【外伝】近衛彦麿 ⑥
1920年7月
租税を免除した効果は早くも表れていると言ってよいだろう。
おかげで建国以来とても忙しい日々が続いているけれど、内政ばかりじゃなく外交も重要だ。
特に隣国となった東パレスチナとは友好関係を築かなくてはいけない。
だから少し落ち着いた段階で、アレクセイやゴリツィン首相たちと相談して、高麿兄様の友達であるアンソニーさんを訪ねた。
何で僕が動いているかと言えば、ロシアと東パレスチナは国境線を接する隣国であるとはいっても現時点では国交が無いからだ。
いや、ロシア国民からは「余計な国が隣に出来た」って思われているだろうし、一方で東パレスチナ側から見たら「軍備を整えないとロシアに侵略されてしまう」って思っている可能性は十分ある。
何と言っても両国は過去の歴史において加害者と被害者の関係であって、これが精算出来ていないから前に進めないんだ。
東パレスチナはユダヤ教を信じるユダヤ人の国で、父上と高麿兄様が先帝陛下と交渉して誕生した国家だ。
こう書くと、父上と高麿兄様がどれほど凄い仕事をしたのか実感するね。
だから身内の僕なら交渉役として適任だというのもある。
アンソニーさんは兄様より少しだけ若いらしいけど、大蔵大臣という要職に就いているから良い関係を築いておきたいという理由もある。
そしてユダヤ教についてだけど、日本にいる時に予習はしておいた。
この宗教は、4000年ほど前に唯一神を信仰した、アブラハムの子孫であるヘブライ人に伝えられた宗教で、世界最古の一神教とも言われ、その後にキリスト教やイスラム教の基盤となった宗教としても知られているんだ。
そしてヘブライ語聖書を聖典として、先祖代々受け継ぐ集団と言われている。
ユダヤ教の特徴は、日本で現在主流となっている浄土系の仏教の考え方のように、来世における救済ではなく、現世、つまり生きている間における神の救いを求めるという考え方だ。
特にユダヤ教には「終末思想」という考え方があり、 いつかこの世に終わりが来るが、その際に救世主が現れ、自分たちユダヤ教徒を救ってくれるとされている。
ただし、神が救ってくれるのは「ユダヤ教徒のみ」というのが重要かな。
そういった排他的・選民思想というような特別な意識ではなく、もっと幅広い範囲の人々を救うべきだとしたのが、1900年ほど前のイエス・キリストが広めたキリスト教の考えだ。
この人は元々ユダヤ人、つまりユダヤ教徒だったのだけれど、新たにキリスト教を興した。
だからユダヤ教徒から見たら裏切り者に見えただろう。
そして当時の強国ローマに訴えて、キリストがローマによって殺されるように仕向けたとされる。
それが現在のユダヤ教徒迫害に繋がっているという関係だね。
先ほどの救世主の話で言えば、キリスト教徒はイエス・キリストが救世主だと信じているけれど、ユダヤ教徒は当然ながらそうは思っていないのも重要な点だ。
あと昔はユダヤ人とはヘブライ民族だと思われていたけど、簡単に言えばユダヤ人とはユダヤ教徒の事を指すから、大昔はユダヤ民族という言い方も出来たかもしれないが、現在だと民族という表現は少しずれているらしい。
一方で、ロシアとしての国教はキリスト教でも東方教会の一派であるロシア正教会であり、その「聖地」は「至聖三者聖セルギイ大修道院」と呼ばれるモスクワ近郊にある寺院だから、アレクセイたちが首都のペトログラードを奪還せねばならないのと同時に、モスクワも奪還せねばならない理由だ。
因みにペトログラードは最初、ドイツ語風に「サンクト・ペテルブルク」って命名されたんだけど、ドイツとの戦争が始まったから今の名前になった。
英語で言えば「セント・ピーターズバーグ」だね。
ウラジオストクから東パレスチナの首都ナホトカまでは直線距離で80kmほどで、道路が整備されたら2時間以内で到着できるだろうけど、現時点ではまだ5時間ほどかかった。
↑東パレスチナ領土図↑
そしてようやくアンソニーさんと会うことが出来た。
「初めまして。近衛彦麿と申します。
兄からアンソニーさんの事はいつもお聞きしていました。
これからよろしくお願いします」
このアンソニーさんは、ロスチャイルド家というイギリスの有名な銀行家の一族なんだよね。
「こちらこそよろしくね。
僕は君のお兄さんとは、もう10年以上もお付き合いをさせてもらっているし、この国が建国できたのは彼のお陰だから、とても尊敬している」
アンソニーさんはとても理知的な感じのする人で、穏やかに接してくれたから話がしやすいな。
「ありがとうございます。今日こちらに伺ったのは、これからの事を相談したかったからです。
ロシアと東パレスチナは隣国となったわけですし、可能なら前向きな関係になれたら嬉しいのです」
アンソニーさんはちょっと考えていたみたいだが、こう言った。
「うん。君は日本人だから正直に言うけど、我々ユダヤの民はロシア帝国において酷い目に遭ったから、隣国としてこれからどうすべきか、こちらでも議論していたところなんだよ」
兄様が言っていたポグロムのことかな。そりゃね…
「ポグロムの事ですよね?」
「そう。我々がどんな被害を受けたか知っているかい?」
いや…詳しく聞いていなかった。
「…申し訳ありませんが、具体的には勉強不足で分からないです」
アンソニーさんはにっこり笑って言った。
「正直で結構だね。
彦麿君から見たら遠い場所で起こった、しかも他人の話だ。
ヨーロッパでも当時の新聞などはあまり取り上げなかったし、詳しくないのは無理もないことだよ」
僕も当時はイギリスに住んでいたしね。と言いながらも詳しく教えてくれたけど、それは酷い内容だった。
そもそも、ロシア帝国の領域にユダヤ人が多く住んでいたのはなぜかと言えば、ユダヤ人に対して寛容だったポーランドの隆盛によるところが大きく、その領域は16世紀には最大となって、バルト海方面や後にロシアとなる土地、ベラルーシやウクライナ西部を含む広大なものだったというのが理由らしい。
ポーランドの拡大と共に居住地が拡がったという話だね。
↑ポーランドの最大版図↑
しかし16世紀半ばにはマルティン・ルターという人が『ユダヤ人と彼らの嘘について』という著書において、ユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化して広く提唱し始めたという。
17世紀にはポーランドは衰退し始めて、ウクライナ・コサックの乱において発生したユダヤ人に対する虐殺事件は、その犠牲者の数で最悪のものとなったらしい。
18世紀末の第三次ポーランド分割により、ポーランド・リトアニア共和国が完全に消滅して、その東部がロシアに併合された。
これでポーランド国家による庇護を受けることが不可能になってしまったのみならず、取り残される結果になった。
今から101年前の1819年、現在のドイツにおいてユダヤ人への迫害が発生すると、瞬く間にドイツ文化圏の全域に大規模な反ユダヤ暴動が広まり、ロシア領内でも1881年から1905年まで複数回にわたって勃発した。
これが現在『ポグロム』と言われているもので、ポグロムとはロシア語で「破滅させる」という、とても恐ろしい意味だ。
当時、全世界におけるユダヤ人総数は1000万人だったらしく、うち半数の500万人がロシア帝国領内に住んでいたという話だけど、ポグロムによって主にアメリカへ脱出したユダヤ人の総数は200万人にのぼるとも言われているらしい。
しかも、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので、迫害が助長されることになった。
日本に対する敗戦も理由の一つだそうだ。
1903年から1906年にかけての度重なるユダヤ人襲撃は、ユダヤ人国家建設を望む「シオニズム運動」を招くことになったという。
人間っていくらでも残酷になれるし、家族には優しい人が家の外では鬼みたいになることもあるということかな。
でも理由はどうあれ、今度はユダヤ人側が復讐のためにやり返すという考えでは救いが無いし、明るい未来も期待出来ない。
もちろん、この「やり返す」の中には直接的な暴力だけじゃなく、経済的な意味も含まれている。
日露戦争の時にジェイコブ・シフという人は、「日本を助ける目的」で巨額の債券を購入して支援したんだけど、これの正しい意味は「ロシアに報復するのが目的」なんだよね。
現在のロシアが経済的な報復を受けたらとても困る。
ここはアレクセイが公式に謝罪して水に流してもらうほかない。
水に流すという表現がユダヤ人にあるのかどうか分からないけれど。
「それについては、我が国の皇帝陛下が公式に東パレスチナに対して謝罪するという事で解決できませんでしょうか?
このまま両国が過去を引きずったままですと、共産党を喜ばせるだけだと思うのです。
せっかくお互いに新たな体制となって生まれ変わったわけですから、最初からやり直すのは今しかないとも思うのです」
アンソニーさんはとても驚いたみたいだ。
「本当にそんなことが出来るのかい?
出来るのであればこちらも真剣に受け止めるよ」
「何とか皇帝陛下にお願いしてみます」
こちらへ来る前にアレクセイ個人の了承はもらっていたからね。
何とか政府の要人を説得しよう。
アンソニーさんによれば、ユダヤ教にも水に入って身を清める沐浴という風習があるそうで、日本にある水に入って行う「禊」の話も知っていた。
だから、悪い過去は沐浴をするつもりで穢れを祓って欲しいとお願いしておいた。
今回の件とは関係ないけれど、ユダヤ人は沐浴と同じ目的で頻繁に手を洗う習慣があるみたいで、食事の前においても行うらしい。
でもこの習慣が迫害のきっかけになった事があると、アンソニーさんが言っていたので驚いた。
それはヨーロッパをペストという怖い病気が襲った時で、手を洗う習慣があるユダヤ人には比較的患者が少なかったらしいけれど、これを見たキリスト教徒が「この病気はユダヤ人が毒をまき散らしたから起こったのだ!」と騒ぎになって、結果としてユダヤ人が迫害されたという話だった。
何というかもう…散々な目に遭ったんだね。
というか、ユダヤ人以外に手を洗う習慣が無かったという話に驚くんだけど。
日本も昔はそうだったのだろうか?
でも今回はせっかく自分たちの国が出来たのだから、これからは迫害を心配せずに生活して欲しいと心から思う。
だから何としても仲直りしてもらわないとね。
そしてウラジオストクへ戻って、早速アレクセイに公式な謝罪を行ってもらう段取りをした。
政府は最初かなり渋っていたけれど、アレクセイも賛同してくれたし、先帝陛下も父上や兄様との約束があるからと賛成していただいたから、両政府間で何度かやり取りをした後で、ロシア皇帝としての公式な謝罪文を東パレスチナ、次いで世界に向けて発信した。
「これまで我々キリスト教徒とユダヤ教徒の間には、誤解に基づく不幸な歴史が存在した。
しかし、両国はこれを乗り越えて前に進んでいかなくてはならない。
私、ロシア立憲君主国初代皇帝アレクセイ2世は、これまでのロシア帝国内で行われたユダヤ教徒に対する残虐な行為を全面的に認め、謝罪するものである。
願わくば今後は両国民が手を携え、困難に立ち向かってくれることを希望する」
東パレスチナ政府はこれを受けて声明を発表したんだ。
「この度、ロシア立憲君主国皇帝アレクセイ2世陛下より正式な謝罪をいただいた。
我が国はこれを受け、過去の憎しみや苦しみを水に流し、未来に向かって進む決意をした。
今後は両国の友好関係が推進されんことを願うものである」
これで両国は過去に囚われることなく前に向かって進めるだろう。
ただしこれは政府間においての話だから、国民の感情とは全く違うのが問題だ。
双方の国民において「上で勝手に決めた事を我々に押し付けるな!」っていう感情が爆発すると、前に進むどころか大きく後退してしまう事態にも繋がりかねない。
さて、どうしようかという話になるだろうね。
実は高麿兄様から、こういった場合の解決策は教えてもらっていたんだ。
それは二つあって、次の通りだ。
一つ目は、「共通の敵を提案せよ」という内容だった。
国家でも組織でも常に「敵」が存在するのだから、それを打ち倒す共通の目標とすることで、内部の結束を高めるという策なのだそうだ。
二つ目は、「敵は分断して統治せよ」という話だった。
どんなに強大で恐ろしい存在に見える相手であっても、一枚岩である事は決してなく、必ず内部に矛盾を抱えているはずだから、そこを見つけ出して攻撃し、内部分断を図るべしという策だ。
今回の場合で言えば前者だね。
ロシアにとっても、東パレスチナにとっても共通の敵は共産党だ。
近年では「ソビエト」と呼称しているらしいけれど、こいつを倒すことを目的に団結するという方針を選択しようと思う。
何故なら共産党は「宗教を認めない」という考えだからだ。
いや、共産主義そのものがイデオロギーという名の宗教なのだと思う。
しかもユダヤ人の主な仕事である金融業なんて真っ先に否定した。
「富める者の存在は認められない」からだ。
こいつは間違いなく、キリスト教から見てもユダヤ教から見ても、もちろん僕から見ても共通する明確な「敵」だ。
だからお互いが団結して協力しないと危ないんだ。
これからは、これをロシアと東パレスチナ両国の国民に積極的に宣伝して意識を変えようと思う。