【外伝】近衛篤麿 ⑰近衛家の春
1918年(大正7年)11月22日
長男の高麿と、ロシア帝国第一皇女オリガ様との婚姻が成立したが、二人の出会いからして、何事かを予感させるものであった。
何といっても、高麿が女性を見て動揺するなど、これまでは決して無かったと言ってもよい珍事なのだ。
いや珍事。などと表現すれば、罰が当たろうというものだ。
私としては、何としても高麿には誰かと結婚してもらいたかった。
近頃は30歳を過ぎても、独身のままでいる高麿について、良からぬ噂が拡がりつつあったからな。
本当に安堵しているのが本音だ。
高麿の相手が、ロシアの第一皇女様というのは、本来であれば身分が釣り合わぬし、我が家に降嫁いただけるようなお方ではない。
付け加えれば、なかなか男児を得られなかった先帝陛下は、オリガ様に譲位する事を真剣に検討していた時期があったというくらい、聡明なお方だ。
だが、千載一遇の好機なのだ。
なんとしても婚姻をまとめねばならぬ!
そこで、早い段階から先帝陛下ご夫妻とは、二人の結婚について協議していたのだが、御二方とも「異論はない。少し年齢は離れているが、似合いの二人であろうし、むしろ嬉しい」と言ってくださった。
今までなら、お許しを頂けるとは思えないのだが、革命時には本当に暗殺の危機が迫っていたとのことで、明石中将、いや既に大将か。
彼の救出作戦が無ければ、あの地で命を落としていたであろうとの話であったから、先帝陛下を含む御一家の考えは相当変化したのであろう。
まさに遅くまで独身でいた高麿にとって、一発逆転の大戦果だと言える。
そこで二人を結び付けるべく、秘かに準備をしていたのだが、その前に高麿がオリガ様に求婚したとのことで、二人揃って報告に来た。
なんだ…拍子抜けだな。
だがこれで我が家における、最大の懸案事項は解決しそうだ。
ここからは宮中の承認も得なくてはならぬ。
我が家だけでなく、摂家においても、長い歴史上で初めてに近いと言える外国人皇族との婚姻なのだからな。
だが陛下をはじめ、皇族の方々にも、あっさりとお許しをいただき、祝福された。
高麿が独身であったことは、陛下も密かにお心を痛めて下さっていたらしく、むしろ日露両国の紐帯を強める懸け橋になることを期待されたほどだ。
肩透かしではあるが、よってこちらも問題は無かろう。
数日後には、正式に二人の婚姻を両家の名で発表したのだが、多くの方々より圧倒的な賛意と、少しのやっかみを含めた祝福をされ、ロシア皇女の心を射止めた高麿の名は、広く知れ渡るだろう。
そして今日、晴れて二人は夫婦となった。
二人の結婚は国民の間でも大きな話題となっているらしく、これを記念して11月22日を「いい夫婦の日」とする動きがあるらしい。
また末っ子の彦麿も、ロシアに渡って、皇帝の側近として支えることになるのだが、かつての敵国というか、言葉を飾らず有り体に言えば、日本に対する侵略者であったロシアとの結びつきは、これまでは考えられない出来事であり、諸行無常の一つと言っていいだろう。
15年前はどうであったか?という事実を考えれば、隔世の感がある。
それにしてもここ最近、高麿と彦麿は様々な話を頻繁にしておる。
これまで彦麿は、学校の勉強があまり得意ではなかったが、今は学ぶ意義を見出したのであろう。
とても熱心に学ぼうとしておるからか、成績も急激に上がっているし、ロシアにて様々なことを改めて学ぶであろう。
最近も、日本における過去の為政者の話で盛り上がっておるが…今日の話題は足利義教か。
新婦が席を外しておる僅かな時間を見つけて学ぼうとするとは…成長したものだ。
どれどれ、私も聞いておこうか。
「足利義教という将軍は、3代将軍足利義満の四男として生まれ、天台座主といって、比叡山延暦寺の頂点にいた人だったのだけれど、還俗、つまり一般人に戻ってから6代将軍になったんだ。
その経緯も面白くて、神前によるくじ引きで決まった。
だから、最初は周囲から軽く見られたのだけれど、義教の立場から見れば逆に"自分は神に選ばれた”という意識になったみたいで、強力な改革を推し進めた。
当時は応仁の乱はまだ起ってはいなかったけれど、"正長の土一揆”という日本が始まって以来、初めてとなる一揆が起こるなど、乱れた世の中だったから、自分自身が強力な重しとなって世の中を鎮めようとした。
言うことを聞かない比叡山を圧迫したし、家来も遠慮なく罰したんだ」
そうなのか?実は私も室町将軍については詳しくない。
南北朝という、一天両帝の有り得ない時代で、武家のみならず公家も分裂したのだから思い出したくもない出来事だし、忌避したい気持ちが強いのだ。
「ただ単に怖い人なのではなくて、そうする必要があったのですよね?」
「もちろんだよ。
室町時代というのは、政権が成立する過程で、守護大名に譲歩せざるを得なかった事情があったから、領地が広く強力な大名が多かったんだけど、それら守護大名の統制は、父親の義満までは曲がりなりにも何とかなっていたと言えるだろう。
だが、それ以降は徐々に統制が難しい状態になっていたんだ。
だから引き締めようとした」
「…必要な処置だったんでしょうけど、きっと嫌われたんでしょうね」
「そう。比叡山を実質的に焼いたときなんか、"万人恐怖”とか、"天魔の所業”なんて言われていたね。
だけど、義教自身が比叡山の最高位にいたのだから、いかに比叡山が堕落しているかを良く知ってもいたから、決して妥協しなかった。
これをヨーロッパに当てはめてみたら、ローマ教皇が還俗して王になるようなものだから、比叡山から見たら、自分たちの手の内を知っている最強無比の敵だっただろう」
んん?比叡山を焼いた?そうなのか?
「以前に、兄様から織田信長について教わった時にお聞きしましたが、比叡山を攻めたのは信長だけかと思っていたのですが、そうじゃなかったんですね?」
「むしろ信長は、義教に学んだのだと思うけれど、なぜか比叡山を攻めたのは信長だけだったと思われているね。
だけど以前も言ったように、自分の考えと正義を主張するのは必要ではあったけれど、世間の常識には合っていなかったし、理解もされなかった。そして結局最後は和を乱した存在として暗殺された」
ほう…
「今でも和を乱すのは良くないとされますものね」
「そうだね。和をもって貴しとなす。聖徳太子以来、日本ではそれが最も大切だとされている。
だけど、私が義教を評価するのは三つあって、一つはまさに比叡山に挑戦したという事実だ。
信長の努力もあったし、最近だと神仏分離令もあったから、仏教全体の影響力が低下しているので実感はないかもしれないが、当時の比叡山は絶対権力に近く、その権威は天皇家をすら凌ぐものだったと言えるだろう。
それは比叡山の成立の過程において、都の鬼門を守護する役目を担ったという側面があったことと無縁ではない。
だけど、絶対的な権力は絶対に腐敗する。
理由としては誰からも批判されないからだけど、そこに義教は挑戦したんだ」
……絶対的な権力は、絶対に腐敗するとは…近年で言えば山縣さんが近いかな。
ただし、私もそう言われないように気を付けるべきだと、高麿は暗に仄めかしておるのかな?
「足利義教って強い人だったんですね!」
「少なくとも強い信念があった人物だろう。
そして二つ目が、それまでの室町幕府が解決出来ていなかった課題を達成したことだ。
幕府に反抗し続けた鎌倉公方の勢力を排除し、義満ですら叶わなかった、九州の武力制圧を行って世の中の秩序を確定させた。
三つ目は、公私混同を排除したことだ」
「え?公私混同ですか?」
「うん。まあ権力者に限らず、人間には後継者が必要だろう?
それには子供を産んでくれる相手が必要なんだが、必然的に配偶者の実家が勢力を増すという現実が付いてまわることになる。
中華の歴史は、その繰り返しといってもいいだろう。
でもそれは、権力者の勢いを相対的に弱めて政治が乱れる要因になるんだが、義教は妻の実家すら弾圧して将軍の権威を守った。
今の時代で言えば、内閣総理大臣は父上であって、私たち家族が総理の権限を有しているわけではない。
でも、勘違いして、自分たちもその権力のおこぼれに与ろうとする下劣な考えを持つ者は少なくないし、これからも絶えないだろう。
総理大臣の息子は総理大臣ではないのだから、"我が世の春”とばかりに総理官邸に友人を招いて宴を催すなどあってはならない。
義教はそれを認めず、孤高な権力者としての立場を守ったんだ」
ほう?そうなのか…知らなかったが、我が家も気を付けなくてはな…
「でもやはり周囲からは完全に理解され、支持されたものではなかっただろう。
それどころか腫れ物に触るような状態だったのだと思う」
「僕には出来そうにありませんし、そんな人が上にいたら安心して暮らせないかもしれません」
「そうだね。でも逆に言えばそうしなくてはいけないと感じるほど、当時の幕府体制が緩んでいたともいえるだろう。
事実としては、足利義教が暗殺された瞬間をもって、戦国時代が始まったとも言える」
「えっ!?どういう事ですか?」
「義教にはまだ幼い息子しかいなかったこともあって、これ以降、幕府は守護大名の統制が出来なくなったんだ。
すると、もともと大きな力を持っていた守護大名はどうすると思う?」
「…え~…自分の土地の中で、好きなことが出来るようになる?」
「まさにそれが戦国時代だ。
そして私は、義教が暗殺されてしまったのは、ある種の油断だったと思う。
最後まで抵抗した赤松氏の制圧に成功したけれど、その赤松氏によって暗殺されたから、油断なのだろうね。
後継者も幼かったし、権力者としてそこは評価できない。
信長も、最大の障壁であった甲斐武田氏を滅ぼした直後に暗殺されているから、油断というものは、古今東西に共通する課題だろうね」
戦国時代か…結局は応仁の乱による戦火を経て乱れた世の中になり、我が家の先祖はもちろん、帝におかれても、生活の糧を得るのに苦労した苦難の時代だったのだ。
特に第105代の後奈良天皇が、もっともご苦労された帝ではなかろうか?
この帝の治世において、あまり知られておらぬが、応仁の乱をも上回る戦乱が起きてしまった。
まずは山科本願寺が法華宗に焼き打ちを受け、多くの一向宗門徒が殺された。
従って彼らは二度と被害者とならぬよう、要害の地である石山本願寺を次の拠点とするに至ったのだ。
続く「天文法華の乱」で、今度は逆に法華宗が被害者となった。
比叡山延暦寺と六角衆が、都にあった21の法華寺院を焼いたのだが、この戦乱は応仁の乱を上回る惨禍となってしまい、御所も巻き添えとなって被害を受けた。
結果としてこの帝は宸筆(天子の直筆)の書を、各地の有力者へ送り、返礼を受け取ることで収入の足しにせざるを得なかったという。
今でも宸筆が最も多く残されているのはその為であろうが、何とも申し訳ない事であった。
フランシスコ・ザビエルが御所の荒廃ぶりを記録に残しているのはこの帝の時代であろう。
そんな中で私が印象深いのが一休宗純だな。
一般的に「一休さん」と呼ばれるこの人は、第100代の後小松天皇の皇子であったのは事実だし、様々な逸話も知っている。
だが逆に言えば、あの時代の出来事については、その程度の認識しかなく、足利将軍のことは詳しくないのだ。
「ロシアにおいてはどうなのでしょうか?」
「日本のようにはいかないし、状況も全く違うから真似をする必要もない。
この話を彦麿にしたのは、義教のような政治家も存在したのだという事実を知ったうえで、彼のような無理をしないで済むようにしてもらいたかったからだ」
「ロシアにおいても、当然ながら宗教が存在すると思うのですが、どうすれば良いのでしょう?」
「ヨーロッパの教会も、見方次第では比叡山と大差ないかもしれない。
だけど、共産主義を繁殖させないためにも、ロシア正教は手厚く保護すべきだろうね。それは何よりロシア国民が望むことだろう。
それと隣はユダヤ教の国家だという事も忘れてはいけない。
向こうに行ったらユダヤ教のことも学び、手を結ぶべきだね」
「わかりました!」
ロシア正教とユダヤ教か。
そういえば、何も知らないに等しいから私も最低限の知識は学んでおくか…