
鳥の声もなく、ただ湿った土と草の匂いが漂う。
澪は、弟の姿を探して森を歩いていた。
昨日の夜、朔がふいに姿を消したのだ。母は気づいていなかったが、澪には分かっていた。あの弟の目の奥に、どうしようもない渇きが宿っていたことを。
「……朔」
呼んでも返事はない。
胸の奥がざわつき、不安が喉を締めつけた。
そのとき――森の奥で、かすかな獣の声がした。
澪は走り出す。枝が頬をかすめても構わずに。
木々の隙間から見えたのは、幼い弟の背中だった。
月明かりに照らされ、朔は倒れた小鹿の首筋に顔を埋めていた。
「っ……!」
澪の足が止まる。血の匂いが、夜気の中に濃く漂っていた。
まだ七歳の弟の小さな口元から、赤が滴っていた。
その姿は、どうしようもなく人間離れしていて――けれど、どこまでも幼かった。
澪は震える声で呼んだ。
「朔……」
弟は振り返った。
その瞳は紅く光り、涙に濡れていた。
「……止まらなかったんだ」
掠れた声で、朔は呟く。
小鹿の体はまだ温かく、足がわずかに痙攣していた。
澪は近づき、弟の肩を抱きしめる。
冷たいのは、夜気か、それとも弟自身か。
「大丈夫……大丈夫だから」
「でも……ぼく、殺しちゃった。動いてたのに、声も出してて……止まれなかったんだ」
嗚咽混じりの言葉に、澪の胸は締めつけられる。
――これが、父から受け継いでしまった血。
朔が避けようのない運命。
「悪い子じゃない。朔は悪い子じゃないよ」
澪は必死に言い聞かせる。
けれど、朔の震えは止まらなかった。
◇
母は、何も言わなかった。
森から戻った澪の腕の中で、血に濡れた弟を見ても、ただ強く抱きしめるだけだった。
けれど、夜が明けてから、母は澪を台所に呼んだ。
焚き火の灰を掻きながら、低い声で言う。
「……澪。あの子はもう、血を避けて生きてはいけない」
澪は俯き、唇を噛む。
母は続けた。
「あなたは人として生きられる。けれど朔は違う。あの子にとって血は、呼吸と同じ。生きるためのもの」
「でも……」
「でも、じゃないの。澪。あなたが支えてあげなければ、あの子はすぐに孤独に沈んでしまう」
母の目は強かった。
その強さは、かつて吸血鬼を愛し、そして人として生き抜こうと決めた女のものだった。
澪は拳を握りしめた。
「……分かった。朔を守る」
◇
それからというもの、澪は弟の渇きを誰よりも早く察知するようになった。
夜になると森へ行き、小さな獲物を探し回った。
その度に朔は泣いて、血を啜った。
最初は怯えていた澪も、次第にその姿を受け止められるようになった。
――弟は怪物なんかじゃない。ただ、違う生き物なだけ。
そう言い聞かせていた。
◇
ある晩、森に二人で出かけた帰り道。
澪はふと、星空を見上げながら口にした。
「ねえ、朔」
「なに?」
「もし、私がいなくなったら……朔はどうする?」
弟は一瞬黙り、ぎゅっと姉の袖を掴んだ。
「やだ。澪はいなくならない」
その声は幼く、必死だった。
澪は笑みを浮かべ、弟の頭を撫でた。
「そうだね。私はどこにも行かない。朔の隣にいる」
弟はほっとしたように笑った。
その笑顔に、澪は心の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
けれど――心のどこかで、もう予感していた。
いつか、自分たちが選ばなければならない時が来ることを。




