【外伝】絶滅収容所
※本章に描かれた内容は、史実を基にしたフィクションですが、極めて深刻な人道犯罪を扱っています。
読む際にはご留意ください。
また、これは誰かを断罪する話ではなく、私たち全員への問いでもあります。
用語も当時のものを使用しています。
1945年(昭和20年)1月
Side:杉原 千畝 (駐ルーマニア日本大使館付き・臨時駐バルト三国全権公使)
ソ連を制圧した東部・南部方面軍は、モスクワ近郊で4つの軍団に再編成を終え、態勢を整えた上でドイツに向かって進軍を開始しており、主力は現時点でポーランド国境から20km地点のベラルーシのブレスト近郊に集結しているとの情報だ。
軍団は北からA軍団(トハチェフスキー元帥)、B軍団(ジューコフ大将)が率い、この2軍団を統括するのは山下元帥で、続いてC軍団(栗林大将)、D軍団(牛島大将)であり、統括するのは今村元帥となる。
なおA軍団は、先行してバルト三国の解放を行ったうえで合流していた。
これによって、私があの国々に戻ることが出来る日も近いだろうが、現地において、どんな蛮行がスターリンによって行われたのか大変心配だ。
噂では100万人単位の知識層が虐殺されたと聞く。
まさに狂気の沙汰、鬼畜の所業で、スターリンへの厳罰を望む声は日増しに高まっており、言い逃れの出来ない証拠や証言が集まりつつある。
スターリンについては、軍事裁判において、その責任は明らかになるだろう。
だが私が今、何より懸念するのは、ヒトラーによるユダヤ人やジプシーへの迫害だ。
スターリンが、人間の残虐性に限界がないことを示したならば、ヒトラーもまた、それに劣らぬ狂気を持つ。
現在のヨーロッパにおいては、既に多くのユダヤ人がドイツ人から逃れて、安全圏へと退避している。
まずは10年以上前に実行された、日露の船舶による大量移住作戦により概算300万人以上。
以降も順次脱出は継続されていたが、1940年のナチスドイツによる迫害が本格化してきた段階で、日本へのビザの発給を求めて、多数のユダヤ人が各地の日本大使館など外交窓口へ殺到した。
当時私も対応に追われたが、それらの人々は日本を経由して、無事に東パレスチナへと逃れることが出来た。
更には戦争の激化と共に、日本軍がルーマニア、次いでウクライナとベラルーシに進軍する過程で、50万人以上が脱出してきたが、それでもなお100万人近いユダヤ人が住んでいるはずだ。
私としては、彼らの運命を気にせずにはおれない。
とにかく、同盟軍が東欧諸国を解放すれば、順次実態は明らかになると思われるが、それを待つのすらもどかしい思いだ。
一方の西部戦線では、ノルマンディー上陸作戦の後にパリが解放された。ヴィシー政権は崩壊し、ドゴールが掌握することによって、フランスは同盟側に復帰した。
その結果、戦況は圧倒的に我々同盟側に有利となっている。
しかし、あの恐るべきドイツ機甲師団は、まだまだ健在であり、エーリッヒ・フォン・マンシュタインやフェードア・フォン・ボックといった、優れた将帥に率いられているから、油断は出来ないと思う。
1945年(昭和20年)2月7日
Side:牛島 満 (日本陸軍大将 東部方面軍 D集団司令官)
「……何だと。相当数の人間が殺されていたというのか?」
我々が、ポーランド南部にある都市クラクフを制圧し、周辺地域をナチスドイツの手から解放したのだが、情報参謀から告げられた内容は、我が耳を疑う衝撃の事実だった。
クラクフの西方50kmに存在するオシフィエンチム市、ドイツ名では、アウシュビッツという街の郊外に、大規模な収容所の存在が確認され、軍が突入したところ、そこにはとんでもないものがあったという。
情報参謀が言った。
「はっ。信じ難き内容にございますが、確認された事実と存じます」
「詳細を報告せよ。余すところなく聞こう」
「はっ。報告によれば、該当地域に突入したのは、東パレスチナ出身の義勇部隊でありまして、現地の惨状を目にした途端、正気を失いかける者もいたとのことにございます」
「……むべなるかな。己が同胞のありさまを見れば、誰しもそうなるであろう」
ヒトラーは、スターリンと同じく、強制収容所を建設して隔離していたとは…
これで戦後の戦争犯罪人としての訴追は確定だな。
参謀が続けた。
「閣下。報告では、当初よりナチスは、大量の人間を処分する目的で、あの施設を整備したと見られます」
うん?引っかかることを言ったな?
私は右手を挙げて、情報参謀を制した。
「待て……今、なんと言った?つまり『人を殺すために建てた』と、そう言ったか?」
情報参謀は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべたが、意を決したように言った。
「左様にございます。ソ連の収容所の如く、思想犯を拘束し矯正するという体裁ではなく、初めから“殺すこと”が主眼とされていた模様にございます」
「それを……あの親衛隊と、秘密警察が執り行っていたと?」
「はっ。ガス室による処分、銃殺、火葬。各地の関係者の証言と遺留物の状況から、少なくとも50万人、あるいは100万人近くに達する犠牲者が出ていると見られております」
100万人だと!なんだその数字は!?
全く理解が追いつかない。
室内に胸が締め付けられるような沈黙が落ちた。
参謀は、発見時の具体的な報告を続けた。
まず、施設に突入した隊員は、異様な臭いが満ちていることに気付いたそうだ。
鼻を衝く酸のような臭いと、焼けた鉄の臭気。そして――。
中に入った兵士たちが、声を失う。巨大な金属の扉。壁に走るガス管。床に積み重なった灰。奥の焼却炉には、まだ火の気が残っていたらしい。
参謀は顔を引きつらせながら、実はまだあるのですと言った。
これ以上、まだ何かあるのか!?
「信じ難きことではありますが、犠牲者より取り上げた金歯や、貴金属を集めた貯蔵庫まであったとのこと」
なんだと!金歯?
想像しただけで身体が震え始めた。
「……金歯を集めていたと。……なるほど、つまり、そういうことか?」
言葉にすらしたくないのだが。
「ご想像の通りにございます。
兵が箱を蹴倒したところ、床に中身が散乱し、中には歯に装着されていた金属類と見られるものが、大量にあったと……そうした箱が幾つもあったと報告を受けております」
おぞましい報告を聞き、震えが止まらない…
「さらに、当該施設は親衛隊の最高機密とされ、証拠隠滅のため、囚人の中から特別任務の部隊を編成し、死体の運搬および焼却を命じていた模様にございます。
また一部の収容所では、処刑場跡地を隠すため、偽装や植樹なども施されていたとのこと。近く発掘作業に着手するそうです」
何という愚かな…何という蛮行だ。もう人間の所業ではないな。
もっと早く、我々がドイツへ進撃できていたら、これらの悲劇は防ぐことができたのだろうか?
それであれば、もしかしたら、我々にも責任の一端があるのではないか?
一瞬、そんな考えが浮かぶほど衝撃的な話だった。
そんな私に参謀が問いかけてきた。
「……閣下、この件、いかがご処置なさいますか。内容があまりに重大でございますゆえ、慎重な取り扱いが求められます。情報の露出を制限するという選択も、理屈の上ではございます」
隠してどうするのだ!
「……否だ。今村元帥に報告し、この件は正式に政府中枢へ上げるべきだ」
「誤解なきよう申し上げます。私とて、この事実を闇に葬るつもりはございません。
ただ……伝え方次第では、我らの信義、そして作戦遂行上の信用にまで、影を落とすこともあり得ますれば……」
そこは理解できるが。
「わかっておる。しかし、これは決して口を閉ざして済ませてよいことではない。
ナチスの非道、ヒトラーの暴虐は、世界の眼に晒さねばならん」
ドイツに従う諸国も、これでドイツを見放す。
いや…ドイツ国防軍の中にすら、そういった人物が多く現れるはずだ。
一刻も早くヒトラーを倒さないと危険だ。
そうだ。
証拠となる資料を作り、ビラの形に仕立て、敵国領内に散布せねばなるまい。
客観的資料として、各国で発行された新聞を収集し、それを投下するのも効果的だろう。
1945年3月
Side:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン (ドイツ国防軍元帥)
於:ドイツ陸軍 参謀本部
最近では珍しく、フェードア・フォン・ボック陸軍元帥からお誘いがあったので出向くことにした。
同盟軍の侵攻に対して、どう対応すべきかという話だとは思うが。
「マンシュタイン元帥、よく来てくれた。
まあゆっくりしてくれたまえ」
この人はもうすぐ65歳になると思うが、相変わらず元気そうだな。
「ご無沙汰しておりましたな、ボック元帥。お変わりなきようで何よりです。
もっとも、東西より敵が押し寄せている現状を思えば、のんびり過ごせる日々など、もはや夢物語かもしれませんが」
「その件だがな、マンシュタイン元帥。
どうやら我々は、またしても、不利な戦局の防衛指揮を担わされることになりそうだ。
まったく、もっと早い段階で作戦を発動していれば、ここまで状況が悪化することもなかったのだ。
だが、例の伍長殿が余計な口を挟んだおかげで、こうして後手に回る羽目になった。全くもって遺憾だ」
ボック元帥も実直な人だから、現状が歯がゆくて仕方ないみたいだな。
「まったく仰る通りですな、ボック元帥。
……しかし、命令とあらば、我々に選択の余地はありますまい」
するとボック元帥の表情が変わった。
明らかに、何かを忌避するような表情だが、はて?
「本気でそう思っているのかね?
知っているかな?
あの伍長は親衛隊や秘密警察の連中を使って、ユダヤ人やジプシー、障碍者や共産主義者といった『異分子』を大量虐殺していたらしい!
我が国では情報統制されているが、全世界に事実が拡散されている!
これを見たまえ」
そう言って渡されたのは、詳細な資料と、日本やイングランドなどの新聞だった。
日本の長距離爆撃機によって、国内のあちこちに散布されているのだとボック元帥が言った。
渡された資料を読み始めたのだが、読み進めるうちに手が震え出し、文字がブレて読みづらい。
なんだこの写真は!?本当に人間による行為なのか?
そしてこの人数は正しいのか?
新聞には、日本のコノエ首相の談話が掲載されており、こう書かれていた。
「今回発覚した問題は、決してヒトラー個人だけの犯罪にとどまるものではありません。
ナチス党とその協力者による、国家的規模の人道犯罪です。
この悲劇の背景、特に犠牲者が多いユダヤ人に対する犯罪行為には、帝政ロシアが捏造した偽書『シオン賢者の議定書』があり、これを信じ、あるいは利用した者たちが、ユダヤ人に対する陰謀論を正当化する道具として用いてきました。
それによって、ロシアでは『ポグロム』が引き起こされ、ドイツでもまた、同様の悲劇が繰り返されることとなったのです。
『シオン議定書』が、1935年にスイスのベルン裁判所で偽書と断定されたにもかかわらず、未だ信じ続ける者が世界各地に存在しているのは、極めて嘆かわしい現実です」
そして、これらの蛮行に手を染めた我がゲルマン民族も、何らかの行動を起こさずにいるならば、ヒトラーと同罪と見なされると、締めくくられていた。
読み終えた私はボック元帥に話しかけた。
「……これは、いったい、どういうことなのです?
これでは、我々は偽書に便乗した悪魔と、何ら変わらぬ存在と見なされかねません。
……そもそも、この戦いに正義は、まだ残されているのでしょうか」
これに対してボック元帥は、断定的に言った。
「その通りだ。
同じ話を先任のルントシュテット、レープ両元帥にもしたが、反応は君と同じだったよ。
もう伍長に任せるわけにはいかないだろう。
そこに書いてあるように、東欧諸国やスペインまで、我が陣営から離脱し始めたのだ。
ポーランドでは、大規模な群衆暴動が発生して手がつけられない。
ブルガリアやベーメン・メーレン、スロバキアも同様だ。
このままでは、祖国は世界を敵として滅んでしまう」
何ということだ。やはり我々は指導者を間違って選んでしまったのか。
ボック元帥が続けた。
「戦場で敵の命を奪うのと、無抵抗な市民を虐殺するのとでは、まったく意味が異なる。
軍人として許されざる行為だ。
そして私は軍人で、これまでは『政治に口を出す立場にはない』と言い続けてきたが……それがどれほど卑怯で、卑劣な逃げ口上だったか、あの列車が出ていくのを黙って見送った日から、本当は、ずっとわかっていたのだ」
それは私も同様で、見て見ぬふりをしていたに過ぎない。
だが、こうなってしまうと…
そしてボック元帥は具体的な提案をした。
「こうなれば取れる手段は多くない。
クーデターや、敵に通じるのは論外としても、早期に戦争を終結させないと、我が民族そのものが滅びかねない」
「つまり、徹底抗戦の命令を無視し、兵力を温存しつつ、同盟軍に降伏するか、あるいは命令を無視して何らかの行動を取るか――その二択に迫られているわけですかな?」
「そういうことになるな。
軍人としては恥じ入るばかりだし、残念でもあるが、しかし現在ではそれが最善だ。
ソビエトを降した際も、同盟軍、特に日本軍は紳士的な対応に終始したらしいから、無茶はするまいし、ましてや、一般市民に対して非道な行為などするはずがない。
その点は伍長よりも、よほど信頼出来るだろう。
敵のほうが信頼できるなど、考えたくもないのだが」
その通りだな。
そもそも戦争そのものは、我々軍人に任せておけばよいものを、たかだか伍長止まりのヒトラーが細かい作戦に対しても口を挟むから、おかしくなるのだ。
我々は当然ながらヒトラーを軽蔑していたし、ヒトラーから見ても、そんな我らに対する苛立ちはあっただろう。
だが、所詮は指導者という器ではなかった。
そしてそんな人物を選んだ我々が、最も悪いのだ。




