剥落
長林の静止も虚しく。身を強張らせる鶴望兰をスイッと指差し、青ざめる彼女に構わず良然は笑いながら続ける。
「そいつ『死有分』だろ?目で人殺せるって噂されてっけど、さっきガッツリ目あったよな?俺死んでねえしやっぱガセか?あーあ、あの邪眼の、ゥ゙グッ…!!ちょ、うりんお前ホント、っいってぇ…!」
「黙れって言っただろ」
言葉の途中で股間を押さえてその場にしゃがみこむ良然は恨みがましそうな声で長林の名を呼ぶ。一方の長林はフンと鼻を鳴らし、良然を見下ろした。
「基地内での暴力は…!規律違反だろ…!」
「私は事前に警告はした。その警告を無視した結果に過ぎない、つまり自業自得だ」
「だからって蹴らなくてもいいだろ…!死ぬほどイテェ…!!」
「私が知ったこっちゃないな。大体蹴られた程度で死ぬわけが無いから。鶴望兰、こんなやつ見ちゃだめだよ。夢に出てきちゃうからね」
今もうずくまって痛みに呻く良然を無視し、長林は混乱したままの鶴望兰の背中を押して移動した。
「…ごめんね、もっと早く止めておくべきだった。完全に私の判断ミスだ」
眉を寄せて謝る長林に鶴望兰は少し首を振って答える。
「いえ、お気になさらず。自分も…その、余計なことを聞いてしまいましたので…」
そっと視線を床に落とし、珍しく感情を見せた鶴望兰に目を丸くしながら長林は少し微笑む。
「気にすることはない。あれが勝手に話しだしたのを聞いたことを咎めようなんてこれっぽっちも思ってないからね。まあ…いつかは話さなきゃいけない事だったのかもしれない。私の本棚の中に診察録があるのを知ってるよね。あ、別に責めてる訳じゃないからそんな顔しないで。ね?姑娘に本棚の本を読んでいいよって言ったのは私だし。位置が変わっていたから、まあ読んだんだろうなとは気付いていたし。
ええと、困ったな。何から話せばいいのか…ちょっと長くなるんだよ。まず、多分気になっているであろう診察録の患者は私の母親だよ。私の初めての患者で、心理療法士になったきっかけの人だ。
そうそう、楊おばさんの妹の、そう。で、母親は心神喪失状態だったんだよね死ぬまで、10年間、か」
長林は指折り年数を数え、自分でも驚いたように目を見張り呟く。
「まあ…そうだね、あの診察録は心理療法士としてつけ始めたものだから2,3年分しかないけど10年間その状態が続いていたんだ。ごめんね長くて。おまけに聞いてて楽しくないし…不幸語りみたいでちょっと恥ずかしくなってきたな…ここまで来たら全部話すね。
本当に申し訳ないけどちょっとだけ聞いて欲しいかな。それで、心神喪失になった原因だけど、姉の自殺だと思う。いや十中八九それが原因だね。自慢じゃないけど姉は近隣の村でも有名な才色兼備の美人だったし、もう少し生きていれば…なんて、所詮はたらればの話か。」
ふっと鼻で自嘲的に笑う。
「そんな姉が自殺してしまったのは母親にとっては予想外の悲しみだっただろうね。それでなくても母親は姉に起きた悲劇に心を痛めていたから。二人の辛さを知らぬは幼き末の息子。呆れたことに私は姉が自殺した理由も、母が何に心を痛めていたかも6年前までは知らなかったよ。母親が心神喪失になったあとは、私を姉の名前で呼ぶようになった。姉が死んだことを忘れていたんだろう。それに幸か不幸か、姉と私の顔は双子でもないのにそっくりだったんだ。そこから私は母親の前では『璋月』として振る舞った。髪を伸ばして、髪型を揃えた。鏡の前で璋月の写真を見ながら、璋月らしい表情を練習した。表情だけじゃない、言葉遣いから立ち振舞まで。お陰で母親は『長林』をすっかり忘れてしまったようだった。ああいや違う、死ぬ直前には存在を思い出してくれた。認識はしてくれなかったけど」
はは、と少し笑うと言葉を失った様子の鶴望兰を見て眉を下げて微笑む。
「ごめん、暗い話は聞きたくなかったね。こんな話、誰にもしたことなかったからどこまで話していいのかわからなくて」
「気にしないでください…自分の話を長林が聞いてくれたように、自分が長林の話を聞きます。長林は自分を家族のようだと言ってくれました。そして話を聞くことはちっとも迷惑ではないとも。自分に家族とはどんなものかはわかりませんが、家族は話を聞いても迷惑ではないのでしょう。ならば長林が謝ることはないはずです」
長林は鶴望兰の言葉に呆気にとられたのか目を大きく見開いたが、次第に相好を崩し「ありがとう」と呟いて鶴望兰の頭をそっと撫でた。
「死有分」中国の民間信仰の死神の名前です。白いのと黒いのとでセットになっており、こちらは黒い方です。蛇足ですが黒い方は「見吾死哉」我に出会えば死ぬ、という意味の文字が書かれた帽子を被っているそうです。(ウィキペディアより)




