神は何か
神とは信じられる事物を指す。神という概念は信じるという行為により生まれる故、誕生した時より信じられる物そのものを指すのだ。人はいろいろなもの信じ、信じられるものを持っている。ゆえに、どんなものでも神になり得る。金、勉強、時間。例を挙げればきりがないが、人が信じる限りそれはそのものでありながらも神という概念を持つ。
多くの人間はそれを頼りに生きている。内に神を飼っているのだ。何かに困ったときそれが解決してくれると信じる。自らに立ちはだかる壁を壊してくれると信じている。幸せに生きるためにはそれさえあればいいと信じている。
いずれも自分勝手な妄想であり、実際にそれが自らを救うとは限らない。神とはただ信じられる物という概念であり、その概念自体が人に力を与えることはないからだ。なおここでいう力とは、生きるのに必要な知識や勇気といった抽象的なもののことである。しかし、実際に神に救われた人間は存在する。そして多くの人間も気づいていないだけで神に救われていると私は考えている。ただの信じるという行為のなかでうまれた神という概念に、だ。神はどうして人を救えるのだろうか。
神は信じられることで人に力を与えられるようになるのだ。人は何かをしようとしたときに、絶対的に信じられる何かがあれば、それだけで一歩踏み出せる。何かを信じているということ自体が根拠になって、行動の礎となるのだ。逆に、何も信じていなければ、したいことが何なのかを調べつくし根拠を得るまで行動に躊躇いが出る。つまり、信じることで神という概念を得た事物は人に勇気を与える。その勇気が人を救ってきたということだ。
しかし、ここでふと違和感を感じないだろうか?実際に人に力を与えているのは神ではなく、信じるという行為そのものではないかと。また。別に神という存在を間に挟む必要はないのではないかと。まったくもってその通りだ。私は本来神というのは虚像だと考えている。ただ、信じることにより得られる力を神と名付けただけだと。
しかし、ある時、宗教家たちが神の形を定義してしまった。神は力を与えてくれる超越的存在だと広め、神様という新たな存在を作ったのだ。その結果、神様が人間を作っただとか、神様は人に試練を与えるだとか、くだらない妄想が世に蔓延ってしまった。何かを信じて神が生まれるのではなく、自然現象などを勝手に試練ととらえたりして、それを与える神様という存在を信じるようになったのだ。
こうして神は力を名付けただけのものから、システムや超越的な力を持った人のような存在へと生まれ変わった。ただ、これは悪いことのみではないということをいっておこう。神は本質を失ったという考え方ももちろんできるのだが、要は自らの内ではなく外に神様を移しただけなのである。自らの内にあるときはそれ自体が力であり、外にあるときは力を与える超越的存在になった。ただそれだけのことである。外にある神様は規則さえ守り信心を抱けば、加護をくれるだとか形式化されたのだ。ある意味では、信じやすくなったのである。
また、こうして形を得た神様には少し面白い特徴があると考えている。それは信じる人が増えるほど、神様の力が強くなるということだ。各々が各々の神を信じるのではなく、作られた同じ神様を信仰するという仕組みゆえ、信奉者が増えるほど人々は、「あの神様はそんなにたくさんの人が信じるだけの価値があるんだ」だとか「信仰すれば私も救われるかも」という風に、神様への尊敬が強まる。「みんなが信じてるんだからそれだけすごいんだ、私もきっと救われる」という状況で人は、より強くより深く信仰をささげるだろう。
ただ外の神様には問題もある。ただ信じるだけだった時とは違い、信じるには、信心+規則を守るという二つが必要になった。この規則というのは、神様ではなく人が定めたものだ。今の世に必要なものは何か、どうしたら良い世にできるだろうか、俺が利益得るにはどうしたらいいかとか、そういった作者の作為を含んだ規則を守らなければ力を得られなくなってしまった。それが現代にそぐわないルールや価値観であっても守らなければ力は得られず、強制されるようになってしまった。これは内に神を秘めるときとの大きな違いだ。
また、外の神様を私はウイルスのようなものだと考えている節もある。最初は規模がちいさいものの、一度広がるとどんどん広まってしまう。それに内の神より外の神様に先に出会うと、内の神を信じるうえで邪魔になってしまうと予想している。外の神様は明確な形を持ちそれを信じるためのルールがある。そしてそれを至上に考えよという教えはもはや奴隷を生み出すのと変わらない。本来加護や力を得るためにある外の神様が人を縛り奴隷化する。外の神様は本来の神としての意義を失い、ただのシステムのように形を変えることがあるのだ。もちろん、所詮は外の神様についてどう信仰するか、どう解釈するかの話であり正しく信仰できればそうはならないだろう。ただし、それはとても難しいことなのだ。特に、外の神に幼いころから触れている人には。幼いころは自我が弱く、ルールを厳しく定められればそれがこの世の全てに見えてしまうだろう。
それをふまえて考えると、外の神を奴隷化せずに信仰するためには、自分なりの世界の解釈が必要だ。この世界は多くの人の意志により、常識という形で物事の意義や善悪が解釈されている。だからこそ、自分なりの解釈をするのが重要なのだ。必ずしも多数派が正しいとは限らないように、それに流されるままでは自分にとって何が重要なのか、何が善で何が悪なのか、そして何が信じるに値するのかなどを見つけるのが難しいのは自明だろう。私が外の神様や内の神といって神を解釈しているのもまた同じ理由だ。単に、宗教に出てくる存在。架空の存在。救いを与える存在。そのように世間の解釈通りに神を考えていては、私は神を信じられなかった。だから深く考え、結果このように思ったのだ。
最後に私は神を内に秘めている。何の神を秘めているかといえば自分自身である。私がこの結論に至り信じるようになったのは簡単な理由だった。この世界はいくら解釈しても、状況や自分とのかかわりなどで変動的な解釈になりがちだった。「この時はこう解釈」とか「仲がいいからこの人はこう解釈」とか結局、他のものの解釈を一意的にするのは無理があった。しかし、自分自身については違った。自己を分析して自分を解釈するほど明確になっていった。そしてある日私は信じるに値すると判断できた。ゆえに我は神である。己を信じて、信仰で得た力をいかして生きれる。人であっても、自らに宿した神を使えるならば、それは神といって過言ではないだろう。




