表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/6

第6話 幼き牙

 夜明け前の森は、まだ眠りに沈んでいるようだった。

 鳥の声もなく、ただ湿った土と草の匂いが漂う。


 澪は、弟の姿を探して森を歩いていた。

 昨日の夜、朔がふいに姿を消したのだ。母は気づいていなかったが、澪には分かっていた。あの弟の目の奥に、どうしようもない渇きが宿っていたことを。


「……朔」


 呼んでも返事はない。

 胸の奥がざわつき、不安が喉を締めつけた。


 そのとき――森の奥で、かすかな獣の声がした。

 澪は走り出す。枝が頬をかすめても構わずに。


 木々の隙間から見えたのは、幼い弟の背中だった。

 月明かりに照らされ、朔は倒れた小鹿の首筋に顔を埋めていた。


「っ……!」


 澪の足が止まる。血の匂いが、夜気の中に濃く漂っていた。

 まだ七歳の弟の小さな口元から、赤が滴っていた。

 その姿は、どうしようもなく人間離れしていて――けれど、どこまでも幼かった。


 澪は震える声で呼んだ。


「朔……」


 弟は振り返った。

 その瞳は紅く光り、涙に濡れていた。


「……止まらなかったんだ」


 掠れた声で、朔は呟く。

 小鹿の体はまだ温かく、足がわずかに痙攣していた。


 澪は近づき、弟の肩を抱きしめる。

 冷たいのは、夜気か、それとも弟自身か。


「大丈夫……大丈夫だから」

「でも……ぼく、殺しちゃった。動いてたのに、声も出してて……止まれなかったんだ」


 嗚咽混じりの言葉に、澪の胸は締めつけられる。

 ――これが、父から受け継いでしまった血。

 朔が避けようのない運命。


「悪い子じゃない。朔は悪い子じゃないよ」


 澪は必死に言い聞かせる。

 けれど、朔の震えは止まらなかった。


 ◇


 母は、何も言わなかった。

 森から戻った澪の腕の中で、血に濡れた弟を見ても、ただ強く抱きしめるだけだった。


 けれど、夜が明けてから、母は澪を台所に呼んだ。

 焚き火の灰を掻きながら、低い声で言う。


「……澪。あの子はもう、血を避けて生きてはいけない」


 澪は俯き、唇を噛む。

 母は続けた。


「あなたは人として生きられる。けれど朔は違う。あの子にとって血は、呼吸と同じ。生きるためのもの」


「でも……」

「でも、じゃないの。澪。あなたが支えてあげなければ、あの子はすぐに孤独に沈んでしまう」


 母の目は強かった。

 その強さは、かつて吸血鬼を愛し、そして人として生き抜こうと決めた女のものだった。


 澪は拳を握りしめた。


「……分かった。朔を守る」


 ◇


 それからというもの、澪は弟の渇きを誰よりも早く察知するようになった。

 夜になると森へ行き、小さな獲物を探し回った。

 その度に朔は泣いて、血を啜った。


 最初は怯えていた澪も、次第にその姿を受け止められるようになった。

 ――弟は怪物なんかじゃない。ただ、違う生き物なだけ。


 そう言い聞かせていた。


 ◇


 ある晩、森に二人で出かけた帰り道。

 澪はふと、星空を見上げながら口にした。


「ねえ、朔」

「なに?」

「もし、私がいなくなったら……朔はどうする?」


 弟は一瞬黙り、ぎゅっと姉の袖を掴んだ。


「やだ。澪はいなくならない」


 その声は幼く、必死だった。

 澪は笑みを浮かべ、弟の頭を撫でた。


「そうだね。私はどこにも行かない。朔の隣にいる」


 弟はほっとしたように笑った。

 その笑顔に、澪は心の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


 けれど――心のどこかで、もう予感していた。

 いつか、自分たちが選ばなければならない時が来ることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ