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【外伝】近衛篤麿 ②日清戦争

1895年(明治28年)4月


高麿と話し合ってしばらく経った頃、日本と清の争い、その間で揺れ動く朝鮮をめぐっての駆け引きが激しくなってきた。


日本が朝鮮半島に進出しようとしたきっかけは、「征韓論」にあったのだろうと私は考えている。

江戸幕府に見切りをつけ、明治の維新に踏み切った新政府が、王政復古を通告する書簡を近隣国に発送した。


しかし、朝鮮政府だけは、書類の格式が以前とは違うという理由で受取りを拒否したのだ。

以前は徳川将軍が押印する「日本国大君」だったのが、この時より「天皇」の押印がされるようになったことを咎めてきたらしい。


なぜかと言えば、彼らにとって「皇」の文字は、支那皇帝以外に使えば大変な不敬にあたり、征伐されても文句は言えない立場だからだそうだが、我々には関係ない話で、受け取ることも出来ぬのか?


その後に国内では、朝鮮を征伐しなければならないという主張が提起されるようになってきた。

これは当然だろう。

陛下の名が貶められたのだから、座して黙するわけにはいかない。


これを世間では「征韓論」と言うらしいが、本来なら李氏朝鮮が治めていた国なのだから、征韓論ではなく「征朝論」とでもいうのが正しかったのかもしれない。

だが、神話に出てくる神功皇后による三韓征伐の印象を受けたのやもしれぬな。


この表現だと、朝鮮半島は日本の勢力圏内に入るのだという認識につながるし、この地域の国家が日本に対して友好的でなくなると、日本の安全が維持できなくなるのは、過去の事象も併せて考えれば間違いないから、その意味でも朝鮮を懲らしめる必要はあっただろう。


ただ、そうはいっても、当時はまだ朝鮮を征服するだけの軍事力を持っていなかったのも事実だったから、とりあえずは争いに発展しなかった。


しかし朝鮮国内において、農民による暴動が発生した。

原因は身分による差別や区別、腐敗した特権階級による汚職を否定する新興宗教「東学」を布教しはじめた崔済愚が、20年ほど前に朝鮮王族や特権階級の「両班」の怒りを買って捕らえられ、処刑されたことがきっかけだった。


後継者の崔時亨は東学の公認を求めたが、前任者同様に政府から弾圧され、彼らの取締りを口実にした朝鮮官吏の収奪が更に横行するようになると、農民を中心とする暴動へと発展する火種となった。

更には、これに古より続く南北対立、というより南西部の全羅道に対する歴史的差別意識が火に油を注ぎ、朝鮮南部で大きな運動へと発展し、暴動は全土に波及したのだ。


そして昨年の6月3日、暴動を自らの手で鎮圧することは難しいとの結論に達した朝鮮政府は、清国に対して出兵要請を行い、6月5日には軍艦2隻が仁川に到着、続いて8日から12日にかけて、2,000名規模の陸軍部隊も海路から朝鮮半島に入り駐留を開始した。


自身で騒乱を押さえられないからといって、外国の軍隊を呼び込むのは悪手であり、相手に絶好の口実を与えるだけだと思うのだが……


一方で、日本政府も農民蜂起による朝鮮国内の混乱に対して、現地の日本の公使館や居留民を保護するために、6月2日に朝鮮への出兵を閣議決定した。

6月5日には参謀本部内に大本営が設置され、12日には8,000名規模の混成旅団が仁川への上陸をおこなった。


こうして朝鮮に日清両国の軍隊が留まるという、明治に入って以降2回目となる事態が起こり、遂に清との戦争が始まった。


日本としては、朝鮮が日本に対して友好的、最悪でも中立的立場を維持するのであれば、半島に進出する必要性など無かったのだがな。


朝鮮半島を主な舞台として8か月ほど続いた戦いは、陸海軍の近代化に成功していた我が日本の勝利に終わり、4月に下関で講和条約が結ばれた。

清は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島を譲渡し、およそ3億円の賠償金を支払うことが決められた。


ここまでは良かった。


だが、ロシア・フランス・ドイツの三国が「世界平和のために、日本は遼東半島への進出は行うな」と通告してきた。


外務省の話では、どうも裏にはドイツ皇帝の策謀があるらしい。


このことを知らない国民は、ロシアに対して憤激しているが、超大国ロシアに現時点では勝てないのは明白だから諦めるしかないのか?


いや、そういえば高麿が以前に言っておったではないか。


「露仏同盟が結ばれて困るのはドイツだ」


「日本は清との戦争に勝っても、大陸進出をしないほうが良い」と。


あの時は全く理解できなかったが、もしかしたら…こうなることを見越していたのではないのか?

これは…もう一度確かめる必要があると感じ、高麿にただしてみた。


「お前が以前に言っていた通りになった。しかも今回の三国による干渉は、裏でドイツが暗躍しているようなのだ。

次はどうなると予想する?」


すると高麿は何ことも無かったかのごとく、平然とした表情のまま言った。


「ロシアは今回、我が国が領有を諦めさせられた遼東半島を、いずれ清から奪い、念願の不凍港を手に入れることでしょう。

するとロシアの動きに敏感で、その動きを牽制し続けていたイギリスが黙っていません。

しかし、さすがのイギリスといえども、アジアまで大軍を運用するのは無理がありますので、これから10年以内に、必ず日本に対して同盟を結ぼうと、先方から声をかけて来るはずです。

ですので、当面はロシアに対抗できるよう、清からの賠償金を利用して国力と軍事力の拡充を行いましょう」


何だと?日本が諦めさせられた遼東半島を、当のロシアが奪うのか?

それでは「世界平和」のためにならないではないか!?


そのような理不尽がまかり通ってしまうというのか?


そうなってしまっては「刀伊の入寇」や、「蒙古襲来」を上回る国難となってしまうではないか!

それもこれも、日本に力が無いからか。

これに対するには、高麿の言うように清からの賠償金を基に国力の増大を図る以外あるまいな。


「そうだな。それ以外に道は無さそうだ」


それにしても、イギリスが日本と結ぼうと動き出すだと?

あの、どの大国とも同盟を結ぼうとしないばかりか、自国の利益だけを追求し「光栄ある孤立」などと(うそぶ)いているイギリスが、小国の、しかもアジアの端に位置する我が国とか?


どう考えても信じられない。


高麿もよく分からない本の読み過ぎではないのか?


そんなことを思いつつ、日々の政務に追われていたのだが、しばらくして高麿に脚気(かっけ)について調べて欲しいと言われた。

「先の戦争で4,000人以上の兵士が、脚気により戦地で命を落としたとの話を聞きましたが事実ですか?」と言うのだ。


そんなに大勢の人間が戦争ではなく、病気で死んだのか?

しかも海軍では死者がいないという。


どこで調べたのか?誰から聞いたのか?は言わなかったが、そんな些細なことより事実確認が重要だから陸海軍に報告を求めたのだが、やはり死者数は高麿の指摘した通りで、4万人もの陸軍兵が罹患し、その内の1割にあたる4000人が死んだという。


しかも海軍ではそれほどの罹患者はおらず、死者もいないという。


これは大問題ではないか!

原因は何なのだ?と陸軍軍医の取りまとめ役であった石黒男爵に確認したのだが、彼もよく分かっていないものの、印象としては細菌が原因であるとのことらしい。

これは高麿とよく話をしなくてはなるまい。


「脚気についてですが、なぜ海軍では死者がいないのに、陸軍では多数出てしまうのでしょうか?」


それは…私こそ知りたいものだ。


「陸軍では細菌が原因だと言っているが、確定はしていないとのことだ」


しかし高麿はこれに異議があるようで、言った。


「細菌が原因なら、日の当たらない暗く湿った軍艦内のほうが、より環境が悪いのは素人でも分かりますよね?

にもかかわらず、海軍では死者はおらず、逆に風通しの良い環境である陸軍でしか発症しないのはおかしくありませんか?」


それは確かにそうだ。


「…確かにそう思うが…ではお前は原因は何だと思うのだ?」


「はっきり申し上げて、栄養の偏りだと思います。白米だけではなく、肉や魚や野菜を食べさせる環境では発症しない筈です。

海軍は麦を食べさせているとのこと。その事実が証明しています。

騙されたと思って実証実験をしてもらえませんか?

具体的には、脚気患者に麦を主体とした食事を与えて、症状が改善するか確かめて欲しいのです」


そうなのか?しかし海軍に患者がいない以上、海軍と同じ食事を陸軍兵にも摂らせて確かめるのは良いやり方だろう。


「…そうだな。国家国民の行く末を案じるなら、こういった病気の根絶も重要だな」


私は早速、赤坂にあった陸軍第一師団歩兵第一連隊の斎藤太郎連隊長を呼び、実験をさせることにした。

この連隊にも脚気患者は少なからずいたし、斎藤連隊長は清との戦争時には兵站の責任者をしていたから食糧事情にも通じており、適任だったのだ。


中隊ごとに、食事を海軍式のものに完全に移行した集団と、従来の食事をした集団に分けて様子を見ることにした。


その結果、三ヶ月後には見事にこれが証明され、海軍式の食事をした中隊の脚気患者は治癒することで、兵士として立派に復帰することができた。


途中から斉藤連隊長は、陸軍式の食事をしていた中隊も海軍式に改めたところ、こちらも全員が治癒した。

この話は早速陸軍省にも伝わって、陸軍全体の食事を改めるよう指示が出た。

だが、麦の備蓄はすぐに底をつきそうだったので、どうしたものかと考えていたら、また高麿が「白米ではなく玄米、若しくは五分づき米にしましょう」

というので、白米から五分づき米に変更したところ、同様の効果が得られた。


これによって脚気に対する国の方針が固まり、無駄な患者や死者が激減していくことになる。


白米の美味さは魅力なのだが…


この実績により、陛下は大変お慶びになられ、労いのお言葉をいただく栄に浴することができた。

また伊藤総理や、大山巌陸軍大臣をはじめとした政府要人からの感謝も大きかったが、それ以上に新聞発表でこの事実を知った国民の喜びは大変なものらしい。


ただし、未だに原因がなんであるかは特定されていないが、少なくとも陸軍の軍医たちが言うような細菌が原因ではもはやあるまい。


無駄な死人が出ないのは正しいのだ!


などと思っていたら、高麿が米について更に言いたいことがあるらしい。


「寒い土地でもたくさん米が採れるようになると素晴らしいとは思いませんか?」


「そうだな。それに越したことはないが、米は暖かい地域で植えるのが常識だな」


「しかし、日本の国土は北の方が平野部が多いです。

寒さに強い品種があれば国民の生活も向上するのではないですか?」


「もっともな話だ。もしかして何かあてがあるのか?」


これは期待していい話かもしれんぞ!


「新聞で読んだのですが、山形県庄内地方の阿部亀治という方が寒さに強い米の品種を見つけたようですよ」


何だと!?


「何!?それは本当か!?

もし本当なら北日本中心に大々的に広めようではないか!

現地に行って確認し、効果がありそうなら政府を動かして国策にさせよう」


私は早速山形県庄内地方へ視察に出かけ、庄内地方の区長と戸長に案内を指示して阿部亀治なる人物を尋ねた。

現地で実際に確認したところ、冷害に強く、味も良い品質を確認出来たので、阿部亀治なる人物に新品種名は「亀の王」と命名するように伝えておいた。


彼の人物は、突然私が尋ねて来たことに対してしきりに恐縮しており、「王」などと命名することに対しても恐れ多いと言っていたが、そんな瑣末なことよりも、冷害に強い品種が世に出回るほうが重要で、大変結構なことではないか!


だが現地で確認した際に不思議なことがあった。


この品種が誕生したきっかけは冷害による大凶作だった。

それは2年前の明治26年に、この阿部なる人物が冷害でほとんど全滅に近い稲の中に、倒伏せず、たわわに結実した稲穂三本を発見し、この稲穂をもらい受け、これを基にして試験を始めたのだが、つい先日になってようやく満足できる品種に仕上がったばかりで、まだ誰にも言っていないばかりか、成功するかどうかも分からないために、試験をしていることさえ口外していないのだという。


では、高麿が見たという新聞記事とは何だったのか?


また、高麿から「正条植え」という栽培方法があるという話を聞いていたので、阿部なる人物にこのことを告げたところ、「初めて聞く話でございます」と言うではないか。


ふむ。


私も農作業の経験など無いゆえに、断定的なことは言えぬが、何かいろいろと解せぬ話が多いな。

いったい高麿はどういった経緯で今回の一連の情報を入手したのであろうか?

我が家の書庫に、そういった類の書物が有ったのだとはとても思えないのだが…


これはその内にでも確かめてみなければなるまいな。


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