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【外伝】近衛篤麿 ⑭五蘊盛苦(ごうんじょうく)

1917年(大正6年)1月


帝国陸海軍がヨーロッパにおける戦争、この頃は欧州大戦と国内では言われていたが、その戦争に本格的に介入してからは東西の戦線共に劇的な変化が起こった。


まずは北海においてユトランド沖海戦と呼ばれる一連の戦いが行われ、日英艦隊はドイツに対して決定的な勝利を収めることが出来た。

日英側でもそれなりの損害は出たものの、遣欧艦隊で沈没した艦は出なかったし、人的な被害もそれほど多くは無かった。

私としては高麿が無事だとの報告があったのが最もうれしい出来事だったのは正直なところだが。


イギリス海軍もそれなりの損害を受けたし、人材面でも手痛い損害を受けたが、制海権を完全に掌握したものと判定され、それは遣欧艦隊の功績が極めて大きいものであるとイギリス側も認めたから、帝国海軍の精強さは世界共通の認識となりつつあるし、同盟国から見た日本に対する信頼は揺るぎのないものとなったであろう。


勝利に大きく貢献したのは遣欧艦隊がドイツ艦隊の針路に設置した機雷原だった。

しかし、今回は偶然成功したという要素は排除しきれないし、今後は各国が警戒するであろうから機雷に頼るのは危険だ。

一方で駆逐艦や巡洋艦が攻撃に用いた魚雷は戦果が予想以上に大きかったと判定された。

機雷も魚雷も共に敵艦の水線下への攻撃を行う兵器だ。

一方で戦艦による主砲弾の命中率は、砲戦距離が大きかったこともあって戦前の予想を下回る結果となった。


実のところ昔から高麿は戦艦同士の砲撃戦というものに対して疑義を唱えておった。

そもそも戦艦という艦種は建造にも維持にも膨大なカネがかかる割に、示威としての効果はともかく、これからの海戦においては主役とはなり得ないと断言していた。


しかし日本ではもちろんの事ながら、世界の海軍においても戦艦という艦種をどれだけ保有しているかというのが、その国の国力を測る尺度となっているのだから、最初聞いた時には否定の言葉が口から出てしまった。

それに対して高麿は次のように言った。


「日清戦争における砲戦距離は平均して3000m~4000m、日露戦争においては6000m~7000m、そしてこれからの海戦は主砲口径が大型化し、主砲の仰角が上がることによって1万m、2万m、果ては3万m以上にまで拡大していきますが、その一方で戦艦の速度も上がるため、双方が動く中で命中弾を得るのは至難の業となり、尚且つ船体が大型化して主砲口径が拡大される一方で、防御構造もそれ以上に改善されていきますので、矛と盾の関係。

すなわち矛盾となりますが、これからは基本的に盾が優位となり、主砲弾が一発命中したからといって敵艦の交戦能力を奪えるとは限らず、恐らくは20発以上の命中弾を与えないと撃沈出来なくなります」


更に続けて


「その一方で魚雷は水線下への攻撃なので、命中すれば確実に敵艦に対して浸水をもたらすのです。

そして浸水とは重量増と同義ですから艦の速力低下に繋がり、次の魚雷攻撃を回避する能力を奪うので更に魚雷命中率が上がることを意味します。

恐らくはどれほど巨大な戦艦でも魚雷を5発も被弾すれば戦闘能力を喪失するでしょうから、戦艦の主砲による攻撃よりも優れており、更に言えば魚雷を航空機に搭載できるようなれば、そちらが費用対効果も優れています」


と断言しておった。


………という事は、だ。


今回の海戦の戦訓を取り入れた、強大な打たれ強さと攻撃力、そして今以上の俊足を得るためには更に大きな船体と大馬力の機関が必要で、そうなると更に莫大なカネがかかる事は疑いなく、今後は進化し続けるであろう飛行機と魚雷にどう対抗するかが問題となるのだな。

本当に戦艦に注力して良いものか、今回の海戦の結果を見て私も自信が無くなってしまった。


高麿は近い将来において艦艇に飛行機を搭載した"航空母艦”なるものが出現するであろうと言っておった。

これは現実に水上機母艦の「若宮」という軍艦が既に存在しているからな。

十分あり得るだろう。

ということは…


それはさておき、今回の海戦の結果、ドイツ艦隊は壊滅状態になったと言って良いだろう。

これまで長い時間と莫大な費用をかけてイギリスに比肩しうる海軍を育成してきたのだが、これでその努力は水泡に帰した。

もともと海洋国家では無かったからな。

大陸国家らしく陸軍だけに注力しておれば良かったと今になって改めて思うし、無理に海軍力を高めてイギリスに対抗しようとしたことが間違いの発端ではないのか?

要するに大陸国家と海洋国家の二兎を追う政策を採用したのだ。


最強国のイギリスですら完全には達成できてないのだ。成功するはずが無いではないか。

ましてや英仏に比して植民地も多いとは言えない。

北部でしか海に面していないあの国が、海軍力を整備せねばならぬ必然性はなかったのだ。


ドイツ皇帝は先の見えない愚か者であったと後世言われ続けるであろうが、これまで日本はこの皇帝によって何度も嫌がらせを受けたし、死地にも追い込まれたのだ。

ましてや黄禍論など絶対に許せぬ!

よって気の毒だなどとは間違っても思わないが、ままならぬものだ。


ユトランド沖海戦後は北海沿岸に点在している潜水艦基地を叩き、ドイツUボートを活動停止に追い込んでいるらしい。

しかし、この海戦はこれからの世界史に確実に影響を及ぼすことになるであろうな。

今すぐには無理であろうが、北海の制海権を完全に掌握できればドイツへの物流は止まるし、何よりも停滞する東西の戦線とは別に北側からドイツへ攻め込むことが可能になるだろうからだ。

日英陸軍はドイツ北部からの上陸作戦実行に向けて準備を進めているとの事で、恐らくは5月には上陸作戦を決行できるとの連絡がきた。


そして東部戦線でも動きがあった。

文麿の所属する遣欧陸軍が本格的に介入し、オーストリア=ハンガリー帝国を降伏に追い込んだのだ。

遣欧陸軍総司令官の秋山大将は積極果敢な攻勢に出て、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍を蹴散らしたのだが、それには飛行機と戦車が大活躍したらしい。


陸軍に対して積極的に開発予算を廻して正解であったな。


高麿が出征前に文麿に対して口を酸っぱくして言っていたのがロシアの件だ。

革命の機運が本当に出てきたから、欧州大陸に深入りした状態でロシアで革命騒ぎが起きてしまっては最悪の場合として進退が極まってしまう。

よって即断、即決、速攻が何より重要なのだと。

今回の戦いにおいて飛行機と戦車は機動力を高める意味で、十分に役に立ってくれたみたいであるな。


これらの新兵器を見た敵方は日本陸軍の精強さを改めて知り、恐慌状態に陥ったらしい。

オーストリア=ハンガリー帝国陸軍はもとより、ブルガリア陸軍も遣欧陸軍に対しては逃げる以外の策は無いのか?と思うような惨状を呈しておったという。

オーストリア=ハンガリー帝国への進攻開始から20日で、ハンガリーの首都ブダペストを防衛していたオーストリア軍を降し、ハンガリーを平定すると、更に20日後にはオーストリアの首都ウィーンに迫った。

これに対して日本軍と直接対峙したオーストリア軍将兵の士気は更に落ち、投降兵・脱走兵が続出して軍は崩壊寸前となっていった。


そして偶然か否かは知らぬがオーストリア=ハンガリー帝国皇帝が崩御したことによってさらに国内は混乱し、遂には降伏を申し出てきた。


ハンガリーの東側に位置しているルーマニアはこの機を逃さず、同盟軍側に対して宣戦を布告し、ルーマニア南部からブルガリアへ襲い掛かった。

同時にイタリアとギリシャがドイツとオーストリアに対して宣戦布告をして、オーストリア国境からウィーンを伺う勢いを見せた。

どうやら日本の本格参戦を見越して参戦時期を伺っていたようではあるが。

イタリアはドイツとは同盟関係にあったが、オーストリアとは国境紛争を抱えており、この機に乗じて領土を掠め取ろうとしたらしい。


結果としてブルガリアも降伏した。

そのような状況において、昨年12月末にはロシア国内で民衆暴動が発生したため、秋山大将は危険を感じ取り、オーストリアの守りはイタリアとギリシャに任せて、補給線の確保を優先させるために一旦モスクワ南部まで後退する事にした。


ロシア国民も都市部を中心に、苦しい生活を強いられることになっていたが、遂に暴動に発展してしまい、本格的に革命が発生したのだ。


1917年(大正6年)7月


北海の制海権を完全に奪った日英軍は、北部からのドイツ上陸作戦を準備してきた。

そして入念な準備が整い、5月初頭に東フリージア諸島近くのノルデンに上陸を果たしてベルリン進撃を開始した。

この状況を受けて西部戦線に貼り付いていたドイツ軍は、北部への対応の為に兵力の移動を試みたが、これに対峙していた英仏軍は最後の力を振り絞って追撃に出た。

塹壕戦の膠着は遂に崩れ、激しい戦闘の結果ドイツ軍は20万人に及ぶ損害を出して敗退した。

しかし英仏側の損害も大きく、これ以上の前進は不可能な状態となった。


日英軍の北部からの上陸に合わせて、東部戦線にてドイツ軍と対峙していた秋山大将の遣欧陸軍は、いつでも後退出来る体勢を維持しつつドイツ領内へ故意にゆっくりと進撃を開始した。

これに対してドイツ軍は日本軍を迎え撃つため、東部戦線にも更なる大兵力を振り向ける必要に迫られ、遂に作戦能力の限界を超えてしまった。


ノルデンに上陸した日英軍は、ドイツ側の抵抗を排除しつつ慎重に進軍し、上陸2か月後の7月7日、ベルリンを西側から半包囲する事に成功して、ここに至ってドイツ政府は連合軍に対して停戦と降伏を申し入れた。

そして皇帝ウィルヘルム2世は退位し、オランダへ亡命した。

これを見たオスマントルコ内部でも反乱が発生し、戦争継続など不可能になってしまい、こちらも連合軍側に降伏を申し出て、ちょうど3年にわたって激戦が戦われ、未曽有の犠牲者を出してしまった大戦はようやく終わりを告げた。


それにしても……先帝陛下がおっしゃられたように人間とは何故これほど愚かなのであろうか?

ままならぬものだが、我が国も同じような過ちを犯さぬよう気を引き締めねばなるまい。


そして帝国陸軍が得た欧州における戦訓としては、戦車と飛行機の有用性が確認できた事実が挙げられるだろう。

共にそれほど多くの数は投入できなかったし、稼働率も決して褒められたものではなかったものの、今後の戦争においてはこの二つの兵器は欠かせない物になるとの結論に至ったようではある。

だが馬力が足らぬ点が目立つので今後、陸軍の技術部は研究を進めて改良を行う事だろう。


その一方で気になるロシアのその後だが、明石元二郎中将が部下と共に前皇帝一家救出の機会を狙っておったのだが遂にその時がやってきた。


前皇帝一家は革命臨時政府により軟禁状態にあったが、それはボリシェビキ(共産党)に引き継がれ、扱いはさらに酷いものとなって、遂には人道的に問題となるレベルになっていった。

そして一家はエカチェリンブルクというウラル山脈東方山麓の街に送られ、秘密警察によって裁判無しで処刑されるらしいとの情報を入手した明石中将は、旧ロシア宮廷や政府内に残っていた皇帝派の人物たちと協力して救出作戦を決行した。

大戦終結直後の7月11日深夜、エカチェリンブルク郊外のイパチェフ館に監禁されていた一家を救出するために、まず周辺で陽動となる火事騒ぎを複数個所で起こし、警備の兵士の目をそちらに逸らした隙に、一家とその側近の人々たちを救出する事に成功した。


その後は日本陸軍の帰国に合わせ、シベリア鉄道を利用して前皇帝一家を含むロシアの人々を日本へと送り届けた。


8月15日

無事に一家が日本に到着し、我が家にて保護することになった。

あの強大な権力を誇ったロシア皇帝が祖国を追われる……諸行無常か。


ままならぬものだ。

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