第二十八話 日本海海戦
Side:近衛高麿
明けて1905年(明治38年)1月
日本政府は陸軍の圧倒的な勝利と、日本近海における制海権の確保が確定した段階で、ロシアとの講和に向けて動き出す。
やはり仲介国はアメリカとなりそうで、日本政府は講和会議における全権大使の人選を始めた。
バルチック艦隊の動向については、イギリスが世界に張り巡らせた諜報網と植民地からの情報により逐一掴んでいたが、同艦隊は史実以上に不透明な動きをしていた。
マダガスカル近傍において、第三太平洋艦隊と合流する目的で長期間待機したり、動き出したと思ったら止まったりと司令官の心の揺れをそのまま表すような艦隊行動をとっていた。
俺からしたら特に驚きはないが。
そして遂に日本海海戦が行われた。
バルチック艦隊のロシア本国出港が早まったため、海戦の日付も早まったが戦闘海域は大体同じだった。
史実では1905年(明治38年)5月27日だったが、今回実際に戦闘が行われたのは3月17日だった。
そして結果は、バルチック艦隊のウラジオストク入港は阻止できたものの、連合艦隊も二割の艦艇を失う痛手を受けた。
史実のような一方的なパーフェクトゲームではなく、相応の損害が発生した。
詳細は軍事機密も含まれており、まだ明らかにされていないが「秘密兵器の運用に失敗した」という一報が入ってきたと父から聞いた。
それを聞いて俺には思い当たることがあった。
史実の日本海海戦にあたって、連合艦隊司令部から大本営に向けて発信された電文「天気晴朗ナレドモ波高シ」はあまりにも有名だろう。
しかし昔から漠然とした疑問を俺は持っていた。
この電文に対する解説に違和感を覚えたのだ。
司馬遼太郎は「坂の上の雲」にて、この電文を紹介するに当たり『天気晴朗とは遠くまでよく見渡せて敵を逃がす恐れは少ないという事。波高シというのは波で艦が動揺しても砲撃訓練が行き届いた日本側には影響は少ないが訓練不足のロシア側に不利に働く。極めて日本側に有利な状況であるという事実を簡潔に伝えた』と紹介していた。
本当にそうか?本当にそうなら、電文の内容は「天気晴朗ナレドモ波高シ」ではなく、「天気晴朗ニシテ波高シ」にならなければ日本語としておかしいじゃないかと感じていた。
このあたりのニュアンスを、電文を起草した名参謀として名高い秋山真之が間違うとは考えられない。
秋山真之は、これも有名な「連合艦隊解散之辞」を起草した人だ。
やはり電文通りに受け止めるべきではないのか?
つまり意訳すれば「天気がいいのは良いが波が高いのは困る」ということだ。
では何が困るのか?それは何か?
先の情報と照らし合わせて考えられるのは、史実においては新兵器が使えなかったという事実だ。
つまり、波が高くて新兵器が使えなかったということだ。
それを端的に表したのが「ナレドモ」という四文字だ。
そして今回、実際に連合艦隊から送られてきた電文は「天気晴朗ニシテ波穏ヤカ」だった。
だから新兵器を使ったのだ。
時期的に春先に当たるこの日は、例年よりもかなり波が穏やかだったらしい。
しかし思い通りの結果に繋がらなかった。
ではその新兵器とは何か?
それは「連携機雷」というものだ。
まず機雷とは「機械水雷」の略で、一定の水深を維持した状態で敵艦を待ち受け、敵艦が接触した瞬間に炸裂して船体に穴を開け、沈没に至らしめるための兵器だ。
「連携機雷」とは、二個の機雷をロープでつないでおいたもののことで、これを敵艦隊の予想進路に敷設して運用する。
通常の機雷では効果があるかどうかは運次第で、広い外海では容易にすり抜けられてしまうが、ロープでつながれた「線」である連携機雷は、敵艦の艦首がロープにひっかかると、つながっている機雷が手繰り寄せられ、艦体に当たって左右両舷で炸裂するというもので、うまくいけば敵をせん滅することが可能となる。
構造も簡単で、既存の機雷をロープでつなぐだけだが、世界の誰も気付いていないアイデア兵器だ。
しかしこれは小型の水雷艇に積んで運用するものであるから、波が高いと船体の小さな水雷艇は使えない。
だから史実では使用を諦めたのだ。
そして電文を受け取った大本営では、「ナレドモ」との文字を見ただけで「波が高く連携機雷は使えないから砲撃戦に持ち込んで決着をつけるつもりなのだな」と瞬時に判断出来たはずだ。
今回はこの敷設が予定ほどうまくいかず、敵に逃げられそうになったところに、慌てて追いかけたために乱戦となり、日本側にもそれなりに損害が出たということらしい。
なかなかうまくいかないものだ。
しかしバルチック艦隊をウラジオストクに入港させないという目的は達成したし、ロシアにはもう有力な軍艦はない。
更に41隻で構成されていたバルチック艦隊は、病院船と石炭運搬船を除く戦闘艦全艦が撃沈されるか降伏したそうだし、艦隊総司令官ロジェストウェンスキー中将をはじめとする、多くの将兵を捕虜にできた事が判明した。
この点では史実以上にパーフェクトな勝利だ。
もっとも日本海海戦については、たとえ何回やり直したとしても日本側の勝利は揺るがないだろう。
その理由として、日本側は前年10月以降は訓練と整備・休養に十分な時間をかけることができ、士気も極めて高かった点が挙げられる。
一方ロシア側の条件は悪すぎる。
俺がロジェストウェンスキー中将の立場だったら、逃げ出したかもしれない。
イギリスと一触即発の事態となった「ドッガーバンク事件」は起こらなかったものの、その行程は苦難の連続だった。
まず、大型艦は喫水の深さの関係と、イギリスの妨害でスエズ運河を通れないため、より遠回りとなって負荷のかかる喜望峰経由の航路を取らざるを得ず、更にその道中はイギリスの植民地がほとんどであるため、船体整備も補給もままならないどころか、徹底した嫌がらせを受ける破目になった。
この時代の船は石炭が燃料だが、無煙炭と呼ばれる燃焼効率の良い石炭で動かすのが理想だった。
イギリスはこれを拒否したのだ。
更にインド以東では、同盟国フランスが押さえているカムラン湾以外に中継点を得られなかった。
さすがブリテン様。この手の嫌がらせをさせたら世界で一番だ。
味方として頼もしいことこの上ない。
しかし、カムラン湾でも同盟国フランスから早期退去を求められるありさまだった。
何故なら露仏同盟の条約文に明記している通り、フランスは「1対1」の戦争の場合は、中立の立場をとるからだ。
日本人は中立のことを「交戦国双方に味方しない状態」だと認識しているケースが多いが、国際常識で言えば中立とは、「交戦国双方の敵」であるのだ。
だから中立の立場を貫きたいのであれば、時として相手を力ずくで追い出す必要がある。
でないと「中立ではなく交戦国の一方に味方をした」と捉えられかねない。
実例としてはスイスが挙げられるだろう。
1815年のウィーン会議において、永世中立国の立場を認められたスイスは、第二次世界大戦でも中立を貫き、自国の領空を侵犯した連合国軍の航空機を200機近く、枢軸国側の航空機も50機以上撃墜し、自国の戦闘機にも多大な損害を出した。
この場合、追い出したくても武力が無ければ追い出せなかったし、連合国側も枢軸国側もスイスの主権を無視して領空に侵入しまくっただろう。
大昔に「非武装中立」を盛んに叫んでいた人達が日本にいたが、「非武装」だと「中立」を貫こうにもその手段がないのだから、言葉の上で最初から破綻していたというわけだ。
話がそれたが、ロシア側は補給と将兵の休養にくわえて、訓練面でも重大な問題点が露見していた。
艦隊の士気はもともと高くなかったのに加えて、陸上戦闘においてのロシア不利が伝えられるに及んで、ますます士気は落ち、艦隊内での自殺者や反乱も頻発する事態だったため訓練どころではなかった。
ロシア側の敗北は必然だったのだ。
もっと言えば、超長距離航海であるにもかかわらず寄港地が少ないのは最初から分かっていたため、石炭、食料、備品、可燃物も大量に搭載されており、実際の戦闘で火災の原因となった。
このように冷静に見れば、バルチック艦隊の勝機は最初からほぼ無かったのだ。
むしろ何とか3万㎞にも及ぶ大航海をなしえたロジェストウェンスキー提督は立派だったとすら思える。
そしてここにバルチック艦隊は消滅した。
つまり海軍の戦いも日本の勝利で終わったのだ。
この海戦では日本側の損害が史実よりも多く発生した。
しかしそれについてはあまり悪く考える必要が無いのではないか?
どういうことかといえば、武田信玄の有名な言葉に「戦いは六分をもって良し」というのがあるからだ。
つまり勝ちすぎは慢心を呼び、将来大きな禍根につながるという意味だ。
至言だと思う事にしよう。なぜなら日露戦争勝利が俺にとっての、また日本にとってのゴールではないのだから。
それに今回失敗した連携機雷も秘密が漏れることは無いだろうから、将来使える時が来るかもしれない。
そうだ。国民の気持ちも同様だ。
これでもう安心。やっと楽になれる。そう思ったらもう発展はない。
心に刻もう。
そして国民には新たな「敵」を提供して、緊張感を維持してもらおう。
次の敵。それはもちろん帝政ドイツだ。
あ、その前に講和会議だ。