第四十四話 不平等条約解消
Side:近衛高麿
1911年(明治44年)となった。
俺は25歳となった。
もうこの世界に来て20年近く経ったことになるが、国内はすでに俺の知識が通用しないと言ってもいいだろう。
バタフライ効果というのは、本当にあるのだなと実感する日々だ。
そしてたまに驚くような組み合わせがあったりする。
ちょっとしたボタンの掛け違いで、全く違う結果になるのだ。
その典型が縁談だ。
えっ?俺に、この人との縁談が来るの??と思うようなことが、最近連続して発生して困惑している。
平成でも令和でもないのだから、早く結婚しろとうるさいのは分かるのだが、俺はまだ結婚するつもりがない。
それよりも我が家で起きた大きな話題は、父が正式に陛下より元老の詔勅を賜り、元老に列されることとなったことだ。
史実では西園寺公望に行った話が父に来た。
これは想像だが、以前も触れたように、元老は薩長のどちらかに属しているから、バランスを取りたかったという思惑もあるのかもしれない。
史実なら数年後に西園寺公望に来る話だろうが、西園寺より身分が上位の父が存命なので、話が廻って来たとみていいだろう。
しかし、まだ50歳にも達していない父に、この称号が与えられるとは思わなかった。
後世「最後の元老」とでも呼ばれるようになるのだろう。
いや、年齢的に最後まで生き残りそうだから、政党政治を完成してもらったうえで、元老自体を廃止してもらおう。
そして大戦に突入したら、女性も工場などで生産を支えてもらわねばならなくなるだろうから、見返りに参政権も必要だ。
それらをトータルすることによって、近代国家日本が本当の意味で完成するだろう。
文麿は二十歳となって、陸軍士官学校で勉強中だ。
先日久しぶりに顔を合わせた際に、陸軍に入った後の身の振り方を相談されたので、陸軍大学へ進み、参謀を目指すようにアドバイスしておいた。
俺の前世の経験では、軍隊に限らず、組織における管理職にも大きく2つのタイプがあって、それは司令官タイプと参謀タイプだ。
司令官は判断し、決断することが最大の仕事だ。適切な情報のもとに進路を決定し、適切な人員配置と組織編成を行い、結果に対して責任を取ることだ。
一方の参謀は、司令官の判断材料となるデータを集めたり、企画立案や組織の根回しをするのが仕事だ。
この両者の能力を併せ持つ人間も、少数だがいるだろう。
しかし多くはそのどちらかに偏る。
よって参謀役として優秀で実績もあり、周囲から期待された人間、例えば企画部門で実績を上げた人間が、司令官の役職、例えば営業本部長などになって失敗するケースを多く見てきた。
逆に司令官タイプの人間が、参謀役の仕事をしても細かい部分に目がいかず、上手くいかないことが多い。
適材適所という言葉があるが、これを間違うと、全ての人間が不幸になるのだ。
そして文麿は明らかに参謀タイプだ。
文麿も納得できたみたいで感謝された。
もっとも、誰でも他人のことはよく見えても、自分自身のことは分からないものだから、感謝には及ばないのだが。
俺自身にしても85年も生きてきたのに、未だ自分の事があまり見えていない。
嬉しい話としては、以前に触れた鈴木梅太郎がビタミンB1 を発見した件だが、俺は鈴木博士に接触して英語による論文発表を行ってもらい、名前もオリザニンではなく、ビタミンにするよう強くお願いして発表し、世界から大きな反響を得ることに成功した。
もう猿真似だなどと言わせないし、こちらもノーベル賞の有力候補になった。
まあ今すぐの受賞とはならないだろうが、期待できそうだ。
そして脚気の原因が細菌であるとの説は、それを口にするだけで笑われるようになった。
あの人達の面目が丸つぶれで、間接的に俺も恨まれるかな…
ただし俺が伝え忘れて失敗した出来事もあった。
学会で、「ビタミン」という言葉の語源は何かと聞かれて、博士は固まってしまったのだ。
名付け親であるフンクは、Vaital + Aminという意味の造語としたハズだが、鈴木博士はしどろもどろになりながら、「脚気の痛みが無くなるので“痛みん”としたかったが、語呂が悪いので、見た目が美しくなる”美“を使った」などと汗をかきながら説明したらしい。
申し訳なかった。
そして今回の本題だが、ここまで数回触れてきた不平等条約改正がようやく達成できた。
1911年(明治44年)2月だった
えっ!?まだ出来ていなかったのか?という感想を持つ人もいるだろうか。
不平等条約といっても、中身は大きく二通りある。
・一つは治外法権を認めさせること
・もう一つが、関税自主権を行使させないこと。だ。
治外法権とは「領事裁判権」ともいう。
日米関係で例を示すと、日本国内で犯罪を犯したアメリカ国民は、通常であれば日本国内で裁かれるが、これを認めずにアメリカにて裁くような内容を指す。
条約上有利な国の国民が、不利な側にある国の居留民として犯罪を犯した際、その国の裁判を免れることから、重大な犯罪が軽微な処罰ですんだり、見過ごされたりする場合もあったわけだ。
関税自主権とは読んで字のごとくだが、関税率を、輸入する国が自由に決める権利のこと。
例えば、日本とアメリカの不平等条約の場合は、アメリカからの関税を日本は自由に設定できず、著しい不利益につながる。
逆に日本からアメリカへの輸出に際しても、日本側が不利になる場合が多かった。
これが今回、日米通商航海条約が調印されて、日本の関税自主権が小村外相によって回復された。
これの発端は、幕末の大老井伊直弼が、米、英、仏、露、蘭の5ヶ国と「修好通商条約」という名の不平等条約を結ぶ。
その後、明治にかけて、合計15ヶ国と同様の条約を結ぶことになったのが経緯だ。
実際にこの不平等が問題になったのは明治以降で、幕末には問題視されていなかった。
当時の幕府は外国人を裁いたりするような面倒事をしたくなかったために、むしろ有難いと感じる向きがあったらしい。
また外交官以外の外国人は、居留地以外みだりに外出できなかったので、領事裁判権の影響は限定的だったということもある。
関税自主権にしても、当時日本は輸出超過であって、当初設定された税率は妥当なものであり、実質的な問題は無かったのだが、1866年(慶応2年)の改定の際に関税が引き下げられ、安いインド綿が大量に流通して国内の木綿生産は大打撃を被ることになって、初めて慌てはじめた。
もう一方の領事裁判権問題が一気に表面化したのは、1886年(明治19年)10月24日にイギリス船籍の貨物船ノルマントン号が、紀州沖で座礁沈没した紛争事件からだろう。
日本人乗客を見殺しにした疑いで、船長の責任が問われたものの無罪となり、船長らによる人種差別的行為と、不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。
この不平等条約解消のため、明治政府は日本が欧米諸国と遜色のない近代国家であることを示す必要があり、それが鹿鳴館…ではなくて、憲法制定や議会開催の後押しをした面もあった。
良しにつけ悪しきにつけ、この不平等条約は、日本の近代化に大きく影響を与えたと言える。
憲法については条約改正の条件として、列強から求められてきた法典の整備が進められ、憲法発布により立憲制が確立した。
それから、日本の法体系の整備と運用を語るときに、「大津事件」について触れなくてはならないだろう。
大津事件は、俺がこの世界に来る直前の1891年(明治24年)5月11日に、日本を訪問中であった現ロシア皇帝ニコライ2世(当時は皇太子)が、令和でいう滋賀県大津市において、皇太子の警備任務に就いていた警察官の津田三蔵に突然斬りつけられて負傷した暗殺未遂事件だ。
当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が、神戸港に停泊している中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上、極めて重要な事件とされる。
裁判で津田は死刑を免れ、無期徒刑となったが、収監の翌々月に死亡した。
政府は、超大国ロシアに日本侵略の口実を与えてはならないとして、速やかに津田を死刑とするよう求めたが、時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は、「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として、政府の圧力に反発した。
要するに「国家か法か」という、回答困難な問題が発生したのだ。
しかし、例え相手がロシアの皇太子であっても、日本国内の法を曲げて解釈し運用したのでは、却って先進国からの侮蔑を招き、大日本帝国憲法も単なる飾りと断じられて、文明国と認められることが遅くなっただろうから、この判断は適切であったと言えるだろう。
日本は文明国であることを証明してみせたわけだ。
このような状況のもと、明治25年に外相に就任した陸奥宗光は、大津事件の当事者だった青木周蔵元外相を在英国公使に任命し、条約改正交渉に当たらせた。
そして、明治27年7月16日、青木公使とキンバレー英国外相は、「日英通商航海条約」に調印するに至った。
この背景としては、陸奥宗光がイギリスに対して行った恫喝が有名だろう。
時代は日清戦争直前であり、清との戦争を控えた日本は、清国内に居留民が多数いたイギリスに対して「日本は文明国だから戦時国際法を遵守して、清国内のイギリス居留民に配慮する用意がある。しかしイギリスが日本を文明国と認めないのであれば、日本は戦時国際法を守る必要も無くなるから、居留民の安全は保障しかねるがどうする?」とイギリスを脅すことによって、条約改正につなげたわけだ。
その結果、他の列国とも改正条約が締結され、それらは明治32年に施行され、これによって日本は領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部回復を達成し、条約改正は大きく前進した。
その後、小村寿太郎外相のもとで更に改正交渉が行われ、この度の日米通商航海条約等の締結により、関税自主権の完全な回復に成功したというわけだ。
ここに至り、幕末以来の重要外交課題であった条約改正が達成され、国際社会の中で日本は列国と対等な地位を得ることが出来た。
ようやくスタートラインに立った気分だ。