第四十六話 ウィルソン登場
Side:近衛高麿
1913年(大正2年)となった。
史実と同じく、アメリカでは3月4日にウッドロウ・ウィルソンが第28代大統領に就任した。
この人物の登場によって世界は新たな混乱に巻き込まれてしまったが、この世界ではどうなるかな。
読者の皆さんはこのウィルソンに対して、どんなイメージを持っているだろうか?
・第一次世界大戦に参戦することで、連合国の勝利を決定付けた功労者?
・その後の国際問題の解決策として問題提起した国際連盟提唱者?
この二つは多分、中学生でも習うことではないかなと思う。
少し詳しい人なら、大戦後のパリ講和会議における14項目の提唱者である事はご存じかもしれない。
そして、概ね「平和の守護者」といったイメージが強いのではないか?
しかし、実はそれはとんでもない誤解かもしれない。
最初にアメリカの時代背景だけ説明しておくと、アメリカは1823年に時のモンロー大統領によって宣言された「モンロー主義」が有効な時代だ。
建国以来、もともとアメリカは孤立主義の傾向が強かったが、モンロー宣言によって確定した。
これは簡単に言えば、アメリカはどこの国とも軍事同盟などの条約は結ばない代わりに、ヨーロッパ列強諸国もアメリカには干渉するなという考え方だ。
21世紀のアメリカは世界の紛争に首を突っ込む、とてもお節介な国だったが、この時代は逆だったわけだ。
さらにその後、モンロー主義の対象は、南北アメリカ大陸全域に対するヨーロッパ諸国の干渉にも反対する、という段階へ進んだ。
ヨーロッパから見たら随分と身勝手なことを言うと感じただろう。
また「オレに干渉するな」と言いながら、ハワイやフィリピンへの侵略はキッチリ行っているから、本当に自分勝手でダブルスタンダードで、実にアメリカらしい。
史実においてモンロー主義は、第一次世界大戦に参戦して以降の一時期だけは影を潜めたが、戦後は再びモンロー主義の原理に戻る勢力が優勢となった。
ウィルソンが提案した国際連盟への参加は、肝心のアメリカ議会で否定されて国際連盟未加入となり、アメリカの孤立主義の根深さを世界に知らしめたのだ。
また、この状態は真珠湾攻撃まで継続されたとされている。
つまりウィルソンはモンロー主義に反対したわけだが、彼の業績として知られるのは第一次世界大戦への参戦と国際連盟の提唱だけではない。
第一次世界大戦のパリ講和会議においては以下の主張をする。
・講和交渉の公開と秘密外交の廃止
・公海航行の自由
・関税障壁の撤廃
・軍備縮小
・植民地の公正な処置
・ロシアからの撤兵とロシアの政体の自由選択
・ベルギーの主権回復
・オーストリア=ハンガリー帝国内の民族自治
・オスマン帝国支配下の民族の自治の保障などなど。
字面だけ見ると、何が問題なんだ?21世紀においては大変素晴らしいとされている事項も含まれているじゃないか?と思うかもしれないが、実際にはそう単純な話ではない。
彼の本性を証明する出来事が、ウィルソンが学長を務めたことがあるプリンストン大学において2020年に発生した。
俺の記憶によれば以下のような内容だった。
「プリンストン大学は、公共政策・国際関係論の研究機関として世界的に有名なウッドロー・ウイルソン・スクールから、元大統領の名前を外す決定を発表した。
原因はウイルソンの人種差別は、当時の基準に照らしても問題だったからだと説明した」と。
まず事実として、ウィルソンは人種差別主義者だったのだ。それも同時代人が眉をひそめるくらいの。
ここは重要だから、是非とも覚えていてほしい。
ウィルソンは悪名高いクー・クラックス・クランを賞賛する言辞すら発しているし、当時の主な差別の対象は黒人だが、もちろん我々アジア系も含まれている。
そして大統領権限において、人種隔離政策等の実行を関係省庁に命令している。
またこんな話もある。
牧師だったウィルソンの父親は、彼に牧師を継がせようとしたが、それに反して政治家を志した。
ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治活動を天命とした事で、ジークムント・フロイトの精神分析の対象となった。と。
宗教オンチの日本人は、「神の子」の部分は読み飛ばすかもしれない。
日本は生きている人間が死後に神様にまつりあげられる国だ。
思いつくだけでも菅原道真、平将門、楠木正成、豊臣秀吉、徳川家康(以下略)だ。
21世紀においても、かつてこう呼ばれていたプロ野球の投手もいたし、スポーツの世界で「神」はよく聞く単語だ。
それとそのものズバリで呼ばれた格闘技の選手もいたから、別に何も感じないかもしれないが、欧米で言うところの「神の子」とはつまりイエス・キリストのことだ。
キリスト教の重要な教義の中に三位一体説がある。
この考えはプロテスタントもカトリックも共有する概念であって、中身について簡単に触れると、父と子と聖霊は一見すると別物のように見えるが、実際には一つの存在だとするもので、これにより結局のところウィルソンは「俺は神だ」と思っていたということになる。
そして精神分析の世界で不朽の名を持つフロイトが、「とても興味深い」もしくは「こいつはやべぇ奴だ」と認定したということだ。
その視点で見るとなんか色々とんでもない人物だというのはご理解いただけるだろう。
神になったつもりで、さっきの要求をしていたことになる。
人種差別主義者のくせに、自分を神だと思っている人物がアメリカ大統領職にあるって本当に危険だ。
後のフランクリン・ルーズベルトを大関級のヤバさだとしたら、こっちは横綱級だ。
だから日本がパリ講和会議で提唱した「人種差別撤廃提案」にも反対したというわけだ。
アメリカが参戦してしまって戦勝に貢献した場合、この男が講和会議で日本人を蔑視しながら、表では綺麗事を並べてドヤ顔をするだろう。
世界がこんな男の美辞麗句に騙されては非常に厄介だから、何とか参戦そのものを阻止したいところだ。
アメリカの政治が出てきたついでに、改めて日本国内の政治体制についても触れておかねばならないだろう。
現在の日本は、憲法のもとに内閣総理大臣を首班とした議院内閣制を採用している。そして現在は「桂園時代」だ。
桂園時代とは桂太郎と西園寺公望が交代しながら、何度も総理となって日本を主導していく時代だ。
やはり史実の大正政変は起きる余地がなかったから、まだ西園寺公望が首相を務めている。
そして日本の政治で大きな力を持っているのは、以前も触れたが元老と呼ばれる人々だ。
黒田清隆、伊藤博文、山縣有朋、西郷従道、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、近衛篤麿の9名が元老となっており、現在存命なのは黒田、西郷を除く7名だ。
史実では既に暗殺されている伊藤博文は、大陸との関係が無くなったことで暗殺される理由が消滅したから存命だし、父も存命で、功績によって2年前に元老に叙されている。
メンバーを簡単に紹介しよう。
・伊藤博文 無類の女性好き。女性絡みの逸話多し。
・山縣有朋 無類のカネと権力好き。国民的人気は全くない。
・松方正義 無類の女性好き。子供の数は22人だが、多すぎて本人は把握出来ていないらしい。
・井上馨 無類の女性とカネ好き。せめてどちらかにして欲しい。
・大山巌 無類の西洋かぶれ。魔女が出そうな家に住んでいる。
・桂太郎 通称「ニコポン」。誰にでもニコニコして、ポンと肩を叩けばOKだと思っている。
・近衛篤麿 大アジア主義の元首魁。政界ナンバーワンの武闘派。
……この国は大丈夫か?と思うかもしれないが、仕事は一流だし大局観も持っている人が多い。
そもそも、女性絡みの話はスキャンダルにはなり得ない時代だ。決して羨ましいとも、素晴らしいとも思わないが。
カネの問題も令和に比べれば比較にならないほど、おおらかな時代だ。みんなやっているし。
後世いろいろ言われる山縣有朋も、実は気のいいオジサンで情に厚いところもあるから憎めない。
つまり人間的な魅力にあふれた人達とでも評しておこう。
しかし本当にアクとクセの強い人たちが多い。
俺も令和の頃はもっと大人しいというか、少なくとも過激では無かったが、この世界で生きていくためにかなり過激な性格になっているので、表現がキツくなっているとしたら勘弁してほしい。
何度も触れている通り、世界規模の戦国時代なのだから仕方ないのだ。
元老は「明治の元勲」とも混同されやすいが少し違う。
以前も触れたが、元老は公職ではなく、憲法にも明文化したものは存在しない。一般には陛下から勅命または勅語を受けて周囲が認識する称号だと思って間違いない。
また明治初期の元老院とも直接の関係はない。
簡単に言えば日本を操るフィクサーのようなものか。
この中で最も若いのは父で、元老への任命は先帝陛下の専権事項といった趣きがあるから、今後新たな元老は選ばれないだろう。西園寺公望を新たに元老に据える意味も無いし。
史実では実際に元老による首相の推薦も頻繁に行われていた。
現在の首相である桂太郎は、同じ長州閥の山縣有朋に頭が上がらなかったと言われており、実際に陸軍の代弁者と化している側面もある。
桂太郎は今年病没するだろうし、今後数年で井上馨、大山巌が亡くなり、残った4名、伊藤博文、山縣有朋、松方正義、近衛篤麿がこの国のリーダーとしてけん引していくのだろう。
伊藤は既に70歳を超えているし、他の2名も高齢だ。あと10年ほどで元老は父だけとなるだろうが、健全な政党政治を完成させ、国政を安定させたあとは自ら元老の幕引きをしてもらおう。
その父だが現在、自然と海軍関係の代弁をすることが多くなっている。
薩摩閥が少ないから仕方がない部分もあるが、山縣有朋から見ると日本が大陸から手を引いたという事実は、陸軍が活躍する場を奪われたということを意味し、父を恨んでいるだろう。
また、父は最初のころに触れたが、藩閥政治から政党政治への移行を模索しており、これまた山縣有朋から見たら自分の権益を奪う敵として映っているだろう。
結局のところ政治というものは、社会から集めた富をどういった形で再配分するかという点に尽きるわけで、そこに利権が生まれることになる。
そして変な表現になるが、父の背後に俺がいることは先刻承知らしく、何度か山縣と話す機会があったが、最初の頃は「近衛閣下の麒麟児」などと俺を持ち上げていたが、最近は敵意丸出しとまでは行かないものの、不満はありそうな口ぶりが目立ってきた。
先帝陛下が健在な頃は遠慮もあったかもしれないが、ちょっと本気で対策を講じないと山縣本人はともかくとして、その周辺にいる人物たちは父や俺に刺客を差し向けかねないな。
嫌な言い方になるが、ネタはあるので餌というか利権を与えて黙らせるか。
6月29日 には第二次バルカン戦争が勃発する。
この戦争は簡単に述べるとセルビア・ギリシャ・ルーマニア・トルコ・モンテネグロ各国によるブルガリアに対する「集団暴行事件」だ。
第二次バルカン戦争は、ブルガリア王国が第一次バルカン戦争での取り分に不満を感じて、1913年6月に同盟国のセルビア王国とギリシャ王国を攻撃したことで勃発した戦争だが、セルビア軍とギリシャ軍はブルガリア軍の攻勢を撃退して反撃に転じ、ブルガリア領に進軍した。
ブルガリアがルーマニア王国との国境紛争も抱えていたため、ここにルーマニアが介入を決定、さらにオスマン帝国も機に乗じて第一次戦争で失った領土を一部取り戻そうとした。
結局ブルガリアは敗戦を受け入れるしかなかった。
21世紀においてもマケドニアは第二次バルカン戦争でギリシア領・ブルガリア領となった地域も併合したいと意欲を持っており、紛争の火種はなお残ったままだ。
またルーマニアはブルガリアと険悪となっているから、ブルガリアがドイツ側に付いたら確実に我々連合国側に味方するだろうし、これはギリシャも同様の環境だろう。
最終的に第一次バルカン戦争の敗者トルコと、第二次バルカン戦争の敗者ブルガリアが独墺に接近を図る。
そしてセルビアはオーストリアを恨んだことでロシアを頼る。
ブルガリアは前回述べたように、ロシアのおかげで独立出来たのに、気が付けばオーストリアに近付いているし、セルビアはロシアにすがろうとしているという、一瞬でも目を離すと神様でも驚く状況になっている。
そしてセルビア国民のオーストリアへの見方は大変厳しいものがあり、最終的にはあのサラエボ事件が起こる。
こうして役者は出そろい、舞台は整えられてしまった。
次は暗黒の第一次世界大戦へ突入していく。
が、その前に日本であの事件が起こる。