2日目
立ち上がってお風呂場に向かうH862を見送ってから長林は皿を片付け始めた。皿洗い等の片付けが終わった後、隣の部屋にH862が寝るための布団を敷いて部屋の隅を向き目を閉じる。
ちょうど同じタイミングでタオルをまいたH862が出てきた。
「りゅ…長林、一体何を?」
「ああ、出てきたんだね。ほら、年頃の姑娘の裸体を見るわけにはいかないだろう?万が一が起こらないように対策に対策を重ねているのだよ。姑娘の寝る部屋は隣だ。服も私のだけど一応用意してある」
いまだ壁と対面して話しかける長林に対し、H862は曖昧に頷き示された部屋に入り着替え始める。着替えるというのにドアを閉めない不用心さに長林は頭を抱えながら目を閉じて壁に額を当てる。
「長林、着替え終わりました」
「本当に?ちゃんと着替えたね?いいかい、振り向くよ?」
「はい」
恐る恐る振り向くと、宣言通りしっかりと着替えたH862が床に座って待っていた。長林は安堵のため息を付いて微笑む。
「よし、じゃあゆっくりお休み」
「はい、先に失礼させていただきます」
「あのね姑娘、こういうときは晩安というんだよ…」
長林は眉を下げて笑い、H862が寝る部屋の明かりを落としてドアを閉める。居間に戻ると近くの本棚からいくつか本と図鑑を取り出しては、忙しなくめくりだした。
日が頭を出し始めたころ、H862は音もなく起き上がり布団を片付け始めた。
元より寝ても不快感しかなく、疲労感も増す一方の生活だった為、横になれど寝ずに時が過ぎるのを待つようになっていた。しかも起きた時に感じる不快感の理由すらも頭に紗をかけられたようにぼんやりとしていてはっきりわからない。
随分前からH862は寝ると言う行為を諦めていた。昨日とて、長林に床を勧められた手前、一応は布団に入りはしたがまともに寝ていない。
布団を片付け終えたH862は改めて明るい中部屋を見渡す。もともとは長林が使っていたのであろうこの部屋は非常に簡素で1つの洋服棚、低い机、隅に積まれた医学書。
男やもめにウジが湧くとは言ったもののきちんと片付けられたこの部屋はウジどころかホコリすら見当たらない。
おそらくは長林の代わりに家の手入れをしている楊おばさんなる人物が丁寧に掃除しているのだろう。立ち上がって部屋の空気を入れ替えるべくH862は窓を開けた。
すると、その時の物音が聞こえたのかは知らないが長林が勢いよくドアを開けて入ってきた。
「早上好!(おはよう)姑娘!君の名前が決まったよ!」
「名前、ですか」
「うん!名前というものは生まれてから初めて与えられるものだ。昨日、姑娘にはちゃんとした名前をつけなければと言っただろう?名前っていうのは誰もが与えられる祝福であり、未来への願いが込められるものなんだ。だから『鶴望兰』、この花の名前はどうかな!」
窓際に立ってこちらを振り返る鶴望兰に分厚く古そうな植物図鑑の1ページを指差し、にこにこと笑う。
鮮やかなオレンジ色と青色の極楽鳥花が書かれたそのページと目の下にクマを作った長林のいっそ眩しいほどの笑顔を交互に見てH862は目を少し首を傾げる。
「ヘイホウラン…人の名前ではあまり聞いたことがない花の種類ですが」
「そうかな?このオレンジ色をみたときにね、姑娘の目の色にそっくりだなと思ってね。あと、この花の花言葉は『輝く未来へ』だそうなんだ。ぴったりだろう?」
会話が微妙に成り立っていない。恐らく一晩中寝ずに考えていたのだろう。だんだん目の焦点が合わず、頻繁に瞬きをし始めた。H862、今は鶴望兰と名付けられた少女は小さくため息をついた。
「自分にはもったいないことですが、ありがとうございます。喜んで名乗らせて頂きます。長林は一晩中起きて考えていらしたようですから、少しお休みになられてはいかがでしょうか」
「いや、今日は楊おばさんが掃除に来る日なんだ。俺が来ることはまだ伝えていないから起きていないと」
長林があくび混じりに言った瞬間、玄関のドアがガチャリと開く音がし、女性の声が部屋に響いた。