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読んで

革の園

 後頭部の髪を掴まれ、目の前のスクリーンに映る、蝶のサナギが開く瞬間をずっと見させられた。不思議と痛覚は死んでいる。映像のBGMに、簡単な英語が淡々と続く甘ったるい恋愛ソングがかけてあった。僕はこのときから頭がおかしくなる寸前だった。脳に通う血の量が手に触れるみたいにわかる。今までに飲んだ全ての酒が喉から下の付け根あたりまでを占領している。涙を流さないと体内で生成されたタンパク質で破裂しそうなのに、涙を流すための機能がいつからか僕には足りなくなっていた。僕の髪を掴む、男か女かも知らない誰かにつらいことを伝えてみる。


 伝えようと試みはしたが、反応はない。第一僕からの発信が成功したのかも定かではない。スクリーンのサナギから成虫が出たり入ったり、変化はだまし絵程度のふり幅が断続している。BGMの歌には進展がない。いつからいつまで愛を囁くのか。せめて背後で僕を捕まえている人と、目を見て話をしたかった。髪を鷲掴みされてしまった時点で、もう対等なコミュニケーションにはならないだろうが、僕はどれだけみっともなくだって懇願するつもりだった。喉の奥へ酒の水圧が押し広げられる。気化したアルコールに鼻孔は拒否感を示すが逃げようもない。髪を掴まれたまま半分宙に浮いた状態で、顎が閉まらないまま重力に強制のされた格好。スクリーンに淡い光で、サナギはいつまでも羽化したりはしなかった。血液が巡って体中を騎兵隊なみに踏み荒らしているのが分かる。暑さとはこんなものだったろうか。部屋の温度・湿度は快適なはずなのに、頭が破裂しそうな吐き気に時間ごと囚われている。目に入る景色は、五秒ごとに忘れていく。この体の虚脱感は、何時間か前に一通り騒ぎ散らかしたあとなのかもしれなかった。僕は許して欲しかった。


「許して。お願いします。ごめんなさい。一瞬だけ。一瞬だけ。」

 単語レベルの謝罪には、とにかくつらい気持ちを乗せるしかなかった。それが背後の相手に伝わったかは分からない。自分の声がしているのかも分からないし、自分がどんな声だったかも正直もう憶えていない。自分が喋ったことが聞こえないのは、耳に入った声を自分のものと認識できないためだろうか。意識が行動へ反映されるまでのラグが大きく、それを当然と思えてしまうほど、二重の感覚が常に付きまとっている。窒息が強まるほど乾燥する喉奥と肌の表面との地続きの関係が確かなものになっていく。ひっくり返され、僕は表面だけの存在になるのか。とたん、髪を掴む強さに変化が訪れる。大したことはなく、時間の経過によって持ちづらさが出てきたのだった。少しだけ持ち替えただけである。しかしこれは初めて発覚した時間が経過している証拠である。サナギもBGMもほとんど変化がなかっただけに、これは僕に生きる希望を与えた。ほとんど死んでいるのに? いや、今の僕の状況を、簡単に生きているか死んでいるか判断できる人はいないだろう。いたとして、誰も僕の背後の人にいる誰かにやめるよう言えないのだから、そんな判断は今必要ない。必要ないことが血管に流れて圧力を高めている。それが脳まで流れて、また心臓から送り出され続けている。もうほとんど、視界の情報を役立てることができなくなっていた。痛覚がとっくに消えていたから、こっちはだいぶ持った方だ。聴覚はまだ大丈夫だった。英語もまだ分かるから、言語野? つまり言葉を司る部分もまだ生きている。状況を把握しているから、そういったことを司る部分も生きている。生きていることを確かめるのが、僕の死を遅くしてくれるのかは分からないが、とにかくこれくらいしかできないからこれくらいはしている。もはや理屈はない。理屈はいつも後追いでしかない。理不尽なことや順調に進んだことをただ放っておけないから、理屈をつけて勝手に納得する。今やるべきことはそれなのかもしれない。もういつでもいいように、この絶望的な状況にそろそろ納得しなくてはならない。そう思ったが英語が徐々に分からなくなると壊死は母語の領域まで達し、同時に理屈をたてる方法から納得する権利さえも奪われていつか無機物になるまで記憶が入り乱れる容器としての僕が僕でなくなる時間を過ごした。記憶が一新された瞬間の煌めきが目の奥に霧散する雪のような軽さは従来の視覚を代替し、遠い未来、自分の白骨遺体から淡い黄色の花が咲くことを、これを風化するということだと言語よりも下層にある脳内抽象画として刻み込んださい皺と皺とのあいだから吹き出した霧の香りには安堵とため息と深い眠りについた。

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