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第二十七話 陸上での決着

1904年(明治37年)8月


Side:近衛高麿


戦況は相変わらず日本の圧倒的優勢だ。

脚気患者が「0」で戦力が史実より多いし、補給が順調であることが要因だ。

また戦死者もかなり少なく済んでいる。


一方でロシア兵の捕虜は史実より圧倒的に多く、全国各地に点在する捕虜収容所は急ぎ拡張工事に着手して対応しているがどこも満員御礼だ。

その中でもっとも有名な収容所となったのは愛媛県の松山市だ。

史実でも、ロシア兵は降伏する際に「マツヤマ!、マツヤマ!」と叫んだそうだが、松山の捕虜収容所が高待遇であるとの噂がロシア兵にも広まったためらしい。


待遇が良すぎて故意に降伏した兵士もいたんじゃないか?

捕虜数が倍増している現状ではこの話が今は世界中に拡がっているようで、松山は東京に次いで有名な街となるだろう。


8月12日には史実にはいないはずの弟が生まれ、彦麿(ひこまろ)と命名された。

それを聞いた時は一瞬、グルメ系のぽっちゃり芸人を思い出したが偶然だろう。字も違うし。


しかし、よく考えたら彦麿はあの人物と同い年となるな。


もしかしたら同じ誕生日だったりして?


今から十数年先の未来となるが、彦麿と仲良くしてもらえるよう準備をしておこう。

そういえば俺と文麿の歳が5歳も離れているのは何故だろうとずっと疑問に思っていたが、理由が判明した。


父が俺と文麿の母と結婚したのが1885年の3月初旬。

そして4月の中旬にはヨーロッパ留学のため父は出国した。

母を置いて。

その翌年初めに俺が生まれたが、父は日本にいなかったのだ。

うん。令和じゃアウトだな。

いや昭和でも許されないだろう。明治で良かったな。それともやっぱりモメたのか?

父に留学経験があるのは前世で知っていたが、この世界線では留学しないものと思っていた。

だが既に終了していたとは知らなかった。


そんな家庭の出来事もあったが、戦況はずっと日本側の圧倒的優位のままだ。


10月15日には得利寺(とくりじ)の戦い


11月3日には遼陽の戦い


双方の戦いに勝利し、占領地を拡げつつどんどん北上していった。


そして1904年12月8日から11日にかけて日露双方の陸上兵力の大部分を投入した激闘が行われた。

開戦10か月目となるこの日、後世「沙河(さか)会戦」と言われるようになる戦闘が開始されたのだ。


沙河会戦は史実でも同名の戦いがあったが、戦闘規模は日露戦争最後の、そして最大となる「奉天会戦」を上回るものとなった。


参加兵力は日本軍約30万人に対してロシア軍約40万人。


日本側総司令官 大山巌大将

ロシア側総司令官 クロパトキン大将


ロシア側の意図としては、これ以上の日本軍の北上を阻止するため、兵力の集中運用をおこなって一気に日本軍の攻勢を押し戻す計画だった。


一方この戦いにおける日本側の配置はおよそ次のようなものだった。

東から順番に。

右翼部隊 第二軍及び鴨緑江軍その他 兵力7万人。

中央部隊 第一軍及び第四軍その他 兵力15万人。

左翼部隊 第三軍その他 兵力8万人。


戦況は12月8日未明より日本側左翼の乃木大将率いる第三軍、その中でも最左翼に配置されていた秋山好古(あきやま よしふる)少将麾下の騎兵部隊が正面のロシア軍右翼部隊へ襲い掛かり、これを早期に撃破することに成功する。


第三軍はそのまま沙河を渡り、戦場を大きく東へ迂回してロシア中央軍の後方を通り過ぎ、日本の右翼である第二軍と交戦中であったロシア軍左翼部隊の右後方側面を突き、これを瓦解に追い込み敗走させた。


12月10日、第二軍は残敵掃討と、敗走させたロシア右翼に備えて防備を固めるが、第三軍は転進してロシア軍中央部隊の背後に迫っていった。


この時ロシア軍中央部隊は日本軍中央部隊に対して優勢を保っており、上空から見ると日本軍に対してU字もしくはV字に近い形状で突出していて、日本軍中央部隊は敵の進軍に押されて左右の隊はそのままで中央部が後退しつつあった。


ロシア側としては勝利を確信していただろう。

何しろ兵力数でも優位に立っていたし、日本の中央部隊のど真ん中を突き崩せば大規模な中央突破が完成し、日本軍を敗走させることができる。

初めてロシア軍が日本軍に勝利する戦闘となるのだ。

ここで勢いづくことができれば戦線全体を押し戻すことも出来るだろうとの計算があったはずだ。


しかしそこへ第三軍がロシア軍中央部隊の後方に出現して「蓋」をするような格好で攻撃を開始する。


結果、ロシア軍中央部隊は周囲を完全に日本軍に包囲されて恐慌状態に陥ることとなり、戦況は一気に逆転した。


最終的にロシア軍はこの戦いにおいて戦死者5万人、捕虜15万人を出して壊滅した。

またロシア軍総司令部は瓦解し、クロパトキン大将以下多くの将官が捕虜となり、満州方面での組織的な作戦継続が不可能になった。


途中経過と結果を聞き、戦史にそっくりな戦いがあったのを思い出したのだが、それは紀元前216年にカルタゴとローマ帝国との間で行われた第二次ポエニ戦争におけるカンネーの戦いだ。


またの名をカンネーの殲滅戦。


ローマ軍はここで歴史的な大敗を喫した一方、カルタゴのハンニバル将軍の名声は不朽のものとなった。

沙河会戦も二十世紀の包囲殲滅戦とか二十世紀のカンネーとか言われるようになるのだろうか?


これで満州方面へ展開中だったロシア軍を早期に無力化することに成功した。

ロシア軍は消滅した陸軍の再編成と新たな兵の徴発を本国においてしなくてはいけないが、ロシア国内はこの報に接して混乱し始めた。

混乱の原因としてはロシア国内に潜在的にいた不満分子の存在が表面化し、民衆の不満と合体したことも大きな要因だ。


この件については1人の日本人の活躍があった事は見逃せない。


明石元二郎という人物だ。


ロシア国内の不満分子を扇動して、政情不安につなげることに成功したのだ。

この人物については別の機会に詳しく述べることになるだろう。


その扇動活動の結果起こったのが「血の日曜日事件」だ。

すごいネーミングセンスだな。「プラハ窓外放擲(そうがいほうてき)事件」もそうだが、日本人じゃ思いつかない名前だ。いやそれ以前に窓から人を投げてはいけない。しかも三回もだなどと…


グレゴリオ暦(当時ロシアはユリウス暦を採用)1905年1月9日。史実より2週間早く事件は起こった。

暴動を起こした民衆は軍の攻撃によって5000人の死者を出して鎮圧されたが、この情報を聞いた一般国民に動揺が走った事でロシアは戦争継続が難しくなった。


大体史実通りだが犠牲者が多いぞ。

それだけ陸上戦闘で一方的に負けているからだろう。


大山総司令官と乃木大将、秋山少将の武勲は史実以上だ。

ここに来てようやくマスコミの論調も和らぎ、国民に安堵感が広がりつつある。

このまま勝っても得るモノは何も無いだろうが、海軍の結果次第では失う物もなくて済むかもしれないという雰囲気が形成されつつある。


そう。陸上戦闘はこのまま日本軍の勝利で終わっても、バルチック艦隊の成否がはっきりしないうちはロシアは諦めないだろう。


日本海海戦の結果を待とう。



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