【外伝】近衛篤麿 ㉖それは突然に…
1927年(昭和2年)2月
3年半前に発生した関東地震の爪痕は、京浜工業地帯を除けばようやく癒え、人々の活動も以前同様に活気を取り戻しつつあったのだが、凶事が発生した。
かねてより静養中であられた陛下が昨年末に崩御されたのだ。
ただちに摂政・皇太子殿下が践祚されて、新しい元号である「昭和」が始まった。
この元号は、いつもながら古代中国の四書五経の一つである「書経」の一節、「百姓昭明にして、万邦を協和す」から「昭」と「和」を抜き出して採用された。
意味は「すべての人々が賢くなれば皆が仲良くなれる」ということで、そのような世の中になって欲しいとの願いを込めたものだ。
本当にそう思う。争い、奪う獣のような世界はもうたくさんだ。
国際連盟を上手く活用して、平和な世の中を構築したいと心の底から思う。
それはともかく、今日も閣議にて様々な問題について大臣たちと話し合っている際に、思わぬ出来事があった。
原法務大臣が昨年の刑法犯についての報告を行い、新たな法整備の重要性について提案しておったのだが、その中で「大正時代における刑法犯の傾向について、私の思うところは…」と言い始めた時に、私は雷に撃たれたような衝撃を受けたのだ。
なに!?今、原大臣は何といった?「大正時代」と言ったな?
その言葉、聞いたことがあるではないか!それも遥か昔、30年以上前だ。
今から15年前に、大正の元号を初めて聞いた際に感じた違和感の正体が、今になって突然判明したのだ。
あの時「大正」という元号は、漢籍に詳しい学者の誰かが言っていたと思っていたのだが、実はそうでは無かったのだ。
あの日だ。35年ほど前のあの日。
家人から「高麿様の様子が少しおかしいです」と聞いたあの日。
「具合でも悪いのか?」と聞けばそうではなく、「今日は何日ですか?」と聞いたかと思えば「今はたいしょう時代ですか?」という意味不明な発言があったと聞いたのだ。
どうして今まで思い出さなかったのだ。
そうだ!高麿は既にあの時に、明治時代の次は大正時代だと知っていたのだ!
それは何故かと言えば…未来を見通す力をあの時に得たという証左ではないか。
きっと大正の次が昭和である事すら知っておったであろう。
………季節は真冬でもあるし、室内は決して暑くはないのに汗が止まらぬ。
恐る恐る国防大臣席に座る高麿を見やれば、熱心に書類を読んでおって、私の様子には気付いていないようであるな。
そうか!これまでの高麿の発言内容をよく吟味すれば、先々の事がよく見えておると感心していたのだが、そうでは無かったのだ。
こやつの頭の中には、あたかも線路のように正しき未来への道標が描かれているのだ。
だからこれまで高麿の提案に従った結果として、今の私がここに居るのだ。
そうだ。
だからあの関東を襲った強烈な地震も、発生する日時も場所も大きさも、全て前もって知っておったからこそ、事前の準備と対策が可能だったのだ。
人々が通常と同じ生活をしていたのであれば、間違いなく火災はあちこちで発生したであろうし、消火も間に合わなかったはずだ。
それに台風の影響で強い南風が吹いていたのだ。
もしかすれば未曽有の大火災となっておったやもしれぬし、その場合における東京や横浜の犠牲者はどれほどの数になっていたか見当もつかぬではないか!
いや!それだけでは無いぞ。
これまで私や私の家族のみならず、日本全体の針路にも深く関わってきたではないか。
その結果として…明治大帝の御裁可をいただき、日本は大陸と半島には進出しなかった。
日本の代わりに進出したイギリスは、後にハリマン問題を契機として英米関係の悪化を招き、危機感を抱いたイギリスの要望によって強固な日英同盟が維持されているし、露仏まで同盟国に加わった。
いやいや!それだけでは無いぞ。
ロシアはどうなのだ?高麿の提案に基づいて、明石大将へ皇帝一家救出作戦を指示したのだ。
あれが無ければロシア帝国は完全に滅びていたし、皇帝一家も虐殺されていたであろう。
そうなればソビエトが、あの邪教に支配された邪悪な集団がユーラシア大陸を押さえて力を付け、我が国に襲い掛かってきた可能性が極めて高いではないか!
ユダヤはどうなのだ?
あれもそうだ。
高麿の提案によって、現在の東パレスチナという国家が建設されたのだ。
もし高麿が提案しなければ絶対に建国されていなかった国であり、あの国の民はいまだに旧ロシア帝国領内にとどまっていて、ソビエトによって虐待されていた可能性すらあったではないか。
いやそれ以前に、ユダヤ人が巨額の債権を引き受けてくれたからこそ、ロシアとの戦争を遂行できたのであって、もしあの資金が無ければ…
「・・・・・という次第ですが、総理におかれては、この件に対する意見はございますかな?」
「…………」
「…総理?」
「…!あっ!いやすまぬ…気にしないで進めてくれ」
おっと、閣議中であったな。
皆が怪訝な表情で私を見ておる。
それにしても…むむむ…恐ろしい力を持っておる。
ではこれからはどうなのであろうか?
どういった方向に世界は進んでいくのか聞いてみたい!
いや本当にそのような力を持っておるのか、一度確認してみたいものだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そしてその機会は意外にも早くやってきた。
ある日、夜遅くに帰宅した高麿は珍しく酒を飲んで泥酔しておった。
こやつは普段飲酒の習慣が無い故に、少量の酒でも駄目らしい。
居間にてオリガに水を貰い、ぐったりした様子であったのだが、確認するのは今しかないと考えて思い切って聞いてみた。
「高麿よ。疲れているところ申し訳ないのだが、少し教えて欲しい。
昭和が始まったばかりだが、この元号は何年まで続くのだ?」
オリガは驚いた表情を見せたが、ここは気にせず押し通そう。
高麿は顔を上げて言った。
「…昭和は64年までっすねぁ」
極めて長く続くのだな!
ということは、今上陛下は長生きなさるのであろう!
「ほう…では昭和の次の元号は何時代になるのだ?」
「それは平成に決まっておるじゃありまへんか!」
ほう…へいせいというのか。
「その次の元号はどうなるのだ?」
「まあ…徳仁親王が産まれるのかどうかわからぬでっすが、たぶん令和でっす!」
れいわか…やはり、未来が見えておるのだな。
「この前のような大きな地震はこれからも頻繁に起こるのか?」
「はいい。日本は地震に恵まれた国でしゅからねえ…避けては通れませんっ!
特に大きいのが1995年の阪神淡路大震災と、2011年の東日本大震災っす」
その後すぐに高麿は寝入ってしまった。
ふと見れば、オリガが恐れるような表情で私を見ていることに気付いた。
そうか。オリガは高麿の能力を知っておるのだな。
夫婦だけの秘密とは…結構なことだ。
もっといろいろ聞かせて欲しいが、この様子では無理であろう。
諦めるか。
「オリガよ。この事は私の胸の内にしまっておく。
故に…良いな?」
「ありがとうございます。お義父様」
この様子では高麿も覚えてはおらぬだろうし、明日の朝は何事も無かったように振る舞えば済むな。
私はこれまで通り、何も知らないふりをした方が良いだろう。
そういえば近年積極的に買い増しを継続中の、アメリカ関連の株の値動きも気になるな。
このまま上がり続けるのか、それとも?
いや以前の高橋蔵相とのやり取りから想像するに、暴落する時が来るのだろう。
高麿が売りの話をした時が潮時とみてよいだろうが、果たしてあの国の経済はどうなるのであろうな?
それはそうとして凄まじい力を持っているが、高麿が凄いのは、その力を私利私欲の為に使っておる形跡が無いことで、そちらの方がむしろ驚きだ。
凡人ならば能力に目が眩んで、己の欲得を優先したり栄達に使おうとするだろう。
またその方が楽なはずだ。
にもかかわらず、自分の力は全て日本という国家に捧げようという心積もりのように見えるな。
ふむ。先々の事が見えていて、私心が無く、その特殊な能力を国のために使うのであれば、私よりも高麿がこの国の舵取りをした方が良いのではあるまいか?
私も長く総理をやりすぎたし、そろそろ若返りさせた方が良かろう。
機会を見て高麿とも相談してみよう。




