【外伝】近衛篤麿 ⑪愛別離苦(あいべつりく)
1911年(明治44年)
高麿は既に25歳を迎え海軍に奉職中で、文麿は二十歳となり陸軍士官学校で勉強中だ。
更に文麿は陸軍大学へ進み参謀を目指すらしい。
二人とも優秀だからな。
好きな道に進めばよいとは思うが、高麿が未だに独身なのは大問題となりつつある。
家庭を持ち、後継者となる男児を得てもらわねば困る人間が家人を含めて多数出るのだが、奴は分かっておらぬのか、この件にだけは頑として首を縦に振らぬ。
仕方が無い故に文麿の縁談を先に進めているところだが、いったい高麿は何を考えているのかよくわからん。
このままだと家督を文麿に渡さねばならぬやも知れぬではないか。
幸いに私はまだまだ元気だから今のところは良いのだが・・・
それはともかく、昨年には不平等条約の改正が完了し、日本は名実ともに一等国となったと言えよう。
既に日清戦争開戦直前の1894年(明治27年)には領事裁判権(治外法権)の廃止は、イギリスを脅したことをきっかけとして各国に認めさせて達成出来ていたのだが、関税自主権の回復が未だに出来ていなかったのだ。
それが今回小村外務大臣の尽力によってアメリカとの間に達成できた。
治外法権を撤回させた陸奥宗光も立派であったが、今回の小村寿太郎の働きも見事であったと言えるし、先のポーツマス講和条約と、続くイギリスとの朝鮮半島譲渡条約の締結の功績も含めて、その貢献度は極めて多いと言えよう。
その講和条約の功績のお陰かどうかは知らぬが、このたび私が陛下より元老の詔勅を賜り、元老に列されることとなった。
本当なら私より15歳ほど年長の西園寺さんに行く話かと思っていたのだが、陛下の強い意向で私に話が降りてきた。
これで元老で現在生きている者は次の通りだ。
・松方正義 1835年(天保6年)生まれ 76歳 薩摩閥
・井上馨 1836年(天保6年)生まれ 75歳 長州閥
・山県有朋 1838年(天保9年)生まれ 73歳 長州閥 陸軍
・伊藤博文 1841年(天保12年)生まれ 70歳 長州閥
・大山巌 1842年(天保13年)生まれ 69歳 薩摩閥 陸軍
・桂太郎 1848年(弘化4年)生まれ 63歳 長州閥 陸軍
・近衛篤麿 1863年(文久3年)生まれ 48歳 摂家出身
※筆者注:天保・弘化・文久は太陰暦の為、西暦と合致せず※
現時点で存命の元老は私を含めて7名だが、4名が既に齢70を過ぎ、私の次に若い桂さんも既に63歳と老境に達しようとしている。
その内で過半数に当たる4名が陸軍に利権を持つ長州閥であり、薩摩閥は2名しかおらぬが、大山さんは陸軍だし、松方さんは大蔵畑だから純粋な海軍関係者がいないために海軍の代弁者がおらず、押され気味となっている。
そこで薩摩との縁がある私が、どうやら海軍の意向を代弁せねばならないような立場になりそうで少々厄介に感じている。
最近では新型の巡洋戦艦を入手すべく動いており、当初の計画では1番艦をイギリスに製造してもらい、2番艦から4番艦を同一設計図を用いて国内で建造する話であったが、思い切って更に4隻を建造するように私が進言して実現させた。
これは現時点で列強に対抗できる性能の戦艦を保有していないから大問題となっていたためだ。
ここ最近における戦艦の性能向上ぶりには目を見張るものがある。
高麿はこれを”技術の革新”などと呼んでいたが、10年ほど前に完成した戦艦「三笠」と、今回計画している巡洋戦艦が仮に戦ったとしても「三笠」に勝ち目はまず無いという。
速度も大砲の大きさも門数も、船体の大きさまでまるで違うからな。
さもありなんと思う。
つまりこの10年の技術の進歩によってそれ程の差が出たというわけで、現時点で日本が保有している戦艦は最新鋭の英独艦と比して、どれも有力な戦力とはならないだろう。
しかし、フネの大きさは無限に大きくなるわけでもなく、大砲の大きさも同様で60センチ砲を搭載した戦艦などは登場しないだろうし、速度にも自ずと出せる限界はあるので、ここから先は発達の歩みは遅くなり、現在計画中の巡洋戦艦は今後30年は最前線で戦い続ける事は可能だと断言していた。
何故そんな未来のことが予想できるのか謎だが、妙に説得力があるのは毎度の事か。
そしてイギリスが「ドレッドノート」を建造して以来、留まることを知らぬような建艦競争が繰り広げられつつある。
だから日本も負けるわけにはいかないし、ここから先は今までほどの性能向上が果たされないのであれば、大量建造によって一気に差を詰めるのは正しいやり方であろう。
予算にも余裕が出たし、それは賠償金交渉をした私の功績なのだ。
よって前代未聞と言える同型艦8隻建造と相成ったわけだ。
それはそれとして高麿は私が元老になることによって「政党政治を完成させる良い機会ですね」と言っているが、先はまだ長いだろう。
山縣さんなどは藩閥政治の権化ともいえる人物だしな。
それに山縣さんたちは私の存在を疎ましく感じていることは間違いない。
山縣さんと比べると、年齢では私が25歳も若いが、実績と家柄、そして位階では私の方が山縣さんを上回ってしまっているし、他の元老の方々の追随を許さないのも事実だろう。
そんな私が藩閥政治に取り込まれるどころか、反駁して政党政治を志向している。
しかもだ。
海洋国家を目指そうとしているというのは、陛下もお認めになった国家としての針路だ。
その方針によってもたらされる世界においては海軍が主体であり、陸軍は脇役に追いやられようとしているわけだ。
故にこそ絶対に私は許せない存在だろう。
そもそも藩閥は私が志向する議会政治に対する抵抗勢力であり、民本主義もしくは一君万民論的な理想論とは相容れない情実的な仕組みであるため、昔から批判している人間は多いのだ。
内閣総理大臣に至っては伊藤さんが就任して以来、清華家出身の西園寺さんが就任するまで、全て藩閥政治家が就任しており、元老と同一の場合も多いのだ。
・伊藤博文(長州閥)
・黒田清隆(薩摩閥)
・山縣有朋(長州閥)
・松方正義(薩摩閥)
・大隈重信(肥前藩)
・桂太郎(長州閥)
閣僚経験者も殆どが薩長で占められているし、警察における藩閥でいえば薩摩がほぼ独占しているといえよう。
司法においてもそうだ。
大審院、東京控訴裁判所・大阪控訴裁判所を構成する者は藩閥出身者だけで固められていると言ってもよい。
これらが既得権益層として固定化すれば、後代への悪影響が心配される事態となるだろう。
とはいっても明治より前の関白や太政大臣の制度に戻すわけにもいかないし、議員と政党を中心とした政治体制とするのが正しいだろう。
故に陛下におかれては私に対する期待が大きいと推察する。
気を引き締めて勤めねばならんな。
1912年(明治45年)7月11日
陛下は東京帝国大学の卒業証書授与式に臨んだのち、持病となっていた糖尿病が悪化し病臥されてしまった。
医師によれば高熱が続いておられるとのことで、慢性腎不全をはじめとする様々な疾患を併発されておられるのではないかとの見立てであった。
病状は一向に平癒せず、7月20日には尿毒症で重体であることが発表されると、翌日以降は多くの市民が皇居周辺に集まり、平癒の祈りを捧げるようになってきた。
後から聞いた話だと、陛下の御不例と尿毒症で重態である旨が国民に向けて発表された際の、国民の受けた衝撃は極めて大きなものであったらしい。
陛下御重患の報が発せらるや、全国民は非常な衝撃を受け、東京府下の各小学校では毎朝全生徒に御容態を知らせ、当局から別段の通達もなかったはずだが小学生までが御平癒を心から祈念し、謹慎祈願する有様であったと聞いた。
無論、その他の国民一般の憂慮心痛は当時新聞にも伝えられた通り、国を挙げての憂いであり、日が経つにつれて人々の面上に覆い難き憂色を見るようになった。
今日における日本の繫栄と安寧は、陛下のご指導のたまものなのだから人々の憂いは当然であろう。
7月29日
そんな中で私は陛下に呼ばれ参上したのだが、室内には臥せておられる陛下と、ずっと看病されておられる皇后陛下のお二人のみで医師もおらぬ。
…これは……それほど病状が重いのか?私は覚悟を決めるしか無かった。
「…近衛よ。よく…聞いてほしい…」
皇后陛下も私に縋るような視線を向けておられる
「…何なりとも」
「この国を頼む…明宮は病弱であるし、元老もその多くは老境にあり、先は長くない……まだ若いお前をおいて後事を託す者はおらぬ」
「……陛下」
「良いか…小関白は只者ではない。あの者ほど先が見えている人物もおらぬであろう…お前と…小関白で…この国を導くのだ」
「…この身にかえましても…お約束します」
「頼んだぞ…」
ああ…何という事だ。もしかすれば本当にこのまま?
そして7月30日深夜、59歳というお若さで崩御あそばされてしまった!
陛下がおわしたからこそ国民が一つにまとまり、日清と日露の戦争を遂行できたのだ。
皇居の二重橋前は悲嘆にくれた数多の国民の土下座姿で埋まっていた。
陛下を追慕してやまざる国民の悲しみは、種々の形となって現れたが、二重橋前が「国民の土下座姿で埋まる」という光景は、陛下がどのような存在として国民から受け止められていたかを端的に表すものであったであろう。
私は茫然自失の様となり、数日間の記憶が無い。
高麿はじめ、誰しもが私に言葉を掛けられぬ有様ではあったらしいが………
そして、時代は明治から大正へと移った。
この新しい大正という元号だが、以前どこかで聞いた気がする。
いつ誰が言っていたのか全く覚えていないが、確かに一度聞いたのだ。
「大正」という言葉を。
学者の誰かであったとは思うのだが。
何故かというと、今回の元号は漢籍のひとつ『易経』の一節「"大”いに亨りて以て"正”しきは、天の道なり」という言葉が由来で、「人を主導する立場の者は、多くの意見をよく聞いて行動するのが正しい」というような意味を持っており、そういう時代になってもらいたいという思いを込めて付けられたのだそうだ。
だから漢籍に詳しい学者の誰かと話をした際に聞いたのであろう。
それにしては随分昔に聞いた気がするというのが引っ掛かるが…
そんな事より食事も喉を通らぬし誰とも会いたくない。
この世が真っ暗になってしまった。