【外伝】近衛篤麿 ⑲海軍軍縮条約
1921年(大正10年)10月
英独の争いを端緒とする大戦がようやく終わったと思ったら、今度は英米間の建艦競争が再燃し始めた。
そこで、日本が主導して海軍軍縮に向けた話し合いをする運びとなったのだが、本音を言えば英米の争いに巻き込まれたくなかったのだ。
日本を取り巻く環境は、決して安泰なものでは無く、まだまだロシアも東パレスチナも不安定だ。
そんな状態の時に、いつ果てるとも知れぬ建艦競争に巻き込まれては、余計な国力を費やしてしまう。
だが、最も積極的に戦艦建造を行っているアメリカでさえ、アメリカ政府内では疑問視する声が日々大きくなって来ておるらしいから、軍縮条約への機運が醸成されつつある。
今日も軍縮会議に向けて、石井外務大臣と山本海軍大臣との打合せだ。
「英米の関係性について、石井外相はどのように判断していますかな?」
「既に英米関係は、修復不能なところまで亀裂が深まっていますし、世界中にそれが知れ渡る状況となっています。
原因は満州と中華に対する利権の争いです。
首相もよくご存じの通り、鉄道王ハリマンが熱望した南満州鉄道の経営をめぐっての諍いから始まって、どんどん亀裂は拡大していますし、先の大戦においてアメリカは我が国と並んで軍需物資の供給を行う一大拠点でしたが、結果としてアメリカはイギリスに対して巨額の債権を持つに至った事と併せて、気に入らないと考えるイギリス人が多いです」
なるほど。高麿の英米離間策が、ものの見事に決まったというわけか。
「山本さん。イギリスの建艦状況は変わらずですか?」
「変わりないな。イギリスは既に新規で戦艦を建造するだけの余裕が無くなりつつある。
現時点ではまだ、既存艦の数においてはアメリカを上回っているものの、これ以上アメリカ海軍の拡大を許せば、大英帝国の威信に関わる大問題となるのは明白だ。
一応キング・ジョージ5世級戦艦を6隻計画しており、もう少しで全艦完成するらしいが、これ以上の対応は不可能だろうな。
先日更新された日英同盟が最後の砦だろう」
「では、軍縮条約の開催は行えそうですね。両国に正式に打診するよう手配してください」
ここで石井外相が問題点を提起する。
「それについてですが、イギリス側としては軍縮会議そのものは歓迎するものの、開催場所についてはロンドンか東京を要望しておりますし、アメリカに赴いての交渉は絶対に反対すると強硬な態度でした。
実は、アメリカ側も、ロンドンへ行っての交渉には難色を示しておりました」
なんだと?そこまでお互いを嫌っておるのか?想定以上だな。
「では、東京にて開催することを両国に提案してください。
言い出したのは我が国なのですから、アメリカも反対はしないでしょう」
そこで山本海相が発言した。
「近衛首相。儂は納得しておるし、いまさら反対はしないが、国民や議会からは戦艦の数が英米に比して少ない点を問題視する声が多数挙がっておる。
海上交通路防衛という国是は理解するから、巡洋艦と駆逐艦は重要であろう。
だが、本当に航空母艦というものは、役に立つのであるか?
先ごろ完成した伊勢型の4隻は確かに巨大で力強いが、本当に有用なのであろうか?」
またこの話か…何回同じことを言わねばならないのだろう。
「日本海海戦とユトランド沖海戦での勝利という、甘美な記憶がありますからな。
皆が危惧するのは分かります。
しかしながら、英米に比べたら我が国の経済力と工業力はまだまだ及びませんから、どれほど頑張って戦艦を建造しても、アメリカに対抗することは不可能です。
また、彼らと同じ土俵に立つことは危険であり、先々を見据えた軍備で英米を超えなくてはなりません。
陸軍から要請のあった輸送艦50隻の処遇も、将来は空母に改装する予定ですし、飛行機と魚雷・爆弾の研究も順調ですから、航空兵力の充実によって一気に世界最強国へ躍り出るためにも空母は必須なのです」
とは毎回言っているものの、それが証明されたわけではないから説得力が今一つだな。
高麿の言う通りにして失敗したことがない。というのが根拠だが、いまさら他人には言えんしな。
とにかくその後、英米両国へ軍縮会議の開催を持ち掛け、結局東京にて開催されることが決定したのだが、石井外相によれば、アメリカはロンドンへ赴くことを極端に嫌がったそうで、東京開催に反対しなかったそうだ。
我々にとっては英米の対立は僥倖だな。
その軍縮会議だが、主力艦の保有排水量を制限しようという内容になりそうで、会議参加国は日・英・米・仏・伊の海軍五大国となった。
そして現時点での日本海軍における一線級の主要戦力は次の通りだ。
・金剛型巡洋戦艦8隻 約2万6000トン×8隻=約21万トン
・伊勢型航空母艦4隻 約3万8000トン×4隻=約15万トン
合計36万トンという内容だ。
我々の方針は、日英同盟を堅持しつつ対米六割を維持することで、理想を言えば米:英:日の保有比率としては10:8:6が望ましい。
これが叶えば日英:米の比は10:7と逆転するし、三国が均衡を保つことで平和を維持できるだろう。
言わば大昔の「三国志演義」にある魏・呉・蜀による三国鼎立の関係で、呉蜀同盟にて魏に対抗した故事に倣えるだろう。
もっともあの小説は、どこまでが史実なのか疑わしいと高麿は言っておったが。
「七割の史実に三割の虚構」といった内容らしいし、そもそも小説名は「三国志演義」と表現するのが正しいのに、史書として存在している「三国志」と混同して呼ばれているのが現実だからな。
まあ「忠臣蔵」と「赤穂事件」の関係と同じような物なのだろう。
最近の日本人は、芝居の「忠臣蔵」を史実だと思っている者が殆どだからな。
そんな事より喫緊の問題は、イギリスが対米八割を飲むか否かだな。
いままで「二国標準主義」、つまり世界第二位と第三位の合計海軍力を上回る海軍を保有することがイギリスの国是だったのだ。
実現できていた期間は実はそれほど長くないが、イギリス人の誇りがかかっているからな。
どうなるやら。
1922年(大正11年)1月
軍縮会議は各国の主力艦保有排水量の割り当てと、制限すべき対象艦種の決定が主な議題だ。
各国が送り込んできた全権代表は、当初は以下の通りだった。
日:山本権兵衛 海軍大臣。
英:アーサー・バルフォア 枢密院議長。
米:チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ 国務長官。
仏:アルベール・サロー 海軍大臣。
伊:カルロ・シャンツァー 海軍大臣。
ふむ。
アメリカの出席者は、外交責任者である国務長官が全権代表か。
漏れ聞くところによると、アメリカとしては、この軍縮会議を契機として日英同盟の破棄を何としても達成したいとの意気込みらしい。
太平洋方面を我が国に、そして大西洋方面ではイギリスに対処せねばならぬからな。
日英同盟が消えて無くなれば、アメリカとしては一息つけるし、軍縮会議の効果も上がるだろう。
とは言うものの、これを知ったイギリスは急遽デビッド・ロイド・ジョージ首相が自ら乗り込んできた。
何としても日英同盟は堅持させるとの強い意志の表れと見て良いだろうし、事前に行われた私との首脳会談でも日英の立場を確認し合い、軍縮会議に臨むこととなった。
石井外相によれば、イギリスが首相自ら乗り込んできた状況を見たアメリカのヒューズ国務長官は、作戦を変更してイギリスが誇る新造戦艦「キング・ジョージ5世」級を葬り去る策を取るのではないか?との予想だった。
まあ、私が会議に出席するわけではないからな。
山本海相と高麿たちに任せよう。
などと悠長に考えていたら、ロイド・ジョージ首相から私に対して直々に出席の依頼がきてしまった。
やれやれ。こう見えても忙しいのだが。
交渉事に強いと思われたか?
であればその場におれば十分であろうし、当てにされても困るから私は発言せぬぞ?
そして軍縮会議が始まったのだが、まずはアメリカから発言するのか。
議長国は日本なのだがな…
「親愛なる皆さん。お集まり頂きありがとうございます。
せっかく海軍強国が一堂に会したのですから、実りある結果としたいものですな。
早速ですが、我が国の安全保障上の懸念は日英同盟です。
我が国が強大な日英両国に挟まれているのは事実ですから、要求は一つです。
日英同盟の即時破棄です。
これを達成できないと我が国は安心して眠れないのです。
諸兄におかれては是非、我が国の立場をご理解賜りたい」
これはまた直截で裏表の無い要求だな。
高麿の表情は…呆れておるように見えるな?
さすが粗野なアメリカ人は、言うことが大雑把で下品だと言いたそうだ。
おっ?ロイド・ジョージ首相が発言するのか。
「ただいまのヒューズ国務長官の発言は、実に多様な含蓄を含むものであり、私としては感動すら覚えるものです。さすがは北米大陸において、ひとり気を吐く陸軍大国だけの事はあると感服しました。
長い伝統と高い誇りを持つ海軍国家たる我々イギリス人では思いつく事さえ不可能な提案であります」
迂遠な嫌味は、さすがイギリス人といったところか。
にわか作りの植民地海軍では到達できない領域があるのだと言いたげだ。
私も元は京都人だからな。その辺りの迂遠な言い回しは得意だが。
私ならなんと言うだろうか?
「日本人は、これまで他国に愛される事を国是として実践してまいりましたから、思いもよらない貴重なご意見です」かな?
傍若無人なアメリカ人が、自分の事を棚に上げて偉そうに言うなとの意味であるが。
石井外相ならば、「黒人や先住民に恨まれる心配の無い我が国の臣民には到底不可能な考え方ですな」
と彼らの過去の行状を取り上げて、あげつらうかもしれないし、山本海相ならばもっと露骨な表現で「睡眠不足であるなら睡眠薬の処方をされては如何か?何ならずっとお眠りいただいても結構ですぞ?」
などと言いそうであるが。
そこへ議長の山本海相が割って入った。
「議長の山本です。先の大戦では人類が未だかつて経験したことの無い、未曽有の犠牲者を出す惨禍に至りました。
その原因ははっきりしており、ドイツが無謀な建艦競争をイギリスに対して挑んだからであります。
そのような愚行が二度と繰り返されないよう、お集まりの諸氏には最善を尽くした議論をお願いしたいものです。
我が日本の立場としましては、皆さん十分ご承知と思いますが、無益な建艦競争から身を引いており、アメリカを挑発する意図は存在しませんし、敢えて傍観者たらんと欲しています。
理由は、先ほど申し上げましたように不毛な戦争を避けたいからです。
しかるに、先ほどのアメリカ側の主張は余りにも偏っていると断じざるを得ません。
よって小職の希望としましては、アメリカ側へご再考を願うものであります」
おお、意外にもかなり穏便な物言いではないか。
アメリカは主張が容れられず不満顔だが、諦めてはおらぬな?
「日英の主張は分かりました。しかし、保有比率はこれまでイギリスが最大でありましたが、我がアメリカとしてはこれを継続して認めるわけにはまいりません。
よってイギリスがこれまで主張してきた二国標準主義なるものは認められませんし、イギリスよりも保有比率を上回る事だけは譲れません」
ロイド・ジョージは何と返すかな?
「先ほどからのアメリカの主張は、実に壮大なものですな。
しかし、ご自身の身の丈に合っておられぬ海軍力をご所望のように見受けられるが、数だけ揃えれば何とかなるとお考えか?」
カネだけは持っているが、実戦経験の乏しい田舎者が増長するなと言いたいらしい。
「イギリスの首相閣下は自信満々であられるようにお見受けするが、数は力なりでありますし、日英同盟が継続されるのであれば、主力艦の保有比は絶対に譲れませんな」
これでは平行線だな。
ここで一時休会となり、事務方同士での打ち合わせを行った後に協議を再開することになったが、思い返してみると、以前のパリ講和会議の席上において軍縮の必要性を訴えておったのはアメリカだったではないか?
立場が変わればここまで露骨な態度となるとは…やはり信用ならぬ国だ。
しかしこの軍縮会議でのアメリカの主張はだいたい予想通りではある。
ロイド・ジョージ首相は涼しい顔で受け答えしておるが、今回の軍縮条約がまとまらないとイギリスは苦しい立場となるのは疑いない。
アメリカが推し進めている建艦計画が実現してしまえば、海軍力の差は絶望的なものになるし、日英同盟を合わせても優位に立てるか怪しいのだからな。
よってどこかで矛を収めて譲歩するより他に道は無いのだ。
結果として最初に決定したのが、規制すべき対象を基準排水量1万トン以上の全ての艦種を一つの枠で交渉する事と、1万トン未満は全艦種制限無しという点だった。
また、国別保有枠については日本が現時点で保有する主力艦枠36万トンが認められたことだった。
日本は「伊勢」型空母まで主力艦の内に含むという、アメリカ案に丸め込まれたように見えるかもしれぬが、これは最初から織り込み済みだ。
アメリカを油断させるための餌でもあるのだからな。
これを基準に事前の予想である米:英:日の保有比率10:8:6を当てはめると、アメリカが60万トン、イギリスが48万トンとなる。
うん。既にイギリスは既存艦だけで48万トンを超しておるな。これでは新造戦艦「キング・ジョージ5世」級6隻は認められぬだろう。
イギリスは気付いていないのか?
一方のアメリカは、相当数の新造枠が残っていそうだ。
「近衛首相。我が国は被害を受けぬから良いが、このままだとイギリスは虎の子の新造戦艦6隻を廃棄せざるを得なくなるぞ?如何するつもりか?」
山本さんも気付いたか。だがしかし…
「山本さん。日本がイギリスに対して親切に教えねばならぬ義理はありません。我が海軍に被害が無いのであれば気付かぬふりをして差し障りありますまい?」
「…まさに、その通りだな」
会議はまだ続きそうだな。