【外伝】近衛彦麿 ⑦
1921年5月
3年間の免税を宣言してから、そろそろ折返しとなる時間が経ったけれど、この効果は絶大で国内の経済活動は活発だ。
また東パレスチナとの和解も進み、両国の交流も始まったから、ロシア国民の雰囲気は徐々に明るいものとなってきている。
あれから何度かアンソニーさんを訪ねて打ち合わせを行い、積極的な投資を行ってもらうことにもなった。
まず最初に手を付けたのが、両国間を結ぶ鉄道と道路の建設だ。
これらの事業もあって景気は更に良くなった。
ソビエトからの脱出者も昨年あたりから急増していて、人口が一気に増えてきているのも朗報だ。
これは両国を比較して、ロシアの方が魅力があると判断してくれた結果であって、歓迎すべき傾向だね。
以前に兄様が「水は高いところから低いところへ流れる。これは自然の法則であって、人間にはどうしようもないものだ。人間の気持ちも同じで、人の流れは法則のようなものだが、こちらはやり方次第で如何様にもなるのが違うところだ」
と言っていたのだけれど、それが良く分かる。
そして戸籍と住民台帳の整備も終わり、第一回の総選挙が行われた。
諸外国と同様に、二院制を採用することになり、上下両院議員が選出されたうえで首班指名が行われ、引き続きニコライ・ゴリツィン公爵が首相を務めることになった。
同時に国土の開発を計画して実行中だ。
鉄道と道路の整備、農地の開拓、漁業の促進、牧畜の奨励、製鉄所の建設、港湾施設の充実と拡大、金融機関の整備、移民や難民の受け入れ、住宅の建設、学校や病院の建設など、やる事は無限といってもいいくらいある。
あと、以前に触れた武田信玄の話のところで紹介し忘れたけど、甲斐の国において特筆すべきなのは金鉱山の発見という事実があるだろう。
中山金山や黒川金山などだ。
これを使って強固な体制を構築することに成功したらしい。
この件については、こっちへ来る前にロシアにおいても有力な金山があるよと、高麿兄様が耳打ちしてくれたのだけど、そこはオホーツク海に面したマガダン州を源流として、サハ共和国から北極海へと流れるコリマ川流域に広がる金鉱山らしい。
この金鉱は、いわゆる砂金であり、品質が高いうえに露天掘りできるから採掘は容易らしいし、頑張ったら年間20トン程度は見込めるだろうと言っていた。
ただし、冬はとても厳しいから、操業できるのは1年のうち夏場の半年程度みたいだけど。
これはとても有益な情報だね!
早速人員を「超高待遇」で募集して働いてもらおう。
正式に首相に指名されたからか、以前より協力的になってくれているゴリツィンさんに相談だ!
兄様によると、他にも小規模だがロシア各地に金鉱は複数あるみたいだし、ダイヤモンド、鉄鉱石の得られる場所も複数あるという話だった。
更にバイカル湖北部には油田、石炭、ガスなんかも豊富にあるみたいで、それらの地下資源の場所を示した地図ももらっていた。
それから現時点ではロシア領では無いけれど、シベリア西部に大規模な油田、それも世界的にも有名なバクー油田を上回る巨大な油田があると言っていたから、将来領土に出来たら活用したいね。
これらの情報を、会議の席で伝えて共有したのだけれど、皆さんの反応と探索結果は予想外のものだった。
「コノエ子爵の情報は我々としても初耳であり、最初は信じられませんでした」
と、ゴリツィン首相をはじめ、シベリアの地理に詳しい官僚の方々にとても驚かれたんだ。
「ご指摘の場所を探ったところ、金鉱をはじめ石炭や石油、鉄鉱石など様々な地下資源を発見することが出来ました。
これらを利用して産業を発展させ、海外へ輸出することで我が国の経済は更に上向くことが出来ると思います。
ただ、分からない点としましては、我々地元の人間が知らないことを、何故コノエ子爵がご存知なのかという点なのです」
えっ!?そうなの?これはマズイな。なんて言って切り抜けようか?
「……えっと…間宮林蔵という人が、樺太やその周辺を探検して歩いた際に、地元の人々から聞いたそうで、我が家にその関係者の残した日記が残っていたのです」
ちょっと嘘っぽいし、日本人が聞いたら一発でバレそうだけど大丈夫かな?
地元の人なんだから、知っていて当然だと思ったけど大失敗だ!
まあでも皆さんは何となく納得してくれたみたいだし、近衛家の日記まで確認のしようがないから大丈夫だろう。
アレクセイはこの結果をとても喜んでくれて、「君の提案は国家の発展に多大な功績があった」として、以前の東パレスチナとの和解の一件も合わせて、伯爵へ陞爵してもらった。
アナスタシアさんはこれを知って、「彦麿は本当に立派な人だし頼りになる存在だわ!」と言ってくれた。
僕としては伯爵になったことより、アナスタシアさんにまた褒められたのがとても嬉しかった。
うん?でも冷静に考えると、なぜ高麿兄様はこんな情報を知ってるんだろう?
そんな不思議な出来事もあったけれど、ロシアに来て知ったことで特筆すべきなのが、ロシア、いやヨーロッパ全体かな。
それらの地域における川を利用した水運についてだね。
シベリアには流れの緩やかな大河が多い。最近まで知らなかったけど…
これらを利用した水運業が盛んで、基本的に大きな街は川沿いにあると言ってもいい。
陸上を運ぶより、はるかに多くの荷物を一度に運べるから船って凄いね。
日本じゃ急流が多いから、川を使った水運ってあまりピンとこないけれど、世界では主流らしい。
ただし、この地の水運において欠点となるのが、冬は凍結してしまうことだね。
だからだいたい4月から11月末までが利用できる期間だ。
逆に冬の間は歩いて渡れるし、氷が厚いので自動車も通行できるからそこは便利だ。
大きな川の代表が、まずは国境線となるエニセイ川で、この東岸に現在、日本軍やロシア軍が駐留しているクラスノヤルスクがある。
そこから東へ向かうとバイカル湖がある。
面積では世界8位の大きな湖で、水深は1700m前後と世界最深を誇るから、貯水量は世界最大であり、何と世界の淡水の2割前後がここに存在するとされている。
そして摩周湖と並んで、最も高い透明度を誇る湖で、水運の要でもある。
ここを源流として流れ出すのがレナ川だ。
そして英領満州との国境線となっているアムール川。そこと合流するウスリー川。
どれも大きな川だけど、これらを繋ぐ支流もたくさんあるから、それらを使った水運業が盛んだ。
ただし、基本的にこれらの川は南北方向に流れるから、東西を繋ぐ川が少ない。
これは…現状では無理だが、東西を結んでいるシベリア鉄道は、複数の経路を建設するのが望ましいのでは?
新たな課題が見えてきたけど、実現できるのは相当先の話だろう。
1922年2月
アナスタシアさんの姉君で、四人姉妹の次女タチアナさんが結婚した。
お相手は同じロシア貴族で、ゴリツィン公爵家の人だ。
ただし、この人は首相のゴリツィン公爵とは遠い縁戚、というだけで直接の関係は無いらしい。
最近知ったのだけれど、ゴリツィン公爵家というのはとても沢山の分家が存在しているという話だった。
とにかく先帝陛下ご夫妻やアレクセイもとても喜んでいるし、オリガさんは日本という異国で暮らしているけれど、タチアナさんは地元に残ってくれるから余計に嬉しいみたいだね。
そんな慶事のあったロマノフ家において、更に慶事が重なることになった。
三女マリアさんを訪ねて、イギリスからルイス・マウントバッテンという人が来て、マリアさんに求婚したんだ。
聞くところによれば、二人は「いとこ」の関係にあるそうで、マウントバッテン家はイギリス王室に連なる名門らしい。
ルイスさんが12歳の時に、ロシアの宮殿を訪れてマリアさんに出会い、一目で好きになったらしく「僕は彼女の虜だ、彼女と結婚することに決めた。彼女は疑いようがないぐらいに素敵だった」と周囲に公言していたらしい。
その気持ちはよく分かるね。僕も13歳の時にアナスタシアさんに会って一目ぼれしてしまったのだから。
だけど、そんな二人に暗い影を落としたのが、言わずと知れたロシア革命だったんだよね。
今から5年近く前の1916年12月末、首都ペトログラードにおいて発生した民衆のデモは、暴動へと発展して、翌年1月にはロシア第二革命とも12月革命とも呼ばれる騒動に至る。
皇帝一家は一般市民の身分に落とされた上に、臨時政府によって監禁されてしまい、地方都市を転々とさせられる。
1917年6月には、ロシア軍内部での武装蜂起が発生したことに乗じた、ボリシェビキによるロシア第三革命とも5月革命とも呼ばれる暴動が発生して更に混乱を極める事態となった。
そして大戦終結直後の1917年7月11日深夜、エカチェリンブルク郊外のイパチェフ館に監禁されていた一家を、明石大将が救出した事実が公表されるまでの間、ルイスさんは生きた心地がしなかったと言っていた。
無事なのが分かった時、すぐにでも日本に駆け付けたかったみたいだけれど、ペトログラードとは違って地球の裏側に等しい日本にいるのだから、ルイスさんの勝手が許されるはずもなく、ひたすら会える機会を狙っていたらしい。
それが最近東京において行われた軍縮会議の随員に紛れ込む機会を得て、会いに来たというわけだね。
「君がコノエ首相の息子さんかい?これからよろしくね!
ああ、そう言えば日本でオリガ様と、君のお兄さん御夫妻に挨拶をしたけれど、とてもお元気そうだったよ」
なんかイギリスの貴族様!って感じの物腰だね。
えっ?どういう意味だって?ご想像にお任せしておくよ。
「マウントバッテン卿。近衛篤麿の六男で彦麿と申します。
以後お見知りおきいただければ幸いです」
ここでマリアさんがルイスさんに言った。
「ディッキー。あなたちょっと態度が大きいわ。オリガ姉様から何か聞いていないの?」
ディッキーって、マウントバッテン卿の愛称らしいね。
「え?オリガ様からかい?……そう言えばヒコマロ君のお兄さんのお陰で助かったとは言っていたね?
でもそれは社交辞令の一種だろう?
なんか大袈裟なことを言っているなと、僕はその時に思ったほどさ」
マリアさんは物凄く怒った表情になって言った。
「それはあなたの勘違いよ!コノエ首相やお兄さんが手配して下さらなかったら、確実に私たち一家は全員殺されていたわ!
だからあなたが私を大切に思うなら、コノエ様のことも同じくらい、いいえそれ以上に尊敬すべきだわ!
私の言う事が嘘だと思うなら私のお父様に確認してちょうだい!」
それから延々と、どれほど危険な目に遭ったかを細かく説明していた。
「あわわ…ごめんなさい。そうだったのかい!?
まさか本当だとは思わなかったよ。
ヒコマロ君、改めて感謝するよ。マリアを助けてくれてありがとうございます!」
「いいえ…ご理解いただいてとても嬉しいです」
明石大将が実行した皇帝一家救出の件は、繊細な問題をはらんでいるから、事実関係を正確に知っている人は多くない。
だからマウントバッテン卿が何も知らなくても不思議ではない。
それに手配したのは父上と兄様だから、僕の功績じゃないしね。
でもなんかこの人、いきなり態度が変わったぞ?
申し訳ないけど笑ってしまった。この調子だと家庭内ではマリアさんが主導権を握りそうだ。
そして二人は、高麿兄様夫妻に改めて挨拶してからイギリスへ向かうそうで、日本へ向けて出発した。
先帝陛下ご夫妻やアレクセイ、そしてアナスタシアさんがとても寂しそうにしていたのが気にはなったけどね…
それからしばらく経ったある日、アナスタシアさんが僕のところへやって来て言った。
「ねえ彦麿。あなたもうすぐ18歳になるんでしょ?もう立派な殿方だけど、将来のことはどう考えているの?」
将来か…それは考えているけど、僕からは身分が違うから言い出せないし、アナスタシアさんには既に意中の人がいるかもしれないしね。
「…好きな人はいるんですけど、身分が違うから僕からは言い出せないのです」
アナスタシアさんはとても意外そうに言った。
「あら、あなたは私たちのためにとても頑張ってくれているし、将来はもっと重要な役目で活躍することを期待していると、お父様は仰っていたわ。
それに…私はもう21歳だから早くはないわ。
お姉さまたちが嫁いでいってしまったから、次は私の番なのよ」
…それ……どういう意味だろう?
怖いけど聞かなくては。
「…お相手は既に決まってしまっているのですか?」
「ええ、私の中ではあなたに決めているの!」
えええ!!本当だろうか!?夢なら覚めないで欲しい!
そこから先の記憶が飛んでいるけれど、どうやら僕は失神してしまったらしい。
やってしまった。。。