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【外伝】近衛彦麿 ④

1918年11月末。


高麿兄様とオリガ様、いやオリガ義姉様だね。

二人の結婚式に参加した後、いよいよロシアに渡る日がやって来た。

家族と離れて独りぼっちになるけど、アレクセイとアナスタシアさんがいるから、堪えられそうだ。


しかしオリガ義姉様の花嫁姿は、本当にお美しかった。


日本の風習に合わせていただき、白無垢姿だったのだけれど、何と表現すればいいのか…

神々しい雰囲気が漂っていたね。


きっと天照大神が天岩戸からお姿を現した時も、こんな感じだったのか?と思ったほどだった。

アナスタシアさんや、他のお二人の妹君も目を輝かせていたね。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ロシアにおける僕の仕事は、アレクセイの側近として常に傍にいて、彼から意見を求められたら自らの所見を述べるという、難しい役目をいただくことになった。


それは公式な謁見の場でも同じなのだそうだ。

ということは、護衛役も兼務しなくてはいけないのかな?武道も習わなくてはいけないね!


それはともかく、出発前に僕は何と天皇陛下に呼ばれて、父上や兄様と共に参内したんだけど、天皇陛下としては「ロシア皇帝の側近となる人物を、無位無官で送り出したのでは我が国の名誉にかかわる」とのことで、六男としては完全に異例だけれど、従五位の位階と男爵の爵位を賜った。


日本では従五位と男爵は、共に貴族としての入り口と位置付けられるから、箔を付けて送り出そうとしてくれたみたいで、とてもありがたく感じた。


ここからは自力で出世しなくては。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そして1918年12月11日、冬にしては珍しく穏やかなこの日、ロシア立憲君主国と東パレスチナ両国の建国が同時に宣言され、新たな一歩を踏み出した。


今日から彼は、アレクセイ陛下だ。


呼び方も変えなくてはいけない。


「陛下。長時間の式典、お疲れさまでした」


建国式に続いて即位・戴冠式を終えたアレクセイは、少し疲れた様子だったが、僕が声を掛けると笑顔になった。

だけど次に表情が少し曇ってしまった。

どうかしたかな?


「彦麿。その…陛下と呼ぶのはやめてくれないか?

他人のいない非公式な場では、これまで通り、アレクセイと呼んで欲しい。

何なら、姉上たちが僕に対して使っている"アリョーシャ“でも構わないし、むしろそっちの方が嬉しいかもしれない」


いや、アリョーシャは、ちょっとまずくないか?

さすがに遠慮しよう。


「分かったよアレクセイ。じゃあこれまで通り、君の事をアレクセイと呼ぶことにするけど、それはどうしてだい?」


「皇帝としてではなく、一人くらい対等な立場で相談出来たり、友として話したりする人が欲しいんだ」


…そういうことか。息が詰まってしまうからね。息抜きも必要だ。


ともかく僕は皇帝一家の皆さんと共に、新たな首都となったウラジオストクの、日本海が見える高台に日本政府の援助によって急遽建設された仮宮にて生活を始めた。


同時に改めてロシア貴族として認めていただき、アレクセイから男爵の爵位を任じてもらった。


一番近い日本領は、ここから真っすぐ南にある隠岐の北西に浮かぶ竹島で、距離にして650kmほどだ。

少し寂しくて切なくなる気持ちがあるのは事実だけれど、アレクセイやアナスタシアさんのためにも頑張らなくちゃ!


国家としての体裁も整えねばならない。

これまでの帝政を捨て、立憲君主国を名乗る以上、真っ先に必要なものは憲法と議会だよね。


もともとロシアには、憲法も議会もあったんだ。

あったんだけれど、成立の過程は決して前向きなものではなかったと兄様が言っていた。


それは日本との戦争が原因だったらしく、日露戦争敗戦をきっかけにして革命騒動が発生した。


『ロシア第一次革命』とも呼ばれている騒動だったけれど、民衆の不満を抑えるために、先帝ニコライ2世陛下は詔書でドゥーマ(国会)の開設を約束した。

しかし、革命が収束に向かうと、先帝陛下はドゥーマの無力化を図るべく、法律などの整備を行った。その仕上げとしての役割を果たしたのが、1906年に公布された国家基本法(憲法)なんだそうだ。


憲法っていうものは勘違いされやすいけれど、どの国においても、為政者や権力者が暴走しないように設けられたものなんだ。


だけど、この時の憲法の制定に際しての手続きは民主的な方法だったとは言い難く、大臣たちが作成した案を先帝陛下同席のもとで採択し、ロシアの民衆に下賜する形がとられた。


つまり、今から見れば、作りたくはないけど仕方なく憲法を作って市民に妥協した物と言えるだろうね。


結果としてこの憲法下では、皇帝に最高統治権、法律裁可権、外交指導権、宣戦布告・講和締結権、官僚任免権などが認められており、国会閉会時における非常事態にも、皇帝の広範な権力が認められていた。


よって皇帝は、絶対的な権力を保持したままだった。


だからこそ、市民生活が苦しくなると、その怒りの矛先は先帝陛下に向かってしまったと言える。


イギリスや日本の立憲君主のように、実際の政治は内閣や議会に任せてしまい、実態として「君臨すれども統治せず」としておけば良かったと思う。


そうしておけば、例え革命騒ぎが起こってもその時の内閣が責任を取って総辞職し、次の首班指名が行われて政治体制が刷新されるから、民衆の不満もある程度抑えられただろう。


これは『王権神授説』を採用し、絶対王政を確立させたフランスにも通ずる欠点だと言えるね。

富も名誉も権力も、ひと握りの王族や貴族が独占している体制が一番危ない。


つまり、一見すると強固な体制に見えるけど、柔軟性が無いから実は脆いという意味で同じだ。

民衆の不満も溜まりやすいしね。


え?我が近衛家はどうなんだって?


…名誉は確かにあるけれど、決してお金持ちじゃないというのは間違いないね。

現在だと、資本家のほうがずっとお金持ちだろう。

これは江戸時代も同じだったはずだ。


ちょっと脇道にそれたね。

ドゥーマは、ロシアにおける議会で、貴族会議とも呼ばれる。

これは日本の国会にあたるものと、市町村の議会に当たるものが存在していたけど、特に国会に当たるものは常設機関ではなく臨時のもので、皇帝が認めないと開催されなかったし、構成員は貴族たちが中心だった。


1916年末に『ロシア第二革命』が勃発すると、議員たちは臨時政府の設立に尽力したけど、共産党(ボリシェビキ)の武力蜂起により、ドゥーマは解散した。


このような歴史を持っていたから、ロシアの憲法を復活させることはできない。


だから大日本帝国憲法を参考にして、新たな憲法を作ったんだ。

僕も作成時には意見を述べたけど、皇帝の権限を制限することと、皇帝の立場を守るという均衡を取ることに苦労した。


均衡って難しいね!とても勉強になったよ。


議会のほうは、暫定的にドゥーマを構成していた議員たちが担うことになったけれど、正式な議会を作るためには選挙も行わねばならない。


だけど正確な戸籍が無かったから、どこに誰が住んでいるか把握が難しく、現状だと大体400万人程度の人口規模だと言われているが、細かい人数まではわかっていない。


面積が広いから仕方なかったのかもしれないけれど、よくこんな状態で世界大戦に参戦して、国民を徴兵したな。と、逆に感心したほどだ。


日本で戸籍が最初に作られたのは、天智天皇の時代らしいけど、それは西暦663年に白村江の戦いで大敗してしまい、唐と新羅連合軍の反撃と、日本侵攻が危惧されたから、“防人”として徴兵して九州に送り込む必要に迫られたからだ。


国家の防衛を国民が行うという形は、当時としては画期的で、遠く離れた地域に住んでいても、同じ日本人なんだとの意識が出来たのは、世界でも珍しいものだったと言えるだろうと兄様が言っていた。


ヨーロッパ諸国が、『国民軍』としての概念を持つのは、何とナポレオンの時代だったと言われているらしいから、その先進性は特筆ものかもしれないね。


現在のロシアも、共産党の侵攻に備えなくてはいけないから、その意味でも人口調査と戸籍の作成を始めている。


もっとも、対共産党軍に対する防衛は、シベリア中部のクラスノヤルスクに日本帝国陸軍の第(しち)師団が駐留してくれているし、皇帝信奉派とも言える人たちの軍がまだ健在だったから、それらの軍人たちもクラスノヤルスクに集結しつつある状況だし、当面は安心だろう。


軍の主要な装備は、帝政ロシア時代のものが多いけれど、日本から供与された武器も行き渡りつつある。


問題の人口も、共産党支配下にある地域で行われているらしい秘密警察の暗躍を主な要因とする赤色テロ、共産主義への忌避感、最近知られ始めた収容所送りの実態、などの恐怖政治から逃れた人々の脱出が続いているから、これから人口は急速に増えるのを期待している。


ここからはまず、疲れた国民を慰撫するためにも徹底した善政を敷き、共産党との違いを明確にして、ウラル山脈より西側の民衆の移住と脱出を促し、自国民はもとより世界の人々の支持も得られないといけないと、僕は勝手に思っている。


初代首相は、帝政ロシア最後の首相だったニコライ・ドミトリエヴィッチ・ゴリツィン公爵が暫定で就任した。

この人は、ロシアにおける超名門貴族で、日本で言えば僕の実家みたいな感じだろう。


ところで、僕の立場は皇帝アレクセイの側近なので、公式な組織図には載らない。


だけど、日本の伝統と歴史をある程度知っていて、護らねばならないものと、改めなくてはならないものの均衡が大切だという事も知っているから重宝されているし、アレクセイ以外からもよく相談事を持ち込まれている。

これってとても遣り甲斐があるんだ!


明けて1919年1月1日

アレクセイによって、「ウラジオストク宣言」がロシア国民に向けて発表された。


①、広く会議を行い、政治は人々の意見によって行われるようにします。


②、立場が上の者も、下の者も心を一つにして、国を治めていくことを希望します。


③、身分の貴賤にかかわらずに、誰もが志を全うし、その意思を達成できる世の中にしましょう。


④、これまでの悪い慣習はやめ、国際社会に合った行動をします。


⑤、新しい知識を常に世界から学び続け、皇帝が国を治める基礎を築いていきましょう。


⑥以上の五つを私、皇帝アレクセイ2世は神に誓います。


これらはアレクセイが「このような世の中にしたい」と宣言した内容であり、ロシア国民に対する誓約書とも言えるだろう。

これをもって皇帝の存在に対する正当性を担保したともいえる。


日本では、ほぼ同じ内容が「五箇条のご誓文」として知られているけれど。

この宣言は、高麿兄様がアレクセイに教えた内容であるのは言うまでもない。


そして翌1月2日に、基本的な五つの禁止令が発表された。


その一:人としての道を理解し、殺人や強盗、暴行等を禁止する。


その二:民衆が徒党を組んで騒いだり、強訴を行うことを禁止する。


その三:共産主義の信奉と拡散の厳禁。マルクスは禁書とする。


その四:国際法を理解し履行すること。


その五:集団での脱走の禁止


これは日本では「五榜の掲示」として知られる禁止令に近く、五箇条の御誓文が天皇陛下が神へ向けて行ったものであるのに対して、こちらは明治政府が国民に対して行った最初の禁令と言えるだろう。


それをロシア国民向けに修正したものだ。


そして大日本帝国憲法に近いロシア立憲君主国憲法が発布され、それに続いて様々な法律も整備されていくことになった。


国際関係では露仏同盟は継続されたし、ウラジオストク西方で国境を接することになったイギリスとも合わせ、日本を含めた四国同盟は、第一次世界大戦開始時と同様の条件で継続された。


また日本と結んだ「カムチャツカ条約」の効力も維持される。


我がロシア立憲君主国の敵は、もちろん共産党だ。


ロシアにとって共産党(ボリシェビキ)は、不倶戴天の敵であり、ペトログラードやモスクワといった父祖の地を奪還するのが最終目標となる。


何れにしてもこれからのロシア(我が国)としては、国民のため、借金返済のために、これまで視界に入らずに放置してきたシベリアの開発と産業育成、日本海を通じた交易と重工業への投資を主体として人口の増大と国力の増強を図っていかねばならない。


そしてアレクセイは早々にお妃選びを行っている。

これは彼の抱えている病気が病気だけに、国家の命運がかかるからとても大切なことだ。


同時に建国された東パレスチナだが、ナホトカを首都として成立した。


ただし、国交的には「ポグロム」の記憶が生々しく、隣国となった我がロシアとはいきなり友好関係を築く事は無理だろうが、お互い協力しないと今度は共産党に蹂躙され、より悲惨な状況に追いやられるだろうから何とかしなくてはならない。


この国も憲法制定と議会の設置から動き出し、指導者としてはダヴィド・ベン=グリオンという兄様と同じ年齢の人物が担う事になった。

同時に兄様の盟友であるアンソニー・ド・ロスチャイルドさんもイギリスから東パレスチナに移住するみたいで、大蔵大臣を引き受けるみたいだから、落ち着いたら連絡を取り合おうと思う。


ロシアの建国は主にヨーロッパ諸国から歓迎されているらしい。


理由は単純で、帝政時代からの対外債務をそのまま引き継ぐと宣言したからだ。


一方の共産党は、この債務を踏み倒すと権力奪取早々に宣言していたから、共産主義の危険性と合わせて諸外国の受け止め方の違いは明白だろう。


と言っても東半分に国土が縮小し、まともな産業基盤をこれまでこの地域で整備してこなかったロシアが、いきなり借金返済を開始出来るはずが無かったから、利払い停止や返済期間延長などの優遇措置は要求したけれど。


ロシアの首都ウラジオストクと東パレスチナの首都はナホトカで、同じピョートル大帝湾内に位置しており、双方は直線距離で80km程度しか離れておらず、道路が整備されたら車を使用して3時間以内といった近さだ。


この2都市には既に日露戦争の講和条件として日本の通商代表部が設置されており、ここを拠点に日本大使館が併設されることになった。


なんか日本にとても都合よい状況だけれど、ロシア帝国との講和会議をまとめたのは父上だから、こうなることを予想していたのだろうか?


最も大切なことは、お金の工面だけれど、当面は日本からの援助と借款が命綱だ。

国力が高まるまでは我慢の状態が続きそうだな。


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