【外伝】近衛篤麿 ⑦講和会議
1904年(明治37年)7月
世界各国の予想に反して、ロシアとの戦争は日本の圧倒的な優勢で進んでいる。
これには私も本当に予想外で、こんな状態になるとは軍部も含めて日本人の誰も予想しなかったのではないかな?
高麿を除いては。
高麿は当然だとでも言いたげな表情だが、最近になって意外な事に海軍軍人になると言い出した。
皇族の皆様は陸海軍軍人だから近衛家もそれに倣おうという事らしいが、国民から歓迎されることは間違い無いだろうし、私と近衛家の人気は更に高まるだろう。
近衛家は単なる華族筆頭ではなく、国民の先頭に立って戦う存在なのだと評価してくれる事になるだろうからだ。
8月12日
我が家にまた息子が生まれ、彦麿と命名した。
名前を聞いた高麿は一瞬笑っていたように見えたが何故なのか?
更には「彦麿はあの御方と同い年となるな。もしかしたら同じ誕生日だったりして?」
などと言っていたが、これも意味不明だ。
それはどなたの事なのだ?皇族では無いはずなのに表現が丁寧すぎるのだが…
そんな家庭の出来事もあったが戦況はずっと日本側の圧倒的優位のままだ。
旅順を落とした後も極めて順調であり、補給も滞りなく行えているとのことだ。
10月15日には得利寺の戦い
11月3日には遼陽の戦い
双方の戦いに勝利し、占領地を拡げつつ、どんどん北上していった。
そして12月8日から11日にかけて日露双方の陸上兵力の大部分を投入した激闘が行われた。
この沙河における会戦では決定的な勝利を手に入れた。
敵将を捕虜とし、ロシア側の司令部を壊滅に追い込んだ上に大量の捕虜を得たのだ。
そして奉天の手前で進軍を停止し、態勢を固めている。
明けて1905年(明治38年)1月
日本政府は陸軍の圧倒的な勝利を受け、バルチック艦隊との決戦を控えていた段階で、仲介国をアメリカとするロシアとの講和条約締結に向けて動き出した。
そして3月に行われた対馬沖での決戦において、バルチック艦隊を撃滅して戦争の帰趨が決した事により、政府は講和会議における全権大使の人選を始め、なんと私に白羽の矢が立った。
そして5月18日にはアメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊にある、ポーツマス海軍造船所においてセオドア・ルーズベルト大統領を仲介者とした講和会議が始まる。
アメリカにもポーツマスという名の街があるとは知らなかったが。
出発に際して高麿から要望されたことは二つだった。
一つは徹頭徹尾、強気の交渉をするべきだという点だ。
戦局は圧倒的にわが軍が優勢であり、ロシアとしては本国からの増援を待たねば日本軍からの攻勢を防ぎようがない状態だ。
にも拘らず、ロシア国内では明石大佐という優秀な軍人の活躍によって民衆による暴動が発生している有様で、戦争の継続が困難な状態にあるだろう。
これに比して我が軍の士気は極めて高く、補給も万全であり、大量に捕虜を得たことから後送に手間取っているものの、基本的にはいつでも戦闘を再開できるから、ロシアから大幅な譲歩を引き出すことは難しくないと断言していた。
二つ目はアメリカ国内での報道関係者に対して日本の立場を声高に、大袈裟に発信することだった。
日本人が持つ美徳の一つは「至誠通天」つまり、「誠の心を尽くして行動すれば、いつ かは必ず天に通じ認められる」と信じている事であり、余計なことは言わずに黙っておれば周囲は必ず理解してくれるし、あからさまに自身の立場を主張するのは下品であるとの意識がある。
しかし、この美意識は外国人には通じないばかりか、自身の立場を堂々と発信せずに、隠すような態度だと受け止められた場合は、相手から「何か後ろ暗い事があるから発言しないのだろう」と思われる傾向にあるとのことで、これは私もドイツをはじめ西欧諸国で経験しているから良く分かる。
気を付けて対応しよう。
そしてアメリカに到着した私と小村外相は、現地の報道関係者に対してにこやかに、丁寧に対応し、余裕の表情を見せつつも日本の置かれた立場を説明し、日本は平和を希求したがロシアの圧迫により開戦せざるを得なかったと、海外世論の同情を得るべく努力した。
小村外相はこれに対して「あまり余計なことを喋っては交渉に影響があります」と言っていたが、機密を守るのは当然としても少々堅苦しい考えではないかな?
せっかく仲介してくれた国に対しても礼を欠くであろう。
この男は極めて優秀な人物だが、融通は利かないかもしれないな。
それはともかく、いよいよ講和に向けた話し合いが始まった。
ロシア側全権はセルゲイ・ウィッテであり、皇帝ニコライ2世の信任篤い、手ごわい人物だ。
セオドア・ルーズベルト大統領は概ね日本側の主張を受け入れてロシアとの講和の折衝を行ってくれた。
これには大統領とハーバード大学以来の知人である金子堅太郎が働きかけたことが大きい。
しかしだからといって単純な好意だけで日本側の主張を受け入れたわけではないだろうし、アメリカとしての損得勘定が働いたのは間違いないだろう。
とにかく講和会議において私は冒頭からの強気の要求を故意に行った。
ロシアに対する要求内容は次の通りだ。
1、南北満州全域の日本への割譲
2、樺太全島の日本への割譲
3、ウラジオストクを含む沿海州一帯の日本への割譲
4、朝鮮半島へのロシアによる干渉の完全停止
5、賠償金50億円
以上5点で、ウィッテの目を真っ直ぐに見て要求した。
どうせ「値引き交渉」をして来るだろうから、ロシア側の譲歩を引き出すために最大限多めに吹っかけたのだ。
しかしウィッテはこれに対して怯むことなくロシア側の講和条件を日本側に伝えてきた。
1、一片の土地も割譲しない。
2、賠償金は1ルーブルたりとも支払わない。
3、交渉が決裂すれば直ちにロシア本国から大軍を送り込む。
これでは落としどころが見つからぬ。
この男も一筋縄ではいかない、ひとかどの人物だと評価したが、負けるわけにはいかない。
ふむ。ではこのまま我慢比べをしようではないか。
幸いにして日本には急いで講和条件をまとめねばならぬような弱みは無いのだ。
このまま日露は噛み合わない主張を繰り返し、協議が平行線をたどること2週間、少しずつウィッテの表情に変化が見られるようになってきた。
奉天周辺の日本軍は既に部隊配置を完了しており、いつでも奉天へ突入できる体制となっているし、連日にわたって大規模な実弾演習を行い、示威行動をしているとの事だからな。
そろそろ現地の実態はロシア側代表団にも伝わった頃合いだろう。
奉天さえ突破してしまえば、もうそこから北に現時点でロシア軍は存在していない。
更に日本軍の補給体制は万全だから、奉天から長春を目指して北上していけばロシアの威信は地に堕ちるだろう。
そこまで来たら、もうロシアの敗北は子供でも理解できるようになる。
そして交渉において最も有効なのはロシア軍捕虜の数だ。
日本各地に分散して収容されている捕虜の数は25万人に迫っている。
これは人質と同義であって、捕虜の家族から見たら一刻も早い講和の成立を望んでいるであろう。
私としては、これ以上相手を揺さぶる必要などないのだ。
相手が折れるのを、ただ座って小村外相と酒を飲みながら、ゆるりと待っておれば良いのだから、これほど楽な仕事もないと言える。
お陰で少し酒の量が増えてしまった。
我々の余裕の状況を見て焦り始めたのか、ウィッテは我々に譲歩を示しつつある。
まずは戦争中に帝国陸軍によって制圧済みとなっていた樺太全島の日本への割譲を真っ先に申し出てきた。
彼らにとっては厳寒に晒されるだけの未開拓の僻地であり、利用価値がない辺境の土地という認識だから惜しくないのであろうが、地政学的に見たら樺太を得ることでロシア封じ込めが完成するのだから、私としては笑いをこらえるのに必死だった。
次の段階でロシアが譲歩したのが、朝鮮半島へのロシアによる干渉の完全停止という条件だった。
この点について、私としてはどうでもいいのだが、イギリスへ上手く引き継ぐためには必要な事でもあった。
ここまでは比較的早くまとまったが、大陸の領土割譲と賠償金は難航した。
賠償金は20億円が限度だと渋っていたのだが、それでも最終的にロシア側が満州全域を日本へ譲ると言い出した時には少し焦った。
そんな土地は要らないのだ。
いや、むしろ困る。
せっかくここまで上手く行っていたのに、大陸を領有せねばならなくなれば力の分散を招き、海洋国家への道が閉ざされるやも知れぬではないか!
ただでさえ海洋国家と大陸国家を両立させることは困難であり、あのイギリスですら達成出来ているとは言い難いのだ。
それよりカネが欲しい!
ここはもう駆け引き無しで直截的に伝えたほうが良いだろう。
だから故意に大きな声で「土地は要らん!カネを寄越せ!!」と怒鳴ってやった。
これで賠償金は20億円から30億円に上昇した。
しかしあまりに土地に対する要求が低いのも、要らぬ疑念を生じさせるかも知れないと思い直し、ウラジオストクとナホトカに通商代表部を設置して貿易交渉の拠点とすることで妥協した。
さらに満州全域は日露双方にとって不干渉地域とすることに決し、両軍が撤兵することに合意した。
更に紆余曲折の交渉を経て最終的に講和内容として合意に至った事は次の通りだった。
1、樺太全島の日本への割譲
2、朝鮮半島へのロシアによる干渉の完全停止
3、ウラジオストクとナホトカに日本の通商代表部を設置する
4、ロシアは賠償金30億円を日本に対して支払う
以上を持って正式にポーツマス講和条約は発効した。
1905年(明治38年)6月15日だった。
こうして日露戦争は日本の完全勝利で終わった。
戦争期間は1年4か月で、日本側の戦死者1万2000人、傷病死者5000人、傷病者5万人の損害を受けたが、日本陸海軍の勇名は世界に轟くことになり、皇国の名声は一気に高まった。
日本国内ではこの報に接して大変な喜びに包まれているとのことだが、まだ油断は出来ぬ。
朝鮮半島の戦後処置を決めるためイギリスと交渉せねばならぬのだ。
私と小村外相は講和条約が締結されるとすぐさまイギリスへと向かった。
同盟関係の継続も話し合わねばならないしな。
当初イギリスはなぜ戦勝国である日本が朝鮮半島から手を引くのか怪しんだが、最終的に私と小村外相に騙される格好になった。
二人で揃って「実はもう陸軍に継戦能力がない」、「海軍の損害も大きく朝鮮半島を維持するだけの制海権を取れそうにない」などと嘘八百を並べたのだ。
意外に小村外相は芝居が上手いではないか。
認識を改めよう。
イギリス側は「全く知らなかったがそんなに損害が大きかったのか!」と日本の防諜体制が徹底していたのだと誤解してくれた。
そして驚きつつも我々の提案を受け入れた。
これも高麿が言っていたのだが、あまりに日本が勝ち過ぎるのは、イギリスとしては歓迎できないだろうと言っていたが、本当にそのような意志を感じた。
日本がロシアを叩き出してしまったら、今度は日本がアジアで大きな顔をする様になり、自身の権益を侵すのではないか?とイギリスが疑い始めたら、同盟関係にヒビが入ってしまうと高麿は言っていたが、どうやら事実みたいだな。
イギリスに対しては弱みを見せておいたほうが上策だというのが現状だ。
また、地政学的な意味においても大勝利と言えよう。
日清戦争において手に入れた台湾に加え、今回は樺太を手に入れる事によって大陸国家に対する「封印」が完成したことになるし、イギリスを朝鮮半島に導くことで日本にとっては安全な防波堤として利用出来るだろう。
イギリスから見れば香港を足掛かりとした大陸の領土と今回の朝鮮半島、そしてその延長にある満州は、どれほど頑張っても地続きとはならぬから、利益になるどころか余計な負担となるやも知れぬな。
結果として陛下がご指摘になられたように、イギリスをアジアの奥深くに誘引して利用できそうだ。
それはともかくとして、これからは国内の産業を育てて貿易で国を豊かにしていこう。