第十七話 たまには東京観光しよう①
今日は1898年(明治31年)6月5日(日曜日)だ。
俺は12歳となっている。
相変わらず、退屈な学校と書庫の往復といった日常は変わらないが、たまには東京観光をしようと思い立ち、7歳になった文麿を誘って都心をぶらぶらしている。
もっとも二人きりというわけではなく、護衛やら執事やらと総勢十名だ。
大袈裟かもしれないが、近衛家の影響力を考えると致し方ないと思う。
しかし令和を知っている俺からすると、都心といえども実にローカルな景色で新鮮に映る。
その中でも俺が一度内部を見てみたいと思っていた鹿鳴館を見学している。
この建物は、4年前の明治東京地震で被災して一部壊れたらしいが、今は修復されて華族会館となっている。
だから俺達は入ることが出来る。
場所は令和で言えば帝国ホテルのあたり。
超一等地だ。
日本は不平等条約を解消してもらいたくてこの建物を作り、連日連夜にわたって列強の領事館員やその夫人を招いて舞踏会を催したが、当時の日本人で西洋のダンスや食事マナーに精通した人は稀で、一生懸命頑張って接待をしたものの、実に珍奇な見せ物と化して逆効果となった国辱的建物だ。
そんな中で一際注目されたのが大山捨松だった。
この人はあまり有名じゃないが、俺は学者時代から注目していた女性だ。
彼女は会津藩の家老格の家に江戸最末期に生まれた。
会津藩で江戸末期だ。
それだけで波乱万丈な予感がするが、戊辰戦争では城に撃ち込まれた砲弾が爆発する前に濡れた布団で押さえて防いだらしい。伝説かもしれないが。
女傑だ。
明治になり国費留学でアメリカに渡り、アメリカの大学を卒業した初の日本人女性となった。
ちなみに一緒に留学した仲間に、五千円札のモデルとなった津田梅子がいて終生の友となった。
帰国後は大山巌と見合いするが、奇しくもこの人は戊辰戦争において会津若松を攻め、城に砲弾を撃ち込んだ指揮官で仇敵といえる相手だった。
最初のお見合いで日本語が不自由な捨松と、鹿児島訛りの酷い巌はお互い何を言っているか理解できず、会話が弾まなかったが、フランス語で会話したら打ち解けたとの逸話がある。
大山巌との結婚後、アメリカの社交界を熟知していた捨松は鹿鳴館において大活躍し『鹿鳴館の花』と呼ばれた。
その後は津田梅子を助け、女子教育の普及に力を入れる。
凄く波乱万丈な人生だな。
朝ドラとか大河ドラマで主役になりそうなのに、何故か誰も取り上げていないのが不思議だ。
それ以前に知名度が低い。低すぎる。
日本初のインテリ女性、仇敵との結婚、国際舞台での活躍、コミュニケーションお化け、突然の非業の死…
ドラマになる要素が詰まっているじゃないか。
しかも美人だ。俺がそのうち小説にしてやろう。
非業の死とは、第一世界大戦末期となる時期にスペイン風邪で命を落とすのだ。
スペイン風邪か。
まだ世界的なパンデミックまで20年ちょっとあるが、被害を少なくするくらいしか対策がない。
この病気はH1N1型の鳥インフルエンザが変異して人間に害をなした。
世界の罹患者は5億人、致死率10%以上。
当時の世界人口は15億人だから罹患率30%以上。
それでこの致死率だ。コロナの比じゃない!
これが第一次世界大戦終結のきっかけとなったという研究者もいるほどだ。
日本でも罹患者2400万人、死者39万人だ。
因みに当時の人口は5600万人だから、40%以上の日本人が罹患した計算になる。
それも統計上だから実態はもっと多いかもしれない。
死者は比較的若い層が多かったと記録にある。
コロナと逆だな。年配者は過去に免疫につながるような出来事があったのか?
どっちにしてもとんでもない事態だ。
またこの記憶と教訓が後世に活かされていないのも問題で、コロナが問題となるまでスペイン風邪のことを認識していた日本人はどれほどいただろうか?
悪い出来事は何でも水に流して、無かったことにしてしまう日本人の悪癖と、歴史教育の劣悪さが原因だ。
あんな年号の丸暗記に何の意味がある。
歴史嫌いを増やすだけだ。
本当の歴史教育とは、過去の良いことも悪いこともきちんと教え、自分だったらどうするか考えさせて将来に備えるスキルを身につけさせるものなのだ。
俺は歴史学者として教育の改善も将来は行うつもりだ。
それから脚気は退治したが、結核患者は多いままだ。
こちらは四年前にペスト菌を発見した北里柴三郎に期待大だ。ああ千円札の人だったな。
この人は日本でのペストとの戦争における英雄なのだ。
人類に対する貢献でいえば本当ならノーベル賞を受賞すべき実績だったが、残念なことに白人優位が常識な時代だったから無理だった。
しかし、この世界なら俺が何とかすることは可能かもしれない。
いや、日本がパリ講和会議で提唱したものの、却下されてしまった『人種差別撤廃提案』。
日本が世界に先駆けて、人種差別に対して真正面から取り組んだ画期的な提案だった。
あれに絡めてねじ込むことはできるかもしれない。
第一次世界大戦において、日本が史実より深くヨーロッパに介入して勝利に貢献できれば、日本の立場が史実より強くなって実現の可能性は高くなるだろう。
日本人にはどちらかといえば、同じ千円札仲間の野口英世のほうが有名かもしれないが、あの人は素行がちょっと…
そういえば北里柴三郎は、東大閥の巨頭である森鴎外に睨まれて苦労するんだった。
父に頼んで支援体制を厚くしよう。
あと明治東京地震は直下型だが、被害は極端に大きくはなかった。
ここで建物の強靭化が進めば良かったのだが、被害が大きくなかったためなのか残念ながら思うような対策がとられていない。
父にも進言し、試算してもらったが、とてもじゃないが対策不能との結果が出た。
カネが無いのだ。胸を張って言うことじゃないが。
よって新規の建造物に対しては耐震基準を強化して対応するしか手段がない。
明治の建築であっても全てが関東大震災で倒壊したわけじゃないからな。
下手にヨーロッパの真似をしてレンガとかの建物にしなければいいのだ。
西洋かぶれも程々にしないとな!
関東大震災まであと25年。
早めに後藤新平と知己を得て震災後の都市計画を作っておこう。
それと、いかに自然な形で国民を避難させるか考えないと。
明日地震が来るぞ!などと言っても誰も信じないだろう。
それにしてもスペイン風邪が落ち着いたと思ったら大震災が襲って来るとは運が悪い。
これから大変だ。
単純に観光するつもりがネガティブな思考に走ってしまう。
対策しなければならない課題が山積みだ。
文麿が心配そうに俺を見ている。
ごめんよ!
場所を移動しよう!