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【外伝】近衛彦麿 ②

1918年(大正7年) 4月


父上と高麿兄様がフランスから無事に帰国された。


講和会議は大成功だったみたいで、日本が主張した項目は全て受け入れられたという話だった。

その結果、世界の国々が平和を守るために話し合いをする仕組みが出来るみたいで、その本部が日本に置かれるそうだ。


欧米じゃなくて日本に出来る。


それって凄い事だと思うし、日本中が大騒ぎになっている。

最近は明るい話題で日本中が大騒ぎになる事が多いけど、それは父上や高麿兄様の功績なのだから、とてもうれしい。


ただ…ロシアも国家として承認してもらったから、これまでの帝政を捨て立憲君主国として新たな国作りを始めるそうなので、アレクセイもアナスタシアさんも日本から出ていってしまうのが僕としてはとても寂しくて耐えられない…


でもアレクセイが少し改まった表情で僕に言ったんだよね。


「彦麿。僕と一緒にロシアに来てくれないか?

君と一緒なら頑張れそうな気がするんだ。お願いします」


と右手を差し出してきたんだ。


えっ!?どうしようかと一瞬だけ考えたけれど、気付いたらアレクセイの手を握り返していた。

そして「僕のほうこそよろしくお願いします」

って言っていた。


そこからはちょっとした騒ぎになったけど、父上や母上をはじめとして、高麿兄様も賛成してくれたから正式にロシアに行くことになった。

アレクセイが初代皇帝に即位して新しい国を作るんだけど、国造りをするに当たってはこれまでと同じようなやり方はしないそうだ。

続けて二回も革命が起きてしまったから、もう絶対に革命なんて起きないようにしなくちゃいけないわけで、それには僕のような外国人の意見も重要だから頼りにしていると、皇帝陛下にも言われてしまった…もう勉強は嫌いだなんて言っている場合じゃ無くなったな。

準備もあるから、ロシアに行くまでには半年以上は先となるらしい。

それまでに学んでおこう。


まず参考にしたいのは日本の政治についてだけど、今までどんな政治家がどんなことをしてきたのか知らなきゃ話にならないし、それには歴史上の人物について、もっとよく知らねばならないよね。

そこは歴史にとても詳しい高麿兄様にもっとたくさん教えてもらおう。

だけど、一度にいろんなことを言われても覚えられないからなあ…


「高麿兄様が最も尊敬する歴史上の日本の政治家を一人だけ挙げるとすれば誰ですか?」


「一人だけかい?そうだね……北条泰時かな。

私たちのご先祖様が遺された当時の日記を見ても、この人の事をあまり悪く書いていないんだ。

本当は朝廷から政治の実権を奪った鎌倉武士の代表だったのだから、もっと悪く書いていて当然なんだけどね。

つまり、同時代の対立する立場の人間から見ても立派な人に見えたということだろうね」


……そうなんだ


「どうしてそんなに皆さんの評価が高いのでしょうか?」


「いろいろ理由はあるね。でも一番大きいのは様々な改革をしたり法律を作ったりしたけれど、日本人の原理に反していないことだと思うよ」


どういうことなんだろう?


「例えば足利義教、織田信長、井伊直弼、大久保利通と並べたらどんな事を連想する?」


「…皆さん有名な人ですよね?でも共通する部分が有るかどうかは分かりません」


「正直なのはいいことだ。

全員、当時の乱れた世の中を立て直す為には必要な人材だったんだ。

その成果はとてつもなく大きいと言えるだろう。

でも、よく周りの意見を聞き入れて行動する人たちではなかったし、そんな余裕がある状況でもなかったから、自分が正しいと信じた通りに物事を推し進めるしかなかった。

その結果どうなったかな?」


どうなったんだっけ…確か…


「……ええと…全員…最後は暗殺されてしまいました?」


兄様は大きく頷いて言った


「正解だ。

以前も言ったように十七条憲法では、みんなで話し合って決めなくてはいけないのだけれど、この人たちはそうでは無く、今の言葉でいえば独裁的だと思われてしまう傾向があった。

だから結果として"憲法違反をした”と看做されたんだ。

それでもやるしかなかったのだけれど、目的が達成されたら、もう不要な存在になったと思われて殺された。

もちろん暗殺された政治家が全員独裁傾向があったわけじゃ無いし、これからもそうだから注意は必要だよ。

もっと大事なことは、政治家は暗殺を恐れずに信念を持って実行せねばならない時もあるってことだ」


…考えたこともなかったな


「北条泰時はそうではなく、師匠であった明恵(みょうえ)の教えに基づいて道理というものを最も大切にしたと言われているし、沙石集という記録にも幾つもの逸話が書かれているけれど、どれも日本人の心に響くものだね」


そうなんだ。

だけど、ロシアでそのまま通用するとは限らないよ。とも言われたから、まあ参考程度にしよう。

勉強にはなったけど、もう少し最近の人がいいな


「江戸時代の将軍では誰を評価しますか?」


すると兄様は即座に


「徳川綱吉だね。

世間の評判は芳しくないけれど、私はとても高く評価しているし、一般的には評判の良い吉宗は逆に私は全く評価していない」


意外だな。

犬公方とか言われていたのでは??

それに…


「どうして吉宗は評価されないのですか?」


「享保の改革と言われる政策を実行したのだけれど、うまくいかなかった。

もしうまくいっていたのなら、それに続く寛政の改革とか、天保の改革なんて不要だったのだけれど、うまくいかなかったから何度も改革が続いてしまったんだ」


あっ、そうなんだ。そういった見方があるのか…


「…ではどうしたら良かったのでしょうか?」


「徳川吉宗に反抗した人物として、尾張藩主の徳川宗春という人がいたんだ。

この人は吉宗の倹約令に反対して徹底的に華美な政策を領内で行った。

結果として尾張領内の景気は良くなったのだけれど、宗春は豊かになった商人たちから税を徴収しなかったから財源が尽きてしまい、そこを吉宗に突かれて蟄居…クビになってしまった」


へえ…


「今でも名古屋の人が華美で派手なものが好きだと言われるのは、その影響が残っているからだろうね。

実は私も宗春の政策には基本的に賛成なんだよ。

なぜなら世の中にお金が回ることによって景気が良くなり、人々の生活が楽になるだろう?」


そうだよね。そう思う


「でも吉宗の政策は倹約しろ節約しろというだけで、私に言わせれば無策に等しかった。

国庫に不安があるならば節約させるのでは無く、逆に経済が回るような施策をして消費を促し、人々の気持ちを明るくして豊かにしたうえで税収を増やさなければいけないんだ。

でなければ先細るばかりだろう?」


先細ってしまうのは嫌だ


「でも最後まで商人から税を取るという発想が主流にならなかったから、実際に幕府は先細ってしまったんだけれど。

ところで彦麿は仁徳天皇の有名な故事を知っているかい?」


……聞いたことがあるな…


「ええと…民の(かまど)から煙は上がっているか?という話でしたっけ?」


「よく知っているじゃないか!

その通りだよ。仁徳天皇はある時に民の竈から煙が上がっていないことに気付き、それは民が困窮しているからだと知って、民の生活が楽になるまで税を免除したんだ。

まさに為政者は税金をむしり取るのではなく、逆の発想をしなくてはいけないんだ。

現在で言えば税金を取るのは馬鹿でも出来るけど、産業を育て、人々を豊かにしてから取るという考え方をしないと世の中は発展しない。

仁徳天皇のお墓…だと…言われている御陵が、あれほど巨大になったのは人々を助ける為の、一種の公共事業だったのだと私は考えている。

だから、どん底から這い上がる為には徹底した善政を最初に敷くべきなんだ」


そうなんだ!

ロシアにおいてもそうするべきだよね?


「母上の実家である加賀前田家も、かなり華美な印象ですけれど、尾張藩と同じ理由でそうなったのでしょうか?」


「前田家の場合は成立の過程で徳川家から常に反逆を疑われ、取り潰す口実を見つけようとされていたから"武”ではなく、無理にでも"文”を強調しなくてはいけなかったんだ。

だから金沢は京都に並ぶような文化が花開いたと言えるだろうね」


へえ……歴史って繋がっているのか!


「では高麿兄様が吉宗を評価しないのはお金が基準なのですね?」


「それだけじゃないな。さっきも言ったように吉宗は尾張のやり方を認めず締め上げたんだけど、尾張は紀伊、水戸と並ぶ徳川御三家だったことは知っているよね?

そして吉宗は紀伊の出身だった。

だけど、御三家とはいいながら紀伊・尾張の二藩と水戸には差があったんだ。

官職で言えば紀伊と尾張の藩主は代々、大納言に任命された人が多かったけれど、一方で水戸は一段下の中納言までだった。

中納言の事を中華では黄門っていうから、水戸黄門とも呼ばれたけど、だから水戸黄門は全部で7人いるんだよね。

また、紀伊と尾張には参勤交代の義務があったけれど、水戸には無くて、常に江戸にいるように命令されていたから、これを逆手にとって"水戸は副将軍だ”などと身内では言っていたらしい」


ははあ…


「なぜ水戸だけ区別したかと言えば、徳川宗家の血統が絶えた際の予備が紀伊と尾張で、思想的な予備が水戸だったんだ。

だから水戸は将軍になる資格が無かった代わりに伝統的に尊王思想を重んじて、世の中の考え方がどれほど変わっても、例え武士の世が終わっても徳川家が生き残れるように、家康が知恵を絞ったと言えるだろうね。

でも吉宗が尾張藩を徹底的に締め上げてしまった。それに対して尾張の人はどう思っただろう?」


「…いつか自分が将軍になったら紀伊に復讐してやろうと思うのではないでしょうか?」


「その通りだ。そして吉宗にも加害者としての自覚があったはずだ。

だから御三家に加えて自身の子供を使って御三卿というものを新設したんだ。

そうすれば吉宗亡き後に将軍になれる資格がある家が宗家を含めて六つになるけれど、五家が紀州系で、尾張は一つしかないから、尾張が将軍になれる確率は20%以下だ。でも実際にはその可能性はゼロに近かっただろう。

つまり御三卿は尾張を排除しようとした吉宗の我欲が生んだ制度だった。

しかし最後の徳川将軍は御三卿の一つである一橋家の出だが、もとの生まれは水戸だった」


えっとそれは?ちょっとマズいんじゃ?


「水戸は伝統的に尊王思想、つまり天皇家を尊崇する考えの家だと説明したけど、武家よりも天皇家が大切だという教育を受けて育った人物が武家の棟梁になってしまった」


「…だから武士の世が終わって明治になったのですね?」


「そう!その通りだ。結果としては吉宗が我欲を通した、或いは尾張を恐れたせいで徳川の世が終わったんだという表現も出来るだろうね」


すごい!なんかすごく良くわかった!


「もっとも、吉宗にも良いところはあった。自身の後継者を誰にするかという時に、通常は長男に譲るものだ。

しかし実は長男は少し問題があったのに対して次男は優秀だった。

だから家来は吉宗の後継者として次男を推す声が大きかったのだけど、従来からあった長男優先の慣習を変えず、長男に将軍職を譲ったんだ」


「どうしてですか?」


「そうしないとお家騒動になってしまうからさ。

ここを曖昧にしてしまうと、長男派と次男派に分裂して争いが起きてしまうんだ。

こういうのって個人でも大きな問題になる場合があるかも知れないけれど、権力者は本当に気を付けなくてはいけないんだ。

もっと状況が悪くなると国は内側から滅びることになるし、歴史的にみて外からの攻撃だけで滅びた国家は実はそんなに多くないんだ。

多くの場合は内部で問題が発生したところを外敵に突かれて滅びるんだ」


つまりここまでの話をまとめると、人の上に立つ人間は自分の事だけを考えてはいけないし、人の意見をよく聞きつつも信念をもって判断しなくてはいけない。

そして人々の生活を第一に考えなくてはいけないから大変な仕事だね。


それからしばらくして父上は内閣総理大臣になった。

国のかじ取りをする大役を仰せつかったんだけど、僕も父上のやり方をよく見て参考にしようと思う。


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