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第五十四話 ロシア革命

1916年(大正5年)12月末


Side:近衛高麿


とうとうロシア革命が始まってしまった。

しかし、このロシア革命は、ある日突然始まったわけではなく、その前兆は既に50年以上前から出ていた。


原因の一つは、クリミア戦争における敗北が挙げられるだろう。


ロシアは以前から、不凍港を求めて南下政策を強めており、1853年にはクリミア半島を手に入れるべくオスマントルコとの間にクリミア戦争を始める。

しかし、英仏がトルコ側についたため、敗北してしまったのだ。

これにより黒海の中立化が決定し、ロシアの南下政策は失敗した。


この失敗を反省材料とした、当時のロシア皇帝アレクサンドル2世は、敗北の原因となったと判断した前時代的なロシア国内の近代化を進めるために、農奴と呼ばれた階層の人々を開放し、土地を有償で貸し与える政策を実行した。


これに対して都市部のインテリ層を中心に、後に「ナロードニキ運動」と呼ばれる革命思想を持った人々による運動が開始された。


彼らの主張としては、確かに農奴は解放されたが、土地が有償で貸し与えるのでは話にならないし、結局のところ資本家が肥え太るだけだというもので、一種の社会主義、共産主義活動だった。


その活動の高まりの結果、アレクサンドル2世は暗殺されてしまった。


日本から見たら、超大国で恐ろしい相手に見えたロシアは、このように実は内部に矛盾を抱えた、大病人とも言える存在だったわけだ。


また、もともと共産革命が成功しやすい土壌が形成されていたとも言える。


そこへ追い討ちをかけたのが日露戦争における大敗だ。


南下政策の矛先を極東に向けたのは、ドイツにそそのかされた面もあるが、シベリア鉄道の完成が間近であり、ウラジオストクとの陸路がつながれば、不凍港をアジアに求めるメリットが大きいと判断したからでもあった。


だが、日本なんて少し脅せば、たちまち降伏するだろうと思っていたのが、とんでもない狂犬ぶりに慌てたというのが実情だろう。


日露戦争における戦況が悪化し、連戦連敗となると、またまた政情不安が表面化し、「血の日曜日事件」や、「戦艦ポチョムキンの反乱」に代表されるロシア第一革命と言える事態に陥ったのはこれまで述べたとおりだ。


その後は国内の工場などに勤める労働者のストライキに悩まされ、国力は目に見えて落ちていった。


そこへトドメを刺したのが第一次世界大戦だった。


普段からひっ迫していたロシアの鉄道輸送が、軍需物資優先にされてしまったために、穀物の輸送が滞ってしまい、その結果、都市部に穀物が届きにくくなってしまうという現象が生じた。


また、主要な生産地であるウクライナ周辺の集荷場には、穀物が都市部へ送られることも無く野ざらしになって腐ってしまったという例もたくさん発生した。


特に首都ペトログラード(レニングラード→サンクト・ペテルブルク)の周辺には、穀物の生産地がなかったために、穀物の不足がとりわけ厳しいものになってしまっていた。


こうして、1916年年12月の段階では、食糧備蓄ともいうべき首都の穀物ストックが2週間程度にまで激減していったと言われている。


そんな状況の中で、首都ペトログラードで食糧を求めるストライキが起こることになり、それがロシア革命のきっかけになってしまったわけだ。


特に良くなかったのは、ニコライ2世は宮廷内に引き入れたラスプーチンの"予言“を信じて、最前線の指揮をとっていた叔父のニコラエヴィッチ大公を罷免したうえに、自らが最前線で指揮をとり始めたことだ。


皇帝不在の首都において、アレクサンドラ皇后とラスプーチンが政治を主導するようになって失政を重ねていった。


そしてついに1916年12月、ペトログラードにおいて発生した食糧を求めた民衆のデモは暴動へと発展して、瞬く間にロシア国内の他の都市へも広がり、収拾がつかなくなった。


ラスプーチンは怒った貴族たちによって殺され、政府は暴動を抑えようとしたが収まらず、1917年1月、ニコライ2世は退位に追い込まれるに至り、300年続いたロマノフ王朝はここに終焉を迎えた。


これは後にロシア第二革命とも、12月革命と呼ばれる事になる。

皇帝一家は一般市民の身分に落とされたが、臨時政府によって監禁され、地方都市を転々とさせられる運命を辿る。


この過程で、皇帝への敬意は次第に失われていき、一家に対して暴言を吐く兵士さえ現れる始末だった。


皇帝の後を受け継いだ臨時政府は、ロンドン宣言を継承し、ドイツとの戦争を継続させると宣言したものの、戦果は上がらず、東部戦線は再び膠着した。


この間にロシア国内の政情は更に不安定化する。

臨時政府の代表格となったアレクサンドル・ケレンスキー は日本軍との連携を取ろうとせず、ロシア軍独自の反攻計画を立てて実行したのだが、5万の死傷者を出しただけで何の成果も得られず、軍内部の士気はどうにもならない程に落ちていった。


そしてこれまでのボリシェビキ(共産党)たちの暗躍が表に出始める。


レーニンやトロツキーを中心とするボリシェビキ構成員たちは臨時政府の方針を攻撃し続けていたのだが、遂に1917年6月、ロシア軍内部での武装蜂起が発生したことに乗じた、後にボリシェビキによるロシア第三革命とも、5月革命とも呼ばれる暴動が発生し、レーニンはボリシェビキによる革命政府樹立を宣言した。

これが後にソ連と呼ばれることになる国家の誕生の経緯だ。


このメンバーの中には、もちろんスターリンも含まれており、レーニン死後にスターリンが独裁を完成させるのはもう少し先のことになるのかな?


いよいよお出ましになりそうだな。

スターリン。


俺が恐れているのは「もしかしたらこいつも俺と同じ転生者じゃないのか?」という点だ。


何れ詳しく説明することになると思うが、スターリンはボリシェビキ(共産党)の大物になるような人物じゃなかったし、レーニン死後の権力の掌握もそうだが、周辺の日独米英といった大国からの干渉を排除するどころか、積極果敢に諜報活動を仕掛けて生き残り、最終的に地球を二分割するような巨大な帝国を作ってしまうのは出来過ぎだと感じている。


これが全くの偶然というなら「ツキまくった男」と表現するしかない。

本当にそう思うくらいツキに恵まれていた。

本来ならソ連など真っ先に滅びてもおかしくなかったのにも関わらずだ。


仮にこの男が転生者なら、現在の世界情勢をどう見ているだろうか?

「俺の知っている世界と少し違う。誰かが操っているのではないか?」と思うだろう。


調べれば、俺の存在にすぐ気付くのではないかな。

なにせ俺は本来この世界にいない人間なのだから。

ただ、現段階でこの男が俺と同じ転生者かどうかは何とも言えない。


歴史を知っている俺から見ると、怪しさ全開なのだが、本当に転生者で俺と同じく先が読めるなら、あの異常な猜疑心と臆病さは何なんだ?という疑問もあるからだ。結果が分かっているなら恐れる必要はあるまい?


だから本当にただの偶然なのかも知れないが注意深く見ていきたい。


それはともかく、誕生して間もないソ連は、ロシア軍全体の掌握に手間取っており、一気にドイツと和平を結べる状況ではなかったし、積極的な攻勢に出ることもなかった。


この過程において、正面にドイツという強敵を控えて、革命の推移を傍観するしかなかった遣欧日本軍は、ロシア防衛に強い危機感を持ったため、政府に更なる増援を依頼し、日本は追加で10万の兵力を派遣した。


ただし日本としては、いかに経済が好調はいえども、これ以上の増派は国内の経済活動に支障を来すと恐れており、何とか短期で決着をつけたいと考えていたが。


一方でオーストリアが敗退したことでドイツ国内の士気も一気に下がっていった。


既に戦争は3年を経過し、国民生活の窮乏も表面化して、不満も増大しつつある状況だ。

もうこれ以上の兵士の徴兵はできないし、何より海上封鎖されている事で物資や食料が入手できず、継戦能力は最大でもあと3ヶ月と軍内部では秘かに試算していた。


ちょっとしたきっかけがあればドイツは崩壊するだろうが、どこの国も限界まで来ている。


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