食卓
その後、腕の拘束も外されたH862は長林に連れられ、彼の自宅へと向かった。道中H862を連れて寄り道を挟みつつ一軒の共同住宅に到着する。
家に着いた長林はH862を招き入れると改めて部屋を見渡し、少し恥ずかしそうに頭を掻く。
「ほとんど帰らなかったし、結構狭くても大丈夫だったんだけどやっぱり二人だと狭いかも…ごめんね」
申し訳無さそうに謝る長林にH862はゆるく頭を振って「いえ、そんなことはございません」などと呟いて部屋を見渡す。
2人で生活するには狭いとは言っていたが、2つも部屋がある。1人は居間で寝ることが出来るし、台所もお手洗いも付いている。年季は入っているがよく手入れされた良い家だ。
何よりベッドと小さなタンスを1つ置かれた殺風景な監視付きの部屋で生活していたH862にとっては贅沢と言ってもいいほどの環境だ。お礼こそ言えど、文句など到底あるはずもない。
部屋を見渡していたH862の目はスイっと2枚の写真が挟まれている大きな鏡台に吸い込まれる。座れば上半身全てが映される程の大きな鏡のフレーム部分は花や鳥が彫刻されていてアンティーク調を醸し出していた。
H862の視線が姿見に向けられているのを見た長林は少し笑って説明した。
「軍ではこんな大きな鏡台を個人的に持っている男性はいなかっただろうね。こんなに長い髪だと鏡を使って整えないとだらしなく見えてしまうから、身だしなみの一環として持っていたんだよ。今は宿舎にこれの半分の大きさの鏡を置いてるからこれは使っていないけど…そうだね、姑娘が好きに使うと良い」
「…ありがとうございます」
H862は頭を下げて、視線を鏡台からそらして今度は本棚を目の端で見始めた。知らないところに連れてこられた猫のように控えめな動作で辺りを見るH862を長林は好きにさせることにした。
「さて、そろそろ夕食の時間だけど…なにか食べたいものはある?」
「食べたいもの…?」
まるで知らない言葉を繰り返すようなH862に長林は「軍は何をしているんだ」と頭を抱えたくなるのをこらえ、引きつりそうな口元を根性で笑みの形に留める。
「ええっと、じゃあ普段は何を食べているのか教えてくれるかい?それに合わせよう」
「普段は支給された栄養調整食品を、」
「よーし今日は私が腕によりをかけちゃおうかな!!」
テーブルを挟んでちょこんと礼儀正しく座るH862を置いてけぼりにして長林は腕をまくって立ち上がる。
その勢いのまま厨房に入り、何やら中華鍋を振る音が聞こえ始めたかと思うとしばらくしていくつかの湯気が立つ料理皿を持ってきた。
「はい!いっぱい食べて!」
自分の前に並べられた香ばしい香りの卵チャーハンや甘い香り漂う角煮、鼻を刺激する赤い鷹の爪が散らされた魚の煮物が乗った大皿を並べられ、若干困惑したような雰囲気のH862に長林はひとつひとつ説明し始めた。
「これは昨日楊おばさんが持ってきてくれたらしいんだ。あ、楊おばさんていうのは私の代わりにこの家の手入れをしてくれている人だよ。で、こっちの魚料理はさっき通った屋台のおじさんがいたでしょ?その人がくれたものでね。少し辛いかもだけど…まあ、慣れるから大丈夫!あとは、って話しすぎたね。さ、まずは一口食べてみようじゃないか」
「いえ、劉伍長さまがお先にお召し上がりになるのを待ちますので」
「そんなことしなくていいから!ほら!口を開けて!」
長林は匙でチャーハンをすくい、H862の口元に差し伸べる。言われるがままにH862が口を開けるとすかさず長林はチャーハンを食べさせた。
「どう?劉家特製の炒飯は。うちではお祝いのときや、めでたいことがあった日は羊肉を入れてたんだよ」
ゆっくりと咀嚼するH862を頬杖をついて見る長林の眼差しはどこか懐かしいものを見るような暖かさが含まれていた。
「それと私のことは劉伍長だなんて長ったらしい呼び方じゃなくて長林と呼んで。それと君の名前も考えないとね」
「ですが劉伍長さまは自分よりも階級が上ですので」
「いまはただの同居人だよ。まあ大佐から言われてるように、君を診る心理療法士ってのもそうだけどね。もう少し気を緩めてほしいな」
羊肉をチャーハンの中にいれる家庭は珍しいと思います。創作ですので試すのはしっかりと食べ切れる人のみでお願いします。