第六十一話 これから先は自分の力で勝負だ
1918年(大正7年)5月
Side:近衛高麿
ここ最近は、明治の初めから日本人が必死に歯を食いしばって頑張ってきたことが、ようやく実を結び始めているという実感がある。
日清・日露戦争勝利によって得た賠償金を利用した、産業や経済面での伸長が著しい。
また第一次世界大戦への参戦と、欧州への軍需物資の供給源となったことによる戦争特需、そして戦勝による国威発揚を背景として更に好況に沸いた。
人間というものは、目の前の生活が安定してくれば次の段階を求めるようになる。
それが文化であったり、余暇を活用した趣味であったりするわけで、後の世には「大正ロマン」などと言われたりした。
この世界線においては、それがもっと顕著に表れていると言ってよいと思う。
それが「光」であるなら、一方で「影」もあるのは当然だし、光が強ければ影もまた濃くなる。
時代に取り残された人も、史実と比較してかなり少数ではあっても存在し、社会問題になりつつあるのも事実だった。
特にそれは、近年になって都市に移り住むようになった労働者階級において顕著だった。
更には英米仏といった、先進国の政治システムへの認知度が上がってきて、日本の現状と比較するような風潮も形成されていった。
そのような状況の中で、父の政権発足後しばらく経つと、現在の皇太子殿下、令和において昭和天皇と呼ばれていた方のお妃選びに対して、婚約内定後に山縣有朋らが異を唱えたことが発覚した。
お相手の久邇宮良子さん(史実の香淳皇后)の母方は、薩摩閥に繋がるから、薩長の抗争という説があるが一種の政変だろう。
これは少し時期は早いが、史実における「宮中某重大事件」が発生したことを察知した俺は、この扱いを間違うと大変なことになるのを知っているから、父にどう対応するつもりか確認を取った。
「お聞きになられましたか?山縣さんたちが、皇太子殿下のご成婚に異を唱えたみたいですよ」
当然、既に父の耳にも入っていたみたいで、顔を曇らせながら言った。
「うん。さっき聞いて、何かの間違いではないかと思って確認してみたが、山縣さんは本気みたいだったから驚いた」
やはり。ここは慎重に対応しないと、マズいことになるぞ。
「父上はどう動かれるおつもりなのですか?」
「私か?私は政治家が立ち入るべき話ではないと思うから、動くつもりなどない。
それに近衛家当主として、皇室の決定事項に異を唱えるなど考えたこともないし、臣下の分限はわきまえているつもりだ」
そりゃそうだよな。
お妃選びなんてプライベートな話、しかも既にまとまっている話に口を出すなんて。
「私も同感です。宮内省に任せて放置されることをお勧めしますが、この件がこじれますと、山縣さんは波多野宮内大臣の更迭を要求するかもしれませんので、それは受け付けず却下されるのが賢明でしょう」
確か昔から波多野大臣と、山縣の関係は良くないから、山縣はこの機に彼を辞任に追い込もうとするだろう。
宮内大臣は「大臣」となってはいるが、内閣の管理下にはない独立組織であり、父が任命したわけでは無いが、下手をすればこちらに飛び火しかねないからな。
いや山縣たちは、何でわざわざ皇室の私事にまで首を突っ込むのだろうか?
薩長の抗争が背景にあったとしても、皇室の婚姻にまで口を出し始めたら、増長していると国民に誤解されても仕方ないだろう。
しかし…これは絶好の機会だから、山縣を徹底的に潰してしまおう。
実際のところ、最初はこの話を知らなかった国民も、俺たちが積極的に噂を流したことで次第に状況を認知するようになり、当然ながら山縣たちに強く反発したし、翌年には史実通りの決着となって最終的に彼らは失脚した。
気落ちした山縣は、その後すぐに死去してしまうのだが、彼の葬儀は国葬で執り行われ、広い会場で天候も良かったにもかかわらず、政府関係者はともかくとして一般国民の参列者が殆ど皆無に近く、記者達も記録写真を撮ることを躊躇うほど、極めて寂しいものだった。
元々国民の人気は低かったが、この件が決定打になった感じだろう。
そして父は、俺が以前から進言していたことを実行に移す。
このゴタゴタを奇貨として、口うるさい山縣の勢いが翳った隙を突いて、陛下と皇太子殿下の承認を頂き、帝国議会に諮ったうえで一気に改革を断行したのだ。
一言で改革内容を表現するなら、それは「民主化」だ。
戦勝へのご褒美、というわけではないが、一部例外はあるものの、基本的に25歳以上の"男女全員″への参政権を認める決定を下した。
戦時下において、徴兵された男たちに代わって、多くの女性たちが生産現場を支えてくれたからこそ、日本と連合軍の勝利に多大な貢献をしたのは事実なのだが、この政策は世界的に見てもかなり早く、英仏なんかよりも早い。
それだけでなく、女性に課せられていた様々な制限も徐々に解除していった。
言わば「大正デモクラシー」をもっと大胆に、徹底的に推し進めた格好で、父に対する国民的人気は最高潮に達した。
また、言論と出版の自由も、大日本帝国憲法で保障されていたが、改めて不敬罪を唯一の例外としてこれを全面的に認める布告を行う。
これに関連して、労働者階級への「スト権承認」を行い、更には「独占禁止法」を制定して、過剰で強圧的な資本活動の抑制と、財閥への締め付けを行ったこととセットで、共産党の活動禁止と非合法化を布告した。
日本の立場は、あくまでもロシア立憲君主国の同盟国であり、ソ連のような共産主義国家などという存在は国家承認しないし、出来るはずもない。
これは史実以上に世界の共通認識と言っていい。
なぜならロシアが滅びず健在だからだ。
なお、厳密にはまだ呼称の上でソ連は誕生していないが、実質は存在しているし、ややこしいのでソ連と記載する。
更にこの政策は、ソ連が「コミンテルン」と呼ぶ、共産主義思想を輸出する組織が、日本で暗躍する拠点を潰す目的もある。
つまり労働者階級の待遇を改善して、不満が出るのを防ぐと同時に、不満の「はけ口」として利用しかねない共産党の精神を禁止したわけで、飴と鞭を1セットにした政策と言えるだろう。
なお、スト権を承認している以上、社会主義活動や労働運動などは特に禁止していないし、弾圧の予定も無い。
「暴力的な革命思想」のみ、叩いたというわけだ。
ここで混乱しやすいのが、共産主義と社会主義の違いについてかな。
共産主義は、一般的に社会主義の理想的な思想であり、社会主義の進化版と言われる傾向がある。
社会主義では、資本家が得た利益を国が管理し、国民の給料も国が管理して分配する考えだが、一方で共産主義は、そもそも資本家は抹殺し、すべての土地・財産と生産活動の利益を国民全員で共有するという考えがあり、国が管理する制度自体もいらないことになるから、国家そのものを否定する考えに直結しやすい上に、アナーキズムとも親和性が高く、為政者として放置はできない。
拡げる人間に悪意などなく、自分は正しいとの信念に基づく行動とは思うが、新しい考えだから素晴らしいと思って飛びつくと、最終的に国民は支配と抑圧を受けてしまうのは歴史が証明している。
わかりやすく表現すると、社会主義者は単なる不平不満を口にするだけだから宥めやすいが、共産主義者は国家の転覆をはかる行動に出やすいから危険という判断だ。
順番的には社会主義が生まれた後に、それを実現する方法として、より先鋭的な共産主義が体系化されたので、共産主義と社会主義には明確な違いが出てきたが、共産主義が力を失った21世紀では、ほぼ同じものと認識される傾向にある。
まあ諸説あるから、本当の事情は知らんし、興味もないが。
では一方で「左」はダメで、「右」なら何でもOKかと言われたら、とんでもない。
むしろ「右」の方が危険という場合だって多い。
21世紀の空気を知っている俺からしたら、極端な考え方となるのは困るし、極左も極右もどっちも勘弁して欲しいところだ。
結論を言ってしまえば、社会主義にしても共産主義にしても、その反動といった趣のある右翼にしても、大衆の支持が得られる背景として、苦しい経済状況、その結果としての国民の窮乏はセットだ。
要するに、大衆の生活を安定させることが出来れば、そのような両極端な考え方は流行しないだろう。
そして史実と、現在の経済状況はまるで違うものだ。
史実では日露戦争を勝利で飾ったにもかかわらず、賠償金を得られなかったために、戦時公債で募集した外国からの莫大な借金をはじめ借財だけが残った。
だから国民の生活も一向に向上せず、日比谷焼き討ち事件もそうだし、「米騒動」という名の暴動も起きて、それが更に労働争議にまで発展して民心は荒んでいた。
しかし、現在は戦争が終わって特需は終了したものの、高橋蔵相の適切な政策で不況には陥っていないし、穀物類の在庫においても、大戦終結時にウクライナ方面から運んだことによって潤沢だ。
幸いなことに民心も安定しているうえに、余暇を楽しむ余裕すらある状況だ。
よって現実問題として、父の政策は国民から圧倒的な支持を得ているから全く問題無い。
問題は無いのだが、5年後の1923年9月1日の関東震災発生翌日の9月2日に、「大正桜田門事件」、あるいは「九・二事件」と呼ばれることになる、共産党支持者による内閣総理大臣近衛篤麿に対するテロ未遂事件が発生した。
犯人の名は難波大助。当時24歳。
史実においては、摂政だった皇太子殿下を襲撃した「虎ノ門事件」の犯人だ。
それがこの世界では、父を襲おうとしたというわけだ。
背後関係は最後まで明らかにならずに事件が終結したから、単独犯かどうかは闇の中だが、おそらく違うと俺は見ているし、民衆もそう判断した。
自分たちの存在を認めない奴は、暴力に訴えてでも排除してやるってことかな?
それが正しい道だと信じ込んだということか。
幸いテロは未然に防がれ、父に怪我は無かったものの、暴力を是とする行動的共産主義者の恐ろしさは国民の意識に深く刻まれることになり、彼らは自ら墓穴を掘る結果となった。
以後、彼らは隠れキリシタンのごとく地下に潜り、俺との長い闘いへと続いていくことになるが、まだそれは先の話だ。
政治の世界では、山縣が最後まで守ろうとした、時代遅れの藩閥政治と決別するため、政党政治を確固たるものにするべく父が党首を務めることになった政友会と、野党となった憲政会との二大政党制が固まったのも大きな出来事だった。
これによって父が長年志向してきた政党政治が、ようやく完全な形で実を結ぶことになり、本当の意味で日本の近代化が完成した。
その際に総選挙も行われたのだが、俺は貴族院ではなく、敢えて衆議院議員として政友会から立候補して圧倒的な得票率で当選を果たした。
これから俺は衆議院議員として、国政に携わる。
つまりは、自分の名前と責任において政策立案を行う立場となったのだ。
俺に政治家が勤まるのかな?自信はないがやってみるしかないな。