第三十六話 GHQの農地改革
Side:近衛高麿
史実におけるGHQによる日本の占領政策は、そのほとんどが成功しなかったが、唯一成功したと評価されることが多いのが農地改革だ。
これをもって「日本はアメリカに占領されて良かった」とか、果ては「戦争に負けて良かった」などという意見が出てくるから頭が痛い。
もちろん、女性の権利保障や、参政権は早期に解決しなくてはいけない問題だから、この時代でも手を付けていきたい。
しかし、農地改革に対しては前世の俺は懐疑的だった。
確かに「外圧」という強権を使ったが、民主的に農地を解放したのは、一見すると素晴らしい出来事のように思える。
しかし、日本の歴史を最初から見てみれば、違う景色が見えてくるだろう。
日本の歴史を一言で表せば、「土地は誰のもの?」という点に行きつく。
例えば今、あなたの住んでいる土地は10年前は誰のものだっただろうか?
100年前は?500年前は?何年前まで遡って把握できるだろうか?
よほど歴史のある神社仏閣に住んでいない限り、すべてを語れる人は稀だろう。
土地の所有者は常に変動しているのだ。
難しい表現や、歴史用語は敢えて省略して簡単に言えば、大化の改新以前は天皇や豪族らは各自で私的に土地・人民を所有・支配していた。
ところが、大化の改新の詔第1条は、こうした私的所有・支配を禁止し、全ての土地・人民は天皇(公)が所有・支配する体制の確立、すなわち私地私民制から公地公民制への転換を宣言するものであった。
公地公民の原則に従って、朝廷は班田収授法に基づき、人民へ口分田を与え、租税を納める義務を課した。
この原則は、701年に制定された大宝律令にも継承され、律令制の原則となった。
しかし、人口は増加するにもかかわらず、新規の開墾地が減って税収が減った。
民衆からすれば、自分のものにならないのならば、なぜ頑張って開墾する必要があるのか?という話になる。
そこで、労働意欲を刺激する目的で、奈良時代に入ると三世一身法によってこの原則に風穴が開けられた。
こうなってはもう止まらない。三世とは自身と子と孫、あるいは子と孫と曾孫の事で、三世代を経るまでには普通50年以上の時間があるように見えたが、早くも20年後には墾田永年私財法により、人民による新規開拓地の私有が認められるにいたる。
土地の公有という、公地公民の原則が次第に形骸化していく事態へと至るのだ。
平安時代には土地私有によって「荘園」が発生すると、公地公民制は崩壊し、これを原則とする律令制も瓦解への道をたどった。
荘園とは「庭」とか「庭園」という意味で「これは田畑に見えるかもしれないが庭なんだ」と、所有者である寺社や貴族たちは屁理屈を主張して徴税義務から逃れた。
つまり早い話が脱税をしたのだ。
俺の先祖の悪行を告発するみたいで気が引けるが、事実は事実として認めなければならない。
このおかげで国家の財政は急激に悪化し、財政出動も国家予算も無いも同然になってしまった。
突然だが黒沢映画の「羅生門」を見たことがおありだろうか?
あの映画の舞台である羅生門は、正式には羅城門といい、平城京・平安京の京域南端中央に正門として設けられた門のことだ。
あの映画の時代設定は平安時代だから、平安京の南側の中央門というわけだ。
パリで言えば凱旋門に該当するかな?
現在の東京だと何処に該当するだろう?
南側にある象徴的な建造物というならレインボーブリッジか?東京タワーか?
どちらでもいいが、それらが予算不足で修繕できず、荒れ放題で崩れかかっているとしたら、東京のイメージはどうなるだろう?
黒沢映画に出てくる羅生門はまさに崩れかかっており、理由はこの予算不足だった。
修繕しようにもカネが無かったのだ。
要するに、寺社・貴族が荘園を拡大させて脱税することにより、国家予算が執行できなくなったのだ。
そのうちに天皇家までが荘園を持つようになってしまった。
当然のことながら治安は悪化するし、人心もすさんでくる。
時代が進むと、広大な荘園を盗賊などから守るために武士が生まれた。
武士はガードマンとしての必要性から生まれたのだが、やがてその武力によって貴族から土地を奪って力をつけ、自分たちで政治や土地の差配をする目的で武士政権を作る時代を迎える。
彼らは自分の所有する土地を命を懸けて守る。
「一所懸命」の語源であり、土地は何よりも大切なものとして認識していたのだ。
人間は当然世代交代するから、相続が発生する。
最初の鎌倉時代の相続は「人間に優しい」といえる。
諸子分割相続の原則の上に立てられていたからだ。
これは長男だけでなく、次男以下や女子に対する相続が行われたという事だ。
譲渡配分は譲渡人の自由とされたが、一般には惣領が所領の大部分、殊に先祖伝来の家領を相続し、残りを庶子たちが分割相続するという形を採用していたとある。
一見結構なことに見えるだろうが、この方式で時代が進めばどうなるか?子供が多ければ、先祖伝来の土地にも手を付けて譲渡せざるを得なくなるだろう。
仮に1000という広さの土地があったとして、世代交代が進行していけばどうなるか?
幕府を支える御家人の人数が増えると同時に、一人当たりの土地がどんどん減っていくことになる。
鎌倉幕府が滅びたのはこれが原因だ。御家人たちは皆貧しくなってしまい、幕府を支持しなくなったのだ。
この反省に立ったのが室町幕府で、相続は「惣領」が全てを相続する体制とした。
しかし惣領を決めるのは難しい。一般的には長男かもしれないが、決まりが無ければ、誰を惣領にするかよほど気を付けなければすぐに争いになる。
しかも時代は南北朝時代だ。
兄貴が北朝に味方するなら、俺は南朝だとばかりに骨肉の争いが絶えなかった。
更に室町幕府はその成立過程で守護大名を優遇せざるを得ず、大名統制に苦しんだ挙句、どうにも制御できなくなった結果が戦国時代の到来だ。
この反省に基づき、江戸幕府は長子相続を原則とした。長男が全てを相続するのだ。
実例として徳川吉宗は優秀と評判の次男ではなく、少し問題のある長男にあえて跡を継がせた。
世の乱れを恐れたのだが、為政者としては立派な態度と言える。
このように人間は試行錯誤して、より良い方法を探ってきたのだ。
だから長男優先を「封建的で遅れている」と早合点してはいけない。
そして明治を迎える。
地主は自身の所有地を小作農に貸し付け、小作料を得ることで議会の選挙権などの社会的地位を持っていた。
その中には地主自らが農業に従事せず、小作人からの小作料に依存する寄生地主も存在した。地主と小作人の関係は、規模や地域によって特徴があった。
大地主は東北と近畿で、少々様相が違ったとされる。
「東北型」の地主は、農民や没落地主に対する貸し付けで土地を抵当にとり、広い所有地を有していた。小作料が完納できなければ「貸し付け」として処理し、地主は小作人を直接的かつ、強力に支配していた。それに対して「近畿型」の地主は、比較的所有地が少なく、小作料が高いのが特徴。地主に雇われた「世話人」が小作料の取り立てや、土地の管理を担っていたほか、小作人への世話もしていたようだが、地主が小作人を支配していたのは同じだ。
一方、小作料だけでは生活が成り立たない「零細地主」は自らも農作を行っており、農村におけるリーダー的役割を果たしていた事例も多い。
こういった過程を経て、敗戦後の農地改革が始まる。
1945年12月に第一次農地改革が幣原喜重郎内閣によって提案されたが、地主制度を解体しようとする動きは当然地主によって反対された。
しかしGHQの圧力を受けた中で、1946年に始まった第二次農地改革では政府が農地を買い上げ、実際に農業にあたる小作人に安く売り渡され、結果として小作地は当初の1割程度まで減少した。
恩恵としては、農民の生活基準が上がったことで、国内消費が拡大したことがあげられよう。
しかし、零細経営を中心とした農業構造が改善されることはなく、高度経済成長を迎えると第2次・第3次産業との格差が拡大することになった。
また、相続はご存じのように、均等に分ける時代に逆戻りした。
ほぼ鎌倉時代に戻ったともいえる。
確かに民主的ではあるし、江戸時代のような相続方式に戻すべきとは思わないが、時代が進めば土地は細かく分割されて、ただでさえ芳しくない生産性が、さらに悪化の一途をたどることは間違いないだろう。
出来るだけ広い土地を、一括で管理して生産したほうが効率が良いのは間違い無いのだから。
以上の事を考慮してGHQの政策を見ると、果たして令和以降はどういう判定となるだろうか。
俺自身としては現在の地主制をいじるよう父に進言する予定はない。
理由としては以前も触れたが、何もしなくても自発的な形で都市部への人口流入は急速に進むだろうから、地主が大きな顔をしていられる時間はそれほど長くないというのが一点。
そして、だからこそ機械化を導入するなりして、効率的な農業への転換を図る下地ができると考えるのがもう一点だ。
細切れで非効率的な農業より、よほど生産的な未来が待っていると思うのだが如何だろう?
令和の農業も所有者の名義は変更しないとしても、実際の土地は広域で株式会社化するなりして土地をそこへ預けて大規模化し、効率化を図らなければもはや待ったなしの状況だと思う。
いわば農業版上下分離方式だ。
しかもTPP加盟国なのだから、よほどの付加価値があるかコスト的に優位に立つかしないと日本の農業に明日は無い。
ましてや高齢化に伴い、就労人数は減少の一途をたどるだろう。
もう残された時間は少ない。