第二話
彼女は宇宙だった。
それ程までに彼女との出会いは破滅的であった。彼女という存在そのものが私にとっての全くの価値観を破壊し尽くしたのである。
私の生きている理由は彼女の存在であり、彼女が死ぬのならば私の人生は露ほどの重みもなくなるだろう。
そんな彼女は、私の齢六の時に降臨した。彼女の身姿の一切に気を取られ、私は目が離せずにいた。
名も知らぬ、彼女に私は遍く心を奪われたのだった。
後に知る名は、天野理華だった。
小学校の入学式で愕然的な出会いをしたが、その後は特に何もない。
まもなくして、この気持ちが思慕であると気づくが、とは言え、天野にそれを伝えようとは微塵も思わなかった。
そもそも、彼女は内向的な性格であり、無理に私の方から近づいて、嫌われたくなかった。それは、まさしく絶望であったからだ。
さておき、今になって考えてみると、不可思議で同時に妬ましいとも思える出来事が席替えである。
男女で席をくっつけるという席割りは、果たして中学校以降の学校生活を知ってしまうとどうにも羨ましい。
「それでは、くじを引いてください」
女教師が教壇に紙切れを撒き、それを混ぜながら私たちに言った。
出席番号順だったので、早々に天野はくじを引き、席割りが書かれた黒板に自身の名を書き込んだ。
天野の隣は十三番。つまり、私はこれを引けば良い。
「次、渡辺君」
私の名前が呼ばれた。
緊張と興奮を抑えて、私はくじを引く。
絞る様にしてじっくり数字を確認すると、それは十三番だった。
結局のところ、小学校の間で、天野とは六年間、一緒のクラスだった訳だが、たった一度、二年生のこの期間だけ隣同士であった。
これは、今でもだが、二人きりの場面では特に人の顔を見て話すことが不得手である。
それに加え、天野相手ということもあって、思い返してみると、当時、私は殆ど天野の顔を見ていなかった。
だからか、私は天野に理想の顔を押し付けていた。
顔を見ないことによって、彼女の顔面を脳裏で美化して、それを好いていた。生来、私は人の顔を覚えることが苦手なこともあり、あれ程の激情を抱いていた天野の顔でさえ、今の私では朧気である。
母は苛烈な人だった。
小学生の世界というものは極限られたもので、大抵は家庭と学校で完結する。
しかし、小学生の私にとって家庭はあまり居心地の良い場所とは言えなかった。
母は母で自分の世界というものを確立していて、自身の価値観以外の事象は悪であると断じてしまう人種であり、自身が絶対の正義だと信じて疑わなかった。
そんな母は自身の正義の内側であれば、私に優しくしてくれた。
しかし、そうでない事をすれば途端に般若の様になった。
小学四年生の後半から、私は中学校に向けての受験勉強を始めた。
と言っても、母が私を塾に入れさせたという方が正しい。
その勉強においても母は厳しかった。少しでも反抗的な態度を取れば、怒号が飛んできて、それでも反抗すれば今度は張り手が飛んできた。
どうやら、母の脳内には親と子が明確にカースト分けされているようであった。弾かれた頬の痛みは今も忘れない。
結果を先に言うと、私の中学受験はある程度の成功を収める。
しかし、その後も、母は受験の成功を自身の手柄であるかの様に誇っていた。
その度に私は神経を逆撫でられ、心底落胆させられた。
そんな母に育てられて、正常な人格が育つとは思えない。
普遍的な人格が良いかと問われれば、そうではないのだろうが、しかし、今の私の人格が極めて捻れている自覚はあるつもりだ。その一端は間違いなく、母であろう。
当時の私は闇を抱えていた。正体が見えず、絶えず私を圧迫する闇。
不味いと分かっていながらも消しゴムを口にし、火傷すると分かりながら鉄板に触れた。
触れたくもないのに、闇が私にそう命令してくるのだ。
耐えたところで耐えた分だけ苦しくなるので、そのうち受け入れた。私はそうした闇に恐怖した。
強迫観念の檻に私は捕らわれていたのだ。
嘘を吐こうにも、体がそれを拒絶し、両親には喋りたくもないことも喋らされた。天野のことも話した。
私は恥ずかしさのあまり焼け死にそうであった。
小学四年生になると、転校生がやってきた。
「蛇島です。よろしくお願いします」
女であった。
言ってしまえば、蛇島は私にとって天野とは正反対であった。
劇的な出会いもなく、ただただ、存在時代が単調でよく日常に馴染んだ。
蛇島は活発な性格で、よく笑った。その笑みは何故だか私をざわつかせた。
小学生の頃には、朝、読書をする時間が設けられていた。
私はそれが好きだった。仕事の為にと半ば義務的に読んでいる今と違って、少年時代の読書は完全に道楽であった。
だからこそ、心置きなく本を読める時間は私にとって潤いだった。
ある時、読書の時間が過ぎ、一時間目が始まるまでの休み時間があった。
私はきりの良いところまで読み進めて、顔を上げた。
「何、読んでたの」
本を覗き込む様にして、蛇島は話しかけてきた。
私は、読んでいた『モモ』を彼女に渡した。
彼女はそれを受け取って、数ページ捲ったが、それ以降は退屈そうに本の外観だけを見て私に返した。
「厚い本読んでて凄いね」
それは、小学生なりの社交辞令だったのかもしれないが、私は、その言葉を額面通りに受け取った。
それから、私は、見せびらかす様に敢えて厚い本ばかりを選んで、読書の時間に持ってきた。
読書の時間はもう一つの意味を持ったのだった。
今にして思えば、蛇島という存在は私にとって重要な分岐点の一つであった。
彼女への想いを消化できていれば、愛とは流動的であり、環境とタイミング次第で誰に注がれてもおかしくないものなのだと実感することができた。
しかし、そうはならなかった。
「今まで、ありがとうございました」
蛇島は程なくして転校した。
唐突に無遠慮に、彼女は私の前から一切姿を消した。
それ以来、彼女の消息は分からない。
転校後、クラス一同、学校から彼女へ手紙を送ることになったが、私だけは最後まで何も書けず、その内、私抜きで手紙は送られた。
そうして、私は灰色に支配されてしまった。
小学生に限らず、大概の少年少女の好物は所謂、色恋沙汰である。
例に漏れず、私の小学校でもその手の話が横行した。
だが、問題は私には嘘が吐けなかったことだ。
母親相手程でないにしろ、嘘を吐こうとすると強烈な強迫観念が私を縛ってそれを防いだ。
だからこそ、親しい人間のほとんどに私が天野に気があるということは知れていた。
「渡辺君、天野さんが好きなんだ」
大して仲の良くもない女から、ある日、突然そんなことを告げられた。
男の誰かが話したのだと直ぐに分かったが、犯人を捜そうとは思わなかった。
最早、噂が広まるのは時間の問題だからだった。
案の定、小学校の高学年にもなると、天野が知っているという事実を私本人が認知していた。
だが、その時期には既に受験勉強もあり、だから、私は能動的に天野を避けて生活した。
直接的な干渉を絶てば、天野に嫌われるといったこともなく、この想いを不朽にできると考えたのだ。
また、付き合うだとかそういう感覚は当時の私は持ち合わせておらず、ただ、天野を視界に収めることができていればそれだけで満足だった。
そうした歪な交友によって、私の心の中の天野はその立ち位置を盤石なものにした。
先にも書いたが、私は中学受験にある程度成功した。
第一志望には落ちたが、近隣の中高一貫の私立中学校三校に合格した。
だが、そこで困惑した。
私には欲しい将来もなく、母親の言われるまま惰性で勉強をしていただけだ。
そんな私にとって三校のどれを選ぶかというのは至極どうでもいい事であった。
そこで、私は天野が私立へ行くという話を耳にした。緑豊かな公園の近隣に建立した学校であり、それは奇しくも私が合格した三校の内の一校であった。
そして、再び困惑した。
喜ばしい事に天野が行く中学校という一つの指標を手に入れた訳だが、しかし、そこに行くか行かないかというので困った次第だ。
当時の私は自身の気持ちが単なる思慕に留まるものではないと薄々勘付いていた。
だからこそ、高校まで同じ学校に通ってしまえば、天野に執着してしまうのではないかと危惧したのだ。
一方で、違う中学校を選べば、天野との接点は殆ど失う。
同じ小学校の者の殆どが公立中学校へ進む中、私や天野の様に私立へ進む者は地元という概念を喪失するからだ。
ここもまた分岐点の一つだった。出会った当初なら迷うまでもなかった。しかし、少しばかりの冷静さが芽生え始めた当時だったからこそ存在した選択の余地だった。
だが結局の所、思考を重ねれば重ねる程、選択はたった一つに絞られるのだった。