第四十八話 サラエボの悲劇
1914年(大正3年)6月28日
Side:近衛高麿
オーストリアのフランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビアの首都サラエボを訪問し、暗殺された。
有名な「サラエボ事件」だ。
しかし、実はこの事件は、一般に知られているよりもかなり根が深いし、もしかしたらウラがあるのではないかと考えられる。
そもそもの話、よりによって何故この日を選ぶのか?ということからして問題だ。
何故かと言えば、セルビアにとってこの日は、「聖ヴィトス」という特別な日だからだ。
詳しい説明は省くが、聖ヴィトスの日とは聖人を称えると同時に、偶然ながら「セルビア民族が外国に敗れたものの、相手の王を殺害する事に成功して一矢報いた」記念日でもある。
だから当時の状況から判断したら、反オーストリアの民族意識が特に高まるの日なのは、容易に想像できたはずだが…
このフランツ・フェルディナントという人は、奥さんがチェコ人だったこともあり、同じスラブ系民族で構成されるセルビアに対して同情的・融和的で、それがオーストリア宮廷内で嫌われていたという事実があり、もしかしたら宮廷関係者が故意にこの日を訪問日として設定したのでは?
という疑いも、ないではない。
また、この人は一般的には「皇太子」殿下と表現されることが多いが、正確には「皇儲」殿下だ。
皇帝の甥であり、皇位継承者には違いないのだが、先ほど触れたように奥さんはスラブ系チェコの、しかも単なる貴族出身だった。
これがいわゆる「貴賤結婚」とみなされ、宮廷内では結婚に反対する意見が多かったのだが、この人はそれらの意見を無視して強引に結婚した。
人間としては実に立派な態度かもしれないが、その反動として、夫妻に子供が出来ても、その子に皇位継承権は認められないとの条件が宮廷内より突き付けられた。
また軍務を除いて、夫妻が一緒に公式行事に出席することまで禁じられてしまった。
当日、この人が奥さんと同じ車両に乗れたのは、軍務であると称して軍服を着ていたからだ。
そういった経緯なので、単なる皇位継承者という意味で皇儲殿下と訳される。
ここまで読んだだけで、ハプスブルクの宮廷内では相当「浮いていた」のでは?と、想像させるに十分だろう。
更にはセルビアに駐在していたオーストリア総督の当日の動きは、かなり怪しかったとだけ言っておこう。
この地域の複雑さの象徴としては、当時のサラエボはセルビアの首都だったが、21世紀においてセルビアの首都はベオグラードだ。
で、サラエボは?といえばボスニア・ヘルツェゴビナの首都だ。
1992年に起こった紛争の結果そうなった。ユーゴスラビアの…関係ないからやめておこう。
しかし、目まぐるしく国境線が変更され、新たな国が誕生したのだなという実感は持ってもらえるだろう。
島国の日本ではあまり経験できない現象だ。決して積極的に経験したくないが。
それはともかく史実通り、夫妻は殺害された。
なお、この時に夫妻が乗車していた真紅のベンツは、後に「呪われたベンツ」として多くの人間を死に追いやったとして有名になるが、実はこの話は都市伝説らしい。
そもそも使用された車両は、ドイツのベンツ社製ではなくオーストリア製だし、色も赤ではなく黒っぽい色だった。
そして現物は、ウィーンの軍事博物館で事件後ずっと展示されていたから、所有者が次々に交通事故で死ぬなんてあり得ないらしい。
それはさておき、夫妻の殺害を知ったオーストリア宮廷関係者は、内心でどう思ったかは知らないが、表向きは激怒した。
そして単なる報復処置だけではなく、懸案だった政治問題の解決法として、この機会にセルビアを併合してしまうことを画策し、セルビアに対して最後通牒を突き付ける。
つまり、この事件を口実として、政治的に利用しようとしたわけだ。
ここで欲を出さずに、少しでも穏便に済ます事が出来れば何の問題もなかったかもしれない。
よくある国家間紛争で片付いた可能性すらある。
しかし、オーストリアの立場としては、軍事行動を起こすにはドイツの支持が不可欠であったため、ドイツに対しては事前に内容を通告したのだが、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世、及び政府は、オーストリアに白紙委任をしてしまった為、ドイツの承認が得られたと判断して最後通牒を手交してしまった。
ちょっと…その辺りの判断は、間違っていたと判断せざるを得ないが。
セルビアは、オーストリアの最後通牒に記載されていたほとんどの項目は認めたが、オーストリアの判事を裁判に同席させろとの項目だけは拒否する。
それに対して、オーストリアはセルビア側の誠意が感じられないとの理由で開戦を決意し、国内に総動員令を掛けるに至る。
うーん。自国の判事をねじ込むなんて常軌を逸しているし、やっぱりなんかオーストリア内部の一部勢力による陰謀の匂いが…
ま、疑わしきは罰せずだから、これ以上は触れないでおこう。
一方で、事ここに至り、進退極まったセルビアは自らの親分、スラブの盟主たるロシアに泣きつき、頼られたロシアは動かざるを得なくなって、オーストリアに対抗すべく動員を開始する。
これを見て慌てたのが、ドイツ参謀本部だ。
こちらでは有名な「シュリーフェンプラン」に基づいて、二正面作戦の計画を立てていた。
東西に露仏という強力な敵を抱えるドイツは、何とか勝利を得るため、まず開戦初頭に露仏のうち弱いほうである西のフランスを攻め、これを降した後に、面積の広い大国であるが故に、兵士の動員をかけるのが遅いであろうと予想されるロシアに全力を向ける、というかなり無謀なプランを立てていたのだ。
しかしながら、ロシアの動員が遅いとの前提で成り立っているシュリーフェンプランは、この前提が崩れ、すぐにでも発動しなければならない。
そこでドイツ政府の最後通牒が、ロシアの首都ペテログラードに突き付けられるという事態になってしまった。
こうなってしまうと、ロシアの同盟国であるフランスは、ロシアとドイツという1対1の戦争ではないから、条約に基づいて国内に総動員令を掛けて動き始めるし、協商関係にあるイギリス、イギリスの同盟国日本へと玉突きで飛び火して、結果として世界大戦に至る。
以前に日露戦争のところで説明した通り、露仏同盟も日英同盟も1対1の戦争なら中立を守り、1対複数になったら参戦義務があるためだ。
誰も戦争を欲したわけではないのに、戦争が始まるという、これではまるで自動マシンみたいだと評した学者がいた。
もしかしたらそれが最も適切な表現かもしれない。
少なくとも欧州列強で戦争を望んだ国など、オーストリアを除けば無いのに、あれよあれよと言う間に全面戦争に至ってしまった。
まるでヨーロッパ全域に複雑な条約網を張り巡らせた、ビスマルクの呪いが発動したみたいだと表現した学者もいる。
これもある意味正しいかもしれない。
とにかく誰も望まないし、予想もしていないのに戦争が始まってしまったのだ。
それもバルカン戦争のような小国同士ではない。
大国同士が全面的にぶつかる大戦争だ。
人類の不幸がここから始まり、日本も俺も、必然的に巻き込まれることになる。
俺はこれまで可能な限り、日本とアジア方面の歴史にしか干渉しないようにしてきた。
あっちこっちで色々といじると、収拾がつかなくなるからだ。
だが、これからはそうはいかなくなるだろうし、日本も絡んでくるから、ヨーロッパが史実通りにいくのはここまでだろう。
しかし、戦争を踏み台にして国威発揚を図ろうとするのは、本当に不本意としか言いようがない。