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【外伝】近衛篤麿 ⑫怨憎会苦(おんぞうえく)

1912年(大正元年)9月13日


先帝陛下の大喪の礼が滞りなく執り行われ、明治天皇と(おくりな)された。

明治からの日本は国家体制を近代化し、世界の列強に伍するだけの国家へと成長を果たしたが、これらは先帝陛下の業績であるから、今後は明治大帝とも言われるであろう。


ともあれ、本格的に今上陛下の御代が訪れたが、世の中は服喪の空気に満たされている。


挿絵(By みてみん)

↑↑喪章を付け、明治天皇に対する服喪の意思を示した夏目漱石↑↑


私は虚脱から抜け出せず、乃木さんのように「殉死」という選択も頭をよぎったが、先帝陛下よりこの国の未来を託されたのだ。

そんな事をしてしまえば、あの世でお叱りを受けるのは必定だ。

よって何としても生きて、時代を切り拓いていかねばならぬし、前に向かって進まねばならないのだと思うようにした。


それにしても…先帝陛下という後ろ盾を失ってしまった私は、藩閥との孤独な闘いに身を置くことになるであろうし、最悪の場合は排斥されることも覚悟していた。


だが、意外にもそれほど悲観するような状況ではない。


まずは皇后陛下、いや今は皇太后陛下か、この方の私に対する信認が厚かったのが挙げられるだろう。


そして今年33歳となられる今上陛下も、先帝陛下の申し送りがあったとのことで「近衛を兄とも慕い、その言を受け入れる」と表明してくださったのだ。


これは私への追い風となる、極めて強いお言葉であった。


ただし、先帝陛下のお言葉通り、高麿ともよく相談して対処していかねばならないだろう。


まずは元老の諸氏を説得し、正しき方向へ導かねばならぬ。

改めて現時点での私以外の元老は以下の通りだ。


・松方正義 77歳 薩摩閥 


・井上馨  76歳 長州閥 


・山県有朋 74歳 長州閥 陸軍閥


・伊藤博文 71歳 長州閥


・大山巌  70歳 薩摩閥 陸軍閥


・桂太郎  64歳 長州閥 陸軍閥


この中で長州閥は井上、山縣、伊藤、桂の4名であるが、実は伊藤さんや桂さんは、政党政治に近い考え方を有している。

この時点で私に近い考え方の人たちが多数派となるのだが、だからと言って一挙に改革はできないし、山縣さんを懐柔するような策を講じなくてはならない。


そもそも、伊藤さんと山縣さんは、明治以降の政治への関わり方が最初から違っていた。


伊藤さんは、明治の初めに岩倉使節団の副使として、不平等条約の改正交渉と国家建設の理想型を欧米諸国に求め、アメリカへ向かった。

英語は堪能であったが、この時は肝心の全権委任状を持っておらず、成果なく引き上げている。


一方の山縣さんは、伊藤さんに先んじて欧米8カ国を視察、その近代的な軍制を見聞し、特にフランスとドイツの徴兵制度を詳しく学んでいた。

帰国後は兵部省の実質的な長となり、陸・海軍省が設置され、徴兵制が実施されるや35歳の若さで初代の陸軍卿となった。

その後に西南戦争が起こると、その平定に乗り出したのが山縣さんであり、自ら兵を率いて西郷軍と戦った。


気がつけば、山縣さんも伊藤さんも明治政府を牽引する立場となっており、彼らを押し上げたのは、自ら欧米に出向き、先進文明を学んだ成果だったのだろう。


しかし、あくまでも少数の藩閥政治にこだわる山縣さん…

それに対し、伊藤さんは政党政治を目指すという大きな差となり、いつしか二人は対立する関係ともなっていたわけだ。


明治15年、伊藤さんは憲法と議会政治を調査するために4度目の外遊に旅立ち、ウィーン大学のシュタイン教授から大きな啓示を受けた。


それこそが「君主機関説」だ。


天皇陛下でさえ、1つの機関であるという考え方で、帰国した伊藤さんは宮中と政府を切り離し、大臣ひとりひとりが責任を負う内閣制度を導入、自ら初代内閣総理大臣に就任したのだ。

更には明治22年2月、伊藤さんが作り上げた大日本帝国憲法が発布され、日本は立憲国家としての仲間入りを果たした。


一方で山縣さんは、政党政治を嫌い、藩閥政治にこだわり続けていた。


徴兵令による新軍隊の編成、軍政改革の遂行、そして「軍人訓戒」・「軍人勅諭」による明治近代軍隊の精神の啓蒙など、軍隊の近代化の実現に尽力することで藩閥政治を支え、憲法体制を維持・強化する役割を担っていた部分もあった。


その結果、官僚や軍部に自らの派閥を形成し、長く権力を維持している。

この要因として挙げられるのが、山縣さんの性格であろう。

対人関係においては、心を許すまでは慎重だが、一度信用した人物はとことん人事的に重用することでも知られ、こうした中から軍部や政官界に「山縣閥」と呼ばれる派閥が形成されるようになったのだ。


これは人付き合いが淡白で、自らの派閥を作ることに消極的な伊藤さんとの大きな違いであり、山縣さんは自身の派閥を基盤として着実に権力を握っている。


そして山縣さん自身が第3代内閣総理大臣となり、2年弱という在任中に「市町村制」及び「府県郡制」の公布による地方自治の成立、「第1回帝国議会」の開会、「教育勅語の発布」などを実現し、軍人としてだけでなく、政治家としても地歩を固めている。


だが、同時に「集会条例」の強化を指示するとともに、「保安条例」の強行実施により、市民の反政府運動の弾圧を強化した。


これにより官僚と軍人からは支持を得ながらも、国民からの大きな支持は得られていない。

いや、有り体に言えば嫌われていると表現してよいだろう。


う~ん。


二人を足して、二で割れば丁度良くなるような気がするのは気のせいかな?

私はこの二人の良い点も悪い点もよく見たうえで、先帝陛下の期待に応えねばならないだろう。


取りあえずは、伊藤さんが例の憲法問題以降は私に協力的であるし、大山さんや桂さんも私に好意的だから、注意すべきは山縣さんと井上さんだな。


松方さんは…よく分からないところがあるが、こういった政争とは距離を置いていそうだ。


よって悪い方へ転んでも、4対3と多数工作は可能だから、慎重に且つ大胆に事を進めていこうと思うが、本当にあの憲法の一件は大きかったのだと改めて感じるところだな。


ここまでは政党政治を選択するか、それとも藩閥のままで日本の舵取りをするのかという話ではあるが、ついでに言えば陸軍と海軍の関係も芳しくない。


既にロシアとの戦争において表面化しておったのだが、高麿に言わせれば、これがますます顕在化して、国家としての方針を誤るような事態にまで発展する恐れがあるというのだ。


それは容易に想像できるな。


長州閥は陸軍。


薩摩閥は海軍。


その利権とも言うべき範囲が、明確に分かれてしまっておる。


それでも最初の頃は組織も小さく、問題とはならなかったし、薩長で分担するのは当時としては最善の方策であったのは間違いではなかったであろう。


しかし、組織というものは、常に「敵」を必要として、それを打ち倒すために肥大化するものだ。

清とロシアとの戦争に勝利し、更には四国協商によって日本の安全が確保できると、次の敵は「外」では無く「内」に向かうやもしれぬ。

いや、すでにその兆候は出始めている。


それでは何のために兵を養っているのか分からなくなってしまう。


どうすれば良いのだ?と高麿に問えば、「陸海軍を統合したうえで、上位組織を作ってまとめるべきです」という答えだった。


なるほど。


陸軍大臣や海軍大臣ではなく、双方を統合した大臣の下で統括させるべきであるというのだな。

これは正しき道であろう。


それと海軍については、新型巡洋戦艦が来年以降に続々と竣工していくから大幅に強化される一方、陸軍については新型兵器の拡充を行い、装備を充実させることで不満を抑えようという提案だった。


ロシアとの戦争においては機関銃というものが登場し、多くの陸軍兵の命を奪ったが、今後はそれだけに留まらず、装甲を施した車両に機関銃や大砲を装備した「戦車」なるものが登場するであろうとの予測をしておった。


私が「戦車」と聞いて思い出すのが、古代オリエントを起源とする戦闘馬車「チャリオット」だが、高麿によればそのような牧歌的なものでは無く、もっと禍々しきものであり、ヨーロッパは既に研究を始めているはずだと予測で、我が国も負けずに予算を投入して開発せねばならないと言っておった。


それから空を飛ぶ機械だ。


日本では「飛行機」という名を付けられており、10年ほど前に、動力式の飛行機が空を飛んで以降、研究と開発が進んでいる。


これはプロイセンの将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツによって80年ほど前に著された、戦争と軍事戦略に関する書物である「戦争論」の中に明示されているように、「制高点」を確保することに繋がる故に重要なのだとは高麿の考えだ。


戦争とは昔から、高い場所の取り合いであったな。


高所から見下ろす優越感と安心感、反対に低地にいて見下ろされる側の無力感と不安感。

それを地理的な要因に頼るのではなく、飛行機という文明の技術によって人為的に作り出すという発想が可能となったというわけか。


特に海に囲まれている我が国においては、飛行機を使用して「高い山」を作り出し、敵に対して優位に立つことが可能となる。


これを高麿は「制空権」と呼称していたが、海軍において有効な手段であろうことは疑いないな。

それを陸軍においても採用し、大陸の平原という「海」のような条件下でも、高い山を作り出して敵に対して優位に立とうとするべきだと言っていた。


もっともな話であるな。


ただ、機関銃や戦車、飛行機と言った兵器が近代化していく中にあって、現在のような軍人勅諭のような精神論偏重では、いずれ立ち向かえなくなるのではないのか?という疑念が出てくるな。

ロシアとの戦争においても、今少し戦況が悪ければ何としても勝利をつかむために、白兵戦に持ち込もうとした指揮官は多かろう。


それでは命の無駄遣いだ。


同じ無駄遣いをするのであれば、武器の研究に使うべきであろう。


というわけで、陸軍に対しての予算の増額を積極的に行うようにしている。

お陰で山縣さんの機嫌も悪くないように見受けられるし、山縣閥の軍人や官僚も、新兵器の開発に夢中になってくれておるし、シーメンスという会社幹部と海軍関係者が起こした贈収賄事件もあまり問題とはなっていない。


1914年(大正3年)


遂に世界最大最強を誇る超ド級巡洋戦艦「金剛型」が全艦就役した。


36センチ砲という巨砲を8門装備し、28ノットという俊足も兼ね備えた最強艦で、これを一気に8隻保有することによって、英独に比べて劣っていたと評価されていた海軍力の強化がなされた。


1番艦 金剛。


2番艦 比叡。


3番艦 榛名。


4番艦 霧島。


5番艦 赤城。


6番艦 天城。


7番艦 高雄。


8番艦 畝傍。


挿絵(By みてみん)


8番艦の畝傍(うねび)については、先代の同名艦がフランスで建造され、日本へ回航中に行方不明となってしまった経緯から「不吉な名称である」との反対意見が多かったが、そもそもこの名前は、初代神武天皇が即位なされた場所にある山からの命名であり、不吉なはずが無かろうと私が押し切った。


そして高麿は3番艦「榛名」の主計中尉として乗り組みを命じられた。


頑張るのだぞ!


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