第五十九話 パリ講和会議②
Side:近衛高麿
我々日本全権団は事前協議の席において、日本の提案である人種差別撤廃提案を英仏に受け入れて貰いやすくするために、とっておきのカードを切る。
それは本会議でウィルソンが提案するはずの「民族自決」を、彼より先に交渉材料に使うのだ。
日本語で「自決」とは「自殺」という意味もあるが、この場合は当然違うので誤解なきよう。
全ての民族には、自分たちの未来を決める自由があるという意味だ。
非の打ち所のない素晴らしい提案じゃないかだって?
最終ゴールとしては素晴らしい部分もあるので、俺も全否定はしない。
しかし、現時点で突然これをやるのは無理がある。
特に植民地を多く抱えている英仏はとても受け入れられないし、多民族国家はもっと難しいだろう。
それに今よりはるかにリベラルな21世紀においてすら、突然言われたら困る国は多数あるだろう。
そこで、全権代表の父は英仏側には下記のような提案を行った。
「もし英仏が人種差別撤廃提案を受け入れて貰えるのであれば、民族自決の提案を日本から「は」発議しないつもりですが如何でしょう?」と。
逆に言えば、日本の提案を認めないなら、英仏にとって人種差別撤廃提案よりもっと過激な「民族自決」を主張するぞという、半分以上は脅しと言える内容だ。
英代表ロイド・ジョージと、仏代表ジョルジュ・クレマンソーは顔をしかめながらも
「そのような提案など持ち出されては困る」と異口同音に言っていたが、それはそうだろう。
そんな事をすれば彼らの植民地経営が成り立たなくなってしまうのだから。
一方の人種差別撤廃提案なら、まだ傷は浅くて済むと判断したのではないかな。
また、日露戦争時のポーツマス講和会議の席上における、ロシア全権に対する父の恫喝発言は国際的に有名で、英仏側でも当然知っていたから、父の機嫌を損ねては大変だとの思いもあったみたいだ。
要するに日本側は「どっちを選ぶ?好きな方を選んでいいんだよ?」と、優しく脅した感じだろう。
英仏全権団は共に苦々しげにしていたし、本音では「黄色い猿が好き勝手言いやがってこの野郎」なのだろうが、各々本国と相談した結果、最終的には両国から日本が提案した人種差別撤廃提案を、国際機関創設の際に規約の前文に盛り込む事に賛成するとの確約を得た。
どっちを選ぶかと言われたら、答えは明白だろう。
いよいよ講和の本会議が始まった。
最初に国際連盟について父が日本としての提案を行う。
要約すれば「人類の歴史はこれまで戦争と共にあった。今回の悲劇的な戦争も、多国間にわたる問題について話し合う場も無く、問答無用で開始されてしまった。よって、戦争を回避するため話し合う国際機関の設立は是非とも必要である」
というもので、参加国の大多数が賛成し、詳細は別途協議するものの国際機関の設置が決定された。
ウィルソンは悔しそうだったが。
ここで父がさらに一言、念を押す。「新たな国際機関における取り決めは、多数決を基本として全会一致での可決は必要としないものとする」と。
ウィルソンが変なことを言い出さないための先制パンチだ。
ここにも反対する国が無かったからまずは一点クリアだ。
続いて「ロシア立憲君主国」と、「東パレスチナ」の建国と国際的な国家承認についてだ。
簡単に述べると、ロシアについては「共産主義者の悪逆非道な魔の手からロシア民族の安定と平和を図るために必要」であるとの内容で、東パレスチナについても「主にヨーロッパ大陸における非人道的行為からユダヤ人を守るために固有の国家が必要」ということだ。
議長のウィルソンが「日本の野心が疑われる」と嫌なことを言い出したが、「民族の安定」、「人道」といった錦の御旗に太刀打ちできず、各国が日本の提案に賛成した事から、顔をしかめながら黙る。
だが、次の瞬間、言い出した。1時間にわたって長々と念仏のように。
国際連盟とロシアの件については、日本に先を越されてしまったから史実の14か条ではなく12か条だったが。
内容は以下となる。
①から⑤はアメリカのエゴむき出しだ。俺が彼の本音を分かりやすく解説したものを追記しておく。
①秘密外交をやめて透明な外交交渉を行いましょう。
→講和会議において各国が個別に行っている交渉内容を俺にも教えろ。
②誰にでも開かれた公海の自由が必要なのです。
→英仏の植民地にもアメリカを出入りさせろ。
③経済的障壁と貿易障壁を除去しましょう。
→機会均等と門戸開放を実現する為にアメリカへもっと配慮しろ。
④軍拡競争は終わりにしましょう。
→お前たちはこれ以上軍事力の強化を行うな。アメリカは継続するけどな。
⑤植民地側の主張を受け入れた民族自決を実践しましょう。
→アメリカは英仏に代わって世界の名誉あるリーダーになるのだ。
続いても色々と話していたが、割愛させていただく。
いや〜とにかく本当に気持ち良さそうに演説しているし、演説中の彼の目がイッテいると感じるのは俺がこの人物の本性を知っているからだろう。
史料を読むだけでは分からない貴重な体験が出来た。
しかし色々と夢みたいな事を勝手に話しているのは問題だろう。
それにしても、やっぱり持ち出したか民族自決。
しかも史実においては、「民族自決はヨーロッパに限定する」などと、全く意味不明なことを言っていたが、今回はそういった地域限定の話ではなくなっている。
日本に主役を奪われる格好になったから、相当焦っているのだろう。
英仏の代表団は全員、顔面蒼白で「いきなり何を言い出すんだ」といったところか。
せっかく日本の暴走を押さえ込んだと思ったら、まさかの議長からの爆弾発言だ。
しかし、ウィルソンは先住民であるネイティブアメリカンを迫害して彼らの土地を奪い、自分たちの国家を勝手に作ったのはどこの誰だか知らないのかな?
その残虐性は普通の人間の感覚なら、眉をひそめるくらいでは収まらない酷薄さだ。
こんな美しい事を言い出すのは、せめてハワイをカメハメハ王朝に返してからにして欲しいものだ。
当然、フィリピンものらりくらりと先延ばしせずに即時に独立させなくてはいけないだろう。
結局自分の提案したことは、最終的に自分の足元に爆弾を設置したに等しい行為であることに気付いていないと見える。
つまり墓穴を掘ったわけだ。
以前も指摘しておいたが、一言で民族と言っても定義が曖昧で、英語では『ethnic』や『nation』などの違いがあるのに、ウィルソンが現時点で言っている内容は、単純に『people』なのだ。
これでは『民族』とは何なのかさっぱりわからないし、ある民族?が自決権を要求してきたとして、その正当性を、どの基準でどう判断するのかなんてその都度条件が変わってしまうだろう。
仮にそれを承認して国家を一つ作ると、新たな国境線が生じることによって新たな少数民族が発生し、問題が際限なく拡がっていく。
日本だって歴史的に見たらアイヌ問題や琉球と言い出したら、それこそキリがなくなってしまう。
世界的にみて珍しい『単一民族』で構成される国家だと一般的に言われる日本においてさえそうなのだから、諸外国はもっと収拾がつかなくなるのは間違いない。
それどころかイギリスに至っては、これを認めたらグレート・ブリテン島の本国ですら四分五裂になってしまうだろう。
結局のところ現時点でこれをやってしまったら、平和の構築どころか世界中に紛争の種をばら撒き、もっと混沌とした状況に追い込む悪魔の所業に等しい行為と判定されるだろう。
案の定、ウィルソンの提案はどこの国も一顧だにしなかった。当たり前だと思うが。
このウィルソンの発言に対して日本側代表団が反応した。
「アメリカの提案される内容はとても重要で意義深く、たいへん素晴らしい内容だと思いますし、日本としては全面的に賛同するものです。
従いましてハワイの独立もこの機会に承認されては如何でしょう?
ハワイが独立国に復帰するなら、そのお手伝いの苦労は惜しみませんし、我が国は即座に国家の承認をいたしますぞ?」
と父が発言したし、続いて石井外相も言った。
「本当にそうですな。
それに今から20年ほど前の米比戦争において、アメリカによって虐殺されたフィリピンの民衆はどれ程の人数になるのですかな?
50万人ですかな?60万人ですかな?100万人という人もいますな。その犠牲となった人たちにも謝罪と賠償を行ったうえで、独立を承認すべきですな」
これにはウィルソンも反応できずに押し黙るしかなかった。
二人ともなかなかやるな。
この世界では日本の満州における利権と、アメリカのフィリピン・ハワイを互いに承認しあうという「高平・ルート協定」は結んでいないから言いたい事が言える。
同様に中国大陸の利権を承認しあった「石井・ランシング協定」も結んでいない。
台湾しか植民地を持っていない日本の立場は、英仏なんかに比べたら遥かに自由で気楽だし、俺個人としては台湾独立に反対なんかしない。
現時点で地政学的に優位だから領有しているだけだと認識しているし、アメリカとは違って弾圧も虐殺もしていない。
ちゃんとした指導者、例えばそろそろ生まれるだろう「岩里政男」のような世界の歴史に刻まれるような優秀な人物が出てきて、反日政策さえ取らなければ、いつ独立しても問題ないとすら思う。
いや、植民地などという代物は近い将来に全て手放して独立させないとダメだし、日本が責任を持って主導し、率先して提案していかなくてはいけないだろう。
そうする事で国際社会において名誉ある地位を得る結果に繋がるのだ。
それは非白人国の日本にしか出来ない特権であり、責務だろう。
今回の人種差別撤廃提案などは、その突破口となる最初の取組みなのだから。
英仏や日本同様に、ドイツやオーストリアを含む参加国のほとんどから反発を受けたウィルソンは、以後は意気消沈といった感じで議長に徹していた。
戦勝に貢献できていない国の発言権は弱いという結論かな。
しかし、そうは言うものの、アメリカ合衆国大統領が民族自決を提案した事実は重く、この発言に勇気づけられた人々によって、これ以降は世界のあちこちで独立運動が盛んになる。
例えばインド亜大陸もそうだし、朝鮮半島や満州もその一つだ。
イギリスの受難は続く。
因みに日本はこれ以降、ハワイとフィリピン、そしてアメリカ本土においては南北戦争で踏みにじられた旧南部諸州の独立派やネイティブアメリカンの人たちを密かに支援していくことになる。
これも立派な民族自決だよ。ウィルソン大統領はそれが叶えられて本望だと感じて欲しい。
続いては日本側が人種差別撤廃提案の発議を行うが、すったもんだの挙句に、やっぱり最後にウィルソンが「こんな大事なことは全会一致で無いと認められない」と言い出したものの、先に新設の国際機関は多数決で行うと決議されており、日本側が強引に押し切って多数決により採決され、承認された。
そもそも民族自決を行えなどと綺麗ごとを言い出しながら、同時に人種差別をしても問題ないだなんてナンセンス、いや思考の分裂の極みだろう。
例えるなら「クジラを殺すなど許さない」と言いながら、人殺しに走る組織みたいなものか。
こうして最大の懸案事項だった人種差別撤廃提案は受け入れられ、日本側の目的は達成したものの、ヨーロッパの国境問題を含む戦後処置は大いに揉め、2ヶ月近くかかって何とかパリ講和会議は妥結にこぎつけた。
そして、やはり史実通りに第一次世界大戦の戦争責任はすべてドイツにあると定められ、ドイツ国民にとって死刑判決に等しい賠償条件が突きつけられた。
これは公平に見てかなり野蛮な判断ではないか。
日本としては何とかこれを穏やかな内容にしたかったのだが、なまじ英仏が民主主義国家である事が災いした。
どういう事かと言えば、英仏ともにドイツによって多大な死傷者を出しており、家族や恋人・友人・知人を殺された人達から見たら、容易にドイツを許せないのは当然であって、過酷な条件がドイツに突き付けられたのは必然だったし、仮に英仏政府がドイツに対して融和的・妥協した内容で条約を結んでしまったら、次の選挙で生き残れないのだ。
それは理解するが、これでは追い詰められたドイツは悲惨な経済状況になるし、世界恐慌とブロック経済化でとどめを刺され、失業者があふれることになって最終的にはナチスとヒトラーの台頭を許してしまうのではないのか?
大変よろしくないのは明白なのだが、ひっくり返す手段がない。
日本が穏健な決着をつけさせる事など初めから出来なかったという話だ。
この点においては俺の負けを認めなくてはいけないだろう。
そして年が明けて1918年(大正7年)1月18日。
この日に全ての国家の代表団は、わざわざベルサイユ宮殿に移動して調印式を行ったのだが、この日付は47年前の同じ日、1871年(明治4年)1月18日にドイツ帝国初代皇帝ウィルヘルム1世の戴冠式がここ「ベルサイユ宮殿」で行われた日付だ。
だからフランス側は、どうしてもこの日にベルサイユ宮殿で調印したかったらしい。
フランス人の執念深さと、怨念の強さを感じ取れる出来事だと言っては失礼になるのかな?
ドイツ人はこれをどう受け止めたのだろう?
自業自得と諦めたのか?それとも?
確か史実においてヒトラーはこれに当て付けて、パリを占領した際に列車だったか何か忘れたが、別の手段でフランスにやり返した記憶があるが。
まあ気の合う仲間同士だと思っておこう。
そして俺は、講和会議終了後にジェイコブ・シフやアンソニー・ロスチャイルド、アンソニーの長兄ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルドと、次兄のエヴィリン・アシル・ド・ロスチャイルドと会って今後の打合せを行った。
両家とも東パレスチナが国家承認されたことをとても喜んでくれた。
教義的な観点から、ユダヤ人全員が東パレスチナを肯定的に捉えているわけではないそうだが、取り敢えず旧ロシア国内やウクライナ・ポーランド周辺といった「ポグロム」の被害が大きかった地域に居住しているユダヤ人から移住を開始するとのことで、急ぎ国家の体裁を整えなくてはならないと張り切っていた。
最初の国民は数十万人と言ったところかな。
安全保障については、日英が責任を持つことに決定したから問題ないだろう。
ロシアと東パレスチナが安定するまでの期間は、両国の防衛に日本陸軍第七師団をクラスノヤルスクのエニセイ川東岸に駐留させることが決定しているから大丈夫だろう。
また、ロシアと東パレスチナの境界は明確に設定してロシアによってユダヤ人が再び迫害されないようにしなくてはならない。
史実ではジェイコブ・シフはあと数年で亡くなってしまうだろうから、彼に会うのもこれが最後になるかもしれないな。
しかし、彼の存在があったから俺の計画もここまで実行できたのは間違いないし、本当に感謝するしかない。
また、結局のところ今回の革命に際しては、レーニンとトロツキーに対して、あの巨額の融資を行ってはいないから、史実と違って赤軍の組織力も軍事力もそれ程大きくない点も大変ありがたい。
ロシアを安定させるまでの時間稼ぎが出来そうだ。
ここで何故、ユダヤ人にとってより安全な樺太や台湾といった、「島しょ部」に東パレスチナを建国しなかったのか疑問に思うかもしれないが、単純に樺太は21世紀以降も日本固有の領土としておきたかったからと、苦労して勝ち取った土地を見知らぬ他人に譲ると知った国民感情に配慮したためだ。
また地政学的な意味合いも、もちろんある。
別れ際にシフがしみじみと言った。
「やはり私の期待した通り日本は神の杖だった。
これからユダヤの民はロシアとの確執は忘れて前に進むことが出来るでしょう。私はもう長くはないでしょうが、東パレスチナと日本にこれからも神のご加護があらんことを祈ります」
彼の言葉は何故かずっと俺の心に残る言葉だった。
しかしこれでようやく俺の目的は達成出来そうで、あとは最終段階としてこれからソ連とどう向き合うかが課題だ。
それとアメリカがそこにどう絡んでくるかも未知数で、とても重要な問題だし、ヒトラーも登場してしまうだろう。
これも頭の痛い問題だ。
やはり、日本も強力な諜報組織が必要な時期が来たな。
今回の講和会議においては、通信傍受を恐れて日本本国とは薩摩弁でやり取りしたのだが、正直疲れた。
これは大山巌と夫人の捨松のエピソードからヒントを得たのと、薩摩弁は史実でも第二次大戦で実際に暗号の代わりに使われたらしいが、こんなことに頼らずとも済むよう、本格的で強力な暗号も早く欲しい。
それにしてもウィルソンという男は、竜頭蛇尾の典型みたいな人物だったな。
パリ講和会議の席上における奴の存在感は、後半になればなる程に薄れていった。
もう二度と彼に関わる事はないだろうから一安心だ。
アメリカで次に問題になる男は、フランクリン・ルーズベルトか・・・
あの男も難敵だが、まだ大統領になるまでは10年以上先の話だ。
それまでにあの男に付け入る隙がないような体制を固めておきたいところだし、慣例を無視して四選されるような状況は作り出さないようにしないといけないだろう。