第三話
そして、私は真新しい制服を来て、中学生になった。
中学校での生活は劇的に変化したと当時の私は思った。
実際、交友関係は刷新され、土曜日の登校や学業の複雑化など、学校での立ち振る舞いにも変革が訪れた。
しかし、中学校には天野がいた。それだけで何物にも代え難い安堵を齎してくれた。
部活動はテニス部に所属することにした。
何となく運動部へ入ろうとは思っていて、剣道部など思案したが、結局、母がやっていたテニスを始めることとした。
ここでも母の呪縛が垣間見えるのだが、しかし、こればかりは感謝するべきだろう。
テニス部の友人とは馬が合い、その後の人生において格別の友と呼べるくらいには親しくしたからだ。
特に、一人の人間との関わりは私に大きく影響を与えることとなる。
さて、天野についてだが、入学式の際に渡されたクラス表を注意深く見たが、同じクラスではなかった。
それどころか、毎年、クラス替えがあるにも関わらず、高校も含めた六年間で只の一度も同じクラスになることはなかった。
その結果、彼女の存在は私の中でますます膨れていった。
日に一度、目にするかどうかという頻度でしか現れてはくれない。
殆ど会えない、喋れないという状況によって、顔だけでなく、天野の容姿、人格まで日に日に脳内で美化された。
中学校へと進学する折、私は母にスマートフォンを買い与えられた。
パソコンも所持していなかった少年からすれば、一気に広がりを見せた世界は驚きに満ち満ちていた。
私たち男子中学生の主な領域は専らゲームであった訳だが、とは言え、ネットの莫大な情報量は私を圧倒した。
そんなネットの中でも、中学生が関心を持たざるを得なかったのがSNSである。
特に、ラインの存在は、私たちの交友を極めて煩雑にさせた。
しかし、悪いことばかりでもなかった。ラインのメッセージは顔を突き合わせなくてもできる。
だから、私は既に出来ていた一年生の全体グループから、天野のアカウントを追加することで、彼女と接点を持つことが出来た。
小学生の頃から、同じ学び舎を共にしていたとはいえ、私たちの間柄は決して親しいとは言えない。
にもかかわらず、プライベートな会話を続けることが出来るかと気掛かりであったが、今も物書きをしている辺り、少なくとも当たり障りのない文章を考える才はあったようだった。
そうして、私は中学生になって、ようやく天野の趣味嗜好を知り始めた。
意外と、俗っぽいところもある様で、私の天野像とは乖離が見られた。
だが、それでも、好奇が収まることはなく、彼女を隅々までを知りたいという衝動はより盛った。
特に、あるアニメが好きだという話になった際は、その日の内に、レンタルビデオ屋で全話を借りて二日で見終わったのを強く覚えている。
どうやらこの時期の彼女の影響を私は今も受けている様で、そのアニメは何度も見たことだし、彼女のサブカルチャー好きが私にも伝播して、漫画、アニメを親しむのと同時に、そうしたサブカルチャーの原作に用いられるライトノベルに魅力を感じて、物書きを始めた。
だが、私は、初めてのネット上でのやり取りにもう少し注意するべきだった。
顔を合わせない以上、私は距離感を図らず、一方的に会話を投げつけていた。
その結果、天野からの返信は日に日に遅滞する様になり、そして、返信に一週間を要し始めた頃、私と天野の共通の知人から学校で話しかけられた。
「天野さん、君とのラインうざがってるらしいよ」
その後、私は天野とのラインの一切を絶った。
きっと節度を持てという忠告だったのだろうと、今にして思えば分かるが、当時の私は天野に嫌われたと断定し、その事実に絶望して、交流を断絶した。
天野に限らず、メッセージアプリは今でも苦手である。
ただ、それでもレンタルビデオ屋には足繁く通った。
私には恋愛感情も結婚願望もあった。それ故、高校に上がった際に焦燥した。
高校は中学校と同じ敷地内にあり、外部生が少々入ってきた以外に、学校生活に差異はなかった。
しかし、時間が残されていないという感覚は常にあった。卒業してしまえば、学校という閉鎖的な空間に留まる天野が手の届かない場所に行ってしまう気がした。
私は恋愛には完全性を求めた。
私にとって天野以外の女は悉く妥協である以上、それらと恋愛に発展することはあり得ない。
しかし一方で、私が天野と一緒になるというのも甚だあり得ない。
だが、時間は迫っている。
私は時間によってどちらにも傾くことはない矛盾の天秤を押し付けられていたのだった。
その折、テニス部の友人が私に発破を掛けた。
「お前、このままじゃ一生後悔するんじゃないの」
友人は趣味が合う男だった。
天野の影響でサブカルチャーにのめり込んだ中学生時代だったが、そんな中学の時から友人は漫画やアニメの話が分かる人間で親しくしていた。
友人は明け透けな性格で、直接的な物言いをする人間だった。
だから、それは腹心からの言葉であると察した。
後悔とはまた興味深い言葉選びだ。
思えば、後悔ばかりの人生だった。
だが、そんな負の感情も全て天野を好くことで、或いは天野を好いている自分に酔うことで紛らわしてきた。
既に、天野は私を構成する上で不可欠な精神的支柱になっていた。
それを打ち壊してでも行動する勇気はなかった。
「告白はしない。嫌われるだとかそういうんじゃなくて、もうこれ以上、迷惑を掛けたくない」
それは、紛れもない本心の一つだった。
長い間、同じ時間と場所を共有してきて、何となく天野の性根が見えてきた。
彼女は、目立つことを好まない。私との最も大きな違いだ。
そのすれ違いから、私は彼女に苦しい思いをさせたのだ。
私が天野を好きだという事実によって、揶揄われることもあっただろう。
天野が私のことを心の底から憎悪しているとは思わないが、良くない心証を持たれていることくらいは自覚していた。
「だけど、お前は決断できていない。迷っている」
確かに、それも本心の一つだ。
私はこの想いを昇華したいと考えている。
たとえ、それが天野の顔を歪ませることになっても、私の満足の為だけに、想いを伝えたい。彼女に依存してきた人生においての我儘だ。
「そうだな」
私は肯定とも否定とも言えない言葉で濁した。だが、友人はそれを肯定と捉えた様だった。
「渡辺。賭けをしよう」
「何の」
「お前が振られたら俺が飯を奢る。だから、成功したらお前が俺に飯を奢れ」
「何で」
「そしたらお前に損はないだろ」
私は良い友人を持ったと思った。
それに尽きるばかりだ。
私はその後も悩み抜いた。
そして、友人の言葉に乗せられてみることに決めた。だが、同時に一つのルールを自らに課した。
それは、人生において告白はこの一度きりだということだ。
自身のエゴと彼女への迷惑という相反する気持ちに折り合いをつける為の折衷案がこれだった。私は、不安を押し殺して期を待った。
そして、修学旅行の最終日前夜。
私はあの日から動いていなかった天野とのラインで彼女を呼びつけた。話す内容は予め決めていた。
今までの想いの丈の十分の一も言葉に乗せられなかった気がするが、それでも、彼女への確かな想いを綴った。
天野は優しい人間だった。
少しばかり苦い顔をしつつも、限りなく優しい言葉で私を否定した。
天野にとって私はそれに値しない男ということだった。
分かっていた結末だった。
薄い可能性であることは自覚していたし、悲愴も絶望も織り込み済みだった。そのはずだった。
だが、どこかで期待していた。
もしかしたらと思っていた。そうした一抹の希望は、私の涙腺をとめどなく刺激した。
その夜は人生で最も長く感じられた。
その後は、穏やかな老後だった。
大学生活は凡庸を極めた。天野のいない生活は新鮮で、戸惑いもしたが、慣れてしまえばなんてことはない日常だった。
サークルに入り、友人を作り、酒を浴びる様に飲んだ。
そんな中で、私は天野の顔も声も忘れていき、大変、意外なことに恋人が出来た。
大学生になってからというものの、私は常に仮面を被っていた。
醜悪な想いを隠す為の凡人の面だ。
母親に否定され、天野に否定され、私は膨れ上がる承認欲求を抑える為に努めて偽善を振り撒いた。見せかけでも善を撒けば、皆はいくらかの善を私に返してくれた。
だから、好青年を演じ続けてきた。
そんな面を祐美は惚れ込んだらしい。
サークルの後輩だった彼女は私に告白をしてきた。
私は、完全性へのこだわりを仮面の奥に押し込んで、それを受諾した。
決して、天野への想いが衰えた訳ではない。
だが、嘘でも祐美のことを愛し続けていたらいつかその気持ちが真になるかもしれない。その可能性に賭けたのだ。
そして、明日。私は佑美と結婚する。
賭けは中途半端な結果に終わった。
佑美への愛が全て偽りという訳ではないが、しかし、いつまでも脳裏の片隅には天野が巣食っていた。
ならばなぜ、結婚するのか。
私はどこかで真人間に憧れを抱いていたのかもしれない。
普通に恋をして、普通に結婚して、普通に子供を作って、そうした普通にどこか憧れていた。その憧れに祐美を巻き込んだのだ。
私は、天野との接触を限りなく絶った。
それは物理的な意味に留まらず、SNS等の情報媒体を含めてだ。
決別という意味も勿論あるが、それよりも、私は天野に男が出来ることを許せなかった。
彼女には何者にも犯されることのない処女性を願った。
だが、いつまでもそうはならないことも理解している。
だから、私は彼女との関係を完全に絶ち、この世界から彼女を追いだした。
結果論だが、私は選択を間違い続けてきた。
天野を振り切って蛇島に想いを伝えていれば、今の様な結末にはならなかっただろうし、天野と違う中学校に進んでいれば今よりももっと他人だったに違いない。
この気持ちは純愛ではない。ただの執着だ。
他の女にも目移りするくせに、しかし、私の中の生真面目な強迫性がそれを律するのだ。
だから、私はその矛盾した気持ちごと澱の如く奥底に沈めた。
この手記を書き始めたのは、身を固めるにあたって、天野への気持ちの整理をつけておきたかったからだ。
それ以上でも以下でもない。
だが、もしも、この手記が誰かの手に渡ることがある様ならその時は、この手記を渡辺裕美に届けてほしい。
私は最期の時まで凡人を演じるつもりだ。
それが、彼女を騙して結婚した男としての責務だと心得るからだ。
しかし、一方で罪悪感がないわけではない。
だから、もしもこの手記が私の手を離れることがある様なら、その時は、どうかこの私の赤裸々な精神を裕美に晒してもらいたい。
それが、どうしようもなく卑怯な男のただ一つの願いだ。
渡辺翔太郎