【外伝】近衛篤麿 ㉛ ユダヤ人脱出作戦 後編
1934年(昭和9年)6月
Side:リーゼ・マイトナー (ユダヤ人物理学者)
私は、オーストリア生まれのユダヤ人ですが、長年にわたってカイザー・ヴィルヘルム研究所に勤務し、ベルリン大学で教授を勤めつつ、核分裂の研究に打ち込んでまいりました。
その結果、放射能と放射線の原理を通じて、放射性同位体と核種を発見出来たのですが、 それよって初めて核分裂を理論的に説明可能とする成果を得ました。
現在私は「核分裂の母」と呼ばれ始めています。
そこまでは差別は感じつつも、何とか順調だったのですが、数年前にユダヤ人排斥を声高に唱えるアドルフ・ヒトラーが政権を取ると、私がそれまで築いた環境は激変してしまいました。
私と同じくユダヤ人であった、上司のフリッツ・ハーバーは辞職に追い込まれ、私自身も教授職を解かれてしまったのです。
この際に、北欧かアメリカへの亡命も考えましたが、仲間からもドイツに留まるように説得されましたし、既に55歳になっていましたから、この年齢で一から新たな生活を始める事に躊躇したのです。
ですが、そのうちに状況はどんどん悪化して、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなってしまいました。
ドイツ政府のみならず、一般国民までもが私たちユダヤ人への迫害を積極的・大々的に始めたことにより、身の危険を感じるようになってきたのです。
そんな中で降って湧いたのが、アジアへの渡航というお話です。
日本政府と、東パレスチナ政府が船舶を出して、私たちを受け入れてくれるという申し出でしたから、迷うことなく仲間たちと共に日本へ渡ることにしました。
もちろん家族や親戚一同も一緒です。
とても有難いお話で、お礼の言葉もありませんわ。
あのままドイツに留まっていたら…本当に間一髪でしたね。
それでも悔しいのは、今までドイツ人に迷惑を掛けず慎ましく平和的に生きてきた私たちユダヤ人を、まるで路傍の石のごとく捨てた、ドイツ人たちの悪意です。
一体私たちが、迫害されるような何かをしでかしたというのでしょうか!?
こうなれば…ドイツに復讐するために、日本の方々に協力する事にしましょう。
私の知見も、きっと役立つ筈ですわ!
Side:東郷重徳 駐独大使
何とかユダヤ人たちを助け出して、東パレスチナへ移送する作戦は順調に推移できている。
総理からの指示通り、ユダヤ人の名誉を落としつつ金額交渉をしたが、あれにどんな意味があったのかよく分からないがな。
だがまあ、猜疑心が人一倍強いヒトラーが、態度を豹変させてユダヤ人移送をやめさせたら厄介だったから、そう思わせないためなのかもしれないがな。
しかし純粋な日本人ではない私からすると、日本人とはなんと繊細な人種なのかと感銘を受けるが、世間で言われているほど外国人に冷たい国ではないのだと思う。
なんと言っても、私がドイツの特命全権大使となっているくらいなのだから。
肝心の移送作戦だが、結論から言えば最初の段階で移住希望者は、ドイツと周辺国合計で約300万人程度だった。
ソビエトを除くヨーロッパ全体で、600万人以上のユダヤ人が居住しているが、全員が東パレスチナを目指すわけではないらしい。
関係者の話では「東パレスチナという場所が、彼らにとっての約束の地では無いからでしょう」と言っていたが。
それでも、我が国の人道的行為に対する世界各国の評価は極めて高いと言えるし、近頃はヒトラー総統も日本の評価が上がることに対して不満を漏らすようになって来たみたいだな。
それはそうだろうが、我が国に不満をぶつけるわけにもいかないだろうから、いい気味だな。
首相に就任した直後のヒトラーは、確かに様々な景気対策を行なって失業者を減らし、不況に喘いでいたドイツ経済を立て直したところまでは良かったが、最近のやり方は独善的・独裁的で、私としては首肯しかねる点が増えてきた。
これが、丁度よい薬になればよいのだが。
…無理かな。
Side:高橋是清
またもや、国防相はユダヤ人に手を差し伸べたな。
これにも何か意味があるはずだ。
もしかすると、今回の騒動を通じてユダヤ人を受け入れる場所を作るために、東パレスチナを建国したとか?
少し時間が経たないと、その辺りの真相はよく分からないな。
そんな中で私が注目したのが、今回のユダヤ人移送作戦によって、世界的に有名なユダヤ人科学者であるアルベルト・アインシュタイン博士が日本に移住してきたことだ。
東パレスチナよりも環境が整った日本において、様々な科学的研究を続ける目的らしいが、さっそく私はアインシュタイン博士のもとを訪ねた。
表向きの理由は、蔵相として科学振興予算を増額させる打ち合わせと称した。
もちろん、それも行うが本当の狙いは別のところにあって、私の個人的な好奇心によるものだった。
「・・・・・・・・・・それでは、今後の日本政府からの援助額は、概ねそのようにさせていただきましょう。
ところで、少し雑談をさせていただいても?」
「もちろん結構ですよ。何か興味のあることがおありなのでしょうか?
ユカワさんやニシナさんとの打ち合わせは進んでいますが、それに関連したものですか?」
うん?何だそれは?
「…それが何かはわかりませんが、私がお伺いしたいのは個人的な興味についてなのです。
じつは…時間の概念について、是非ご教授いただきたいのですが、博士の提唱しておられる『相対性理論』において、時間とはどのような位置付けなのでしょうか?」
「時間とは不変のものではありません。
例えば、宇宙空間を移動する船があったとして、その移動速度が上がって光速に近付けば、内部にいる人間から見た時間の流れは変わらなくても、外部の人間から見た時間は、ゆっくり経過しているように見えるでしょう。
つまり、極端に言えば、内部の人間は1年のつもりで過ごしていても、実は外の世界では10年経っていたなどということはあり得るのです」
「まるで浦島太郎の話のような…ああ、いや失礼。独り言ですので…
それでは、時間を先取りすることは可能なのでしょうか?
もっとわかりやすく言えば、現在の人間が未来を知る術が存在するものなのでしょうか?」
「量子力学の世界においては、私と同じユダヤ人のマックス・ボルンが提唱した波動関数の世界においても、可能性が指摘されていますし、私自身も多世界の概念はある程度温めていますが、まだ発表段階ではありません」
「多世界とは、どういった概念なのですか?」
「例えば、現在のこの瞬間から、世界は複数に枝分かれする可能性があると考える思考です。
世界がパラレル構造であるという概念ですが、時間を操るというよりは、無限の可能性・無限の将来といったものを考える領域ですね」
よく分からん…
「…質問を変えます。
現在の人間が、未来を予知することが可能ですか?」
「それは現在の人間では不可能でしょう。
時間を跳躍する技術が開発されれば可能かもしれませんが、そのような技は存在しません。
高橋さんは、未来を予知してどうしたいのですか?」
「…私が知りたいわけではないのですが、もしかしたらそんな人物が存在するなら、都合の悪い未来を避ける手段が取れるのかなと思いまして…」
「ははは。面白いことをおっしゃる方だ。
ですが、私は科学者ですから、荒唐無稽な話には興味がありません。
それにですな。
例えばですが、本来はこの場にいないはずの人間、具体的に申し上げますと、今回我々は日本の方々のお慈悲によって、ドイツ人からの迫害を逃れることが出来たわけですが、我々が日本に来たことによって未来は変化してしまうでしょうし、その変数は時間を追うごとに加速度的に大きくなるはずですから、未来は常に変化し続けるでしょう。
つまり、作為をすることで現れる未来と、しなかったことで現れる未来は別物であるのです。
要するに多世界であるわけですな」
難しい。
いつも思うのだが、科学者と話すと禅問答みたいになるから苦手なのだ。
作麼生!と言われないだけマシかな?
「それでは、未来は常に変化するのだから予知のしようがないと?」
「あくまで可能性であって、私の推論ですがね。
都合の悪い未来を知れば、当然それを避けようとして作為を行うでしょうが、そうなると予知した人間から見ても予想外の未来が現出するでしょうから、そこから先の予知は不可能となるでしょう。
それよりも…未来人が現代に蘇ったのだと考えれば、もっと面白いかもしれませんよ?」
「それはつまり??」
「そうですね。例えばですが、愛すべきヒトラー氏が、我らユダヤ人を絶滅させようと考えていた場合、そうなる未来をもっと未来の人間が知っていて、それを阻止するために現代において行動を起こすとかですね」
つまりあれか?この話を、私の関心事に当てはめた場合、国防相は未来が見える現代人なのではなく、我々が見たら将来起こる出来事でも国防相からは「過去形」で見えていると?
そんな『過去のことを語ることが出来る人間』だというのか?
「いや、お忙しい時につまらぬ話をしました。単なる興味本位な話でしたので忘れてください。
ではこれで失礼します」
「いえいえ。最後は私も戯言を申しましたので、忘れていただければ嬉しいです」
……つまり、考えにくいが国防相はこの時代の人間ではないのだろうか?
とは言ってもな…あの人の出自に怪しむべき部分などあるはずが無いし、幼い頃より明治大帝と面識があるほどだから、誰かと入れ替わっているなど考えられない。
すると、外見は国防相でも「中身」が違うとか?
思考が絡まって、よく分からなくなってきたな。
それにしても、日本に来たユダヤ人の中にはアインシュタイン博士以外にも高名な科学者が多く含まれているが、日本の科学技術の進展に協力してもらえたら嬉しいな。
いや、ドイツにおいて先端兵器の開発に従事していた科学者たちが根こそぎ日本にやってきたのだから、積極的に働きかけるべきだな。
国防相にも相談してみよう。
…もしかしたら、それが目的の本命だったりして?
イギリスからもたらされた基礎工業力の底上げと、技術供与とを併せれば、日本の技術や兵器は空想世界並みの物を開発可能となるのではないかな?
Side:アルベルト・アインシュタイン
日本は想像していたよりも、ずっと暮らしやすい国だと言える。
何より研究が続けやすく、人々から尊敬されて必要な予算までいただけるのはとてもありがたい話だ。
正直に言えば、ヨーロッパに比べるとまだまだ研究施設などは遅れているし、十分には整っていないのだが、もとが勤勉な国民性だから、必要性をちゃんと理解してもらえれば直ぐに追いつけるだろうから、それほど大きな障害とはならないだろう。
さて、これからの我らの動きだが、日本とドイツは敵対しそうな予感がする。
何より日英露仏による、『四カ国同盟』という重要な枠組みが存在しているのだ。
そして、ドイツは英仏とは以前から対立関係にあり、ヒトラーは英仏への復仇を狙っているのは疑いない。
ここにアメリカとソ連がどう絡むのか分からないが、英米の抜き差しならない対立関係と、ここ最近の日米関係を考慮すると、これまた対立関係となると考えた方が自然だ。
となれば…「日英露仏」対「米独ソ」の世界大戦が再び起こるかもしれない。
我らは当然日本へ協力せねばならないわけで、科学的な知見も大いに役立つだろう。
既に次期首相の呼び声高い近衛国防相からも、『あれ』の研究開発を依頼されていることだし、科学者仲間に声を掛けて通常兵器の性能向上にも協力するようにすべきだな。
万が一にも日本が敗れて、ドイツが勝利するような事態になってしまえば、東パレスチナの安全も保障されなくなるし、再び我らは流浪の身になってしまうのだ。
私の主義主張は脇においてでも、何としてもそれは避けたい。




