【外伝】近衛篤麿 ㉓日本の長い一日 後編
9月2日 午後 東京市麻布区
Side:市民同士の会話
凄い地震だったわ!何とか助かったみたいだけど、本当に死ぬかと思ったわよ。
運よく避難所にいたから命拾いしたけれど、もしも防災訓練が行われていなかったとしたら…
間違いなく言えるのは、子供たちが帰ってくる時間に合わせて昼ご飯を作っていたでしょうから、火事になったということでしょうね。
政府の指示通りに動いて正解だったのだけれど…家の中は酷い有り様だわ。
どこから片付けたら良いのやら…
気を取り直して後片付けをしていたら、近所の奥さんたちが応援のために来てくれた。
だけど、聞き捨てならない話をされたわ。
「ちょっと奥さん聞いた?
ウチの近所に片付けに来てくれてた軍人さんに聞いたんだけど、陸軍による反乱が起こったんだって!
首相と国防大臣に対する反抗が目的だったらしいけど、許せないわよね!?」
え?反乱が起きた?
「なんですって?
こんな大きな地震で家が潰れまくって大変な時に、軍隊が反乱を起こしたっていうの?」
別の奥さんも、違う話を聞いたらしいわ。
「さっき別の軍人さんに聞いた話だと、近衛首相親子の改革に反対した一部の将校さんたちが、今回の混乱を利用して反乱しようとしていたらしいわ。
でも全員捕まったみたいだけどね」
そんな…
「捕まったから、めでたしめでたしって、そんな話じゃないでしょう!?
軍人さんって、私たちを守るためにいるんでしょ!?
それが、こんな大変な時に、私たちをそっちのけにして反乱しようなんて馬鹿だわ!
他にも愚かな軍人がいるかもしれないじゃない!?」
「そうかもしれないわね…もし近衛さんがいなくなったら、また生活が苦しくなるのかしら?」
「!許せないわ!みんなで抗議に行くべきだわ!」
「ほんとそうよね!いったいどこの馬鹿なのよ!?私も抗議に行きたいわ!
隣近所にもこの話を広めなきゃ!」
国民がこんな状態なのに…許せない!
みんなで抗議に行くしかないわ。
子供たちもこんな状態じゃ家には置いていけないから、一緒に連れて行くしかないわね。
9月2日 夕刻 東京市麻布区六本木 歩兵第一連隊
Side:陸軍兵たちの会話
昨日は朝から散々な一日だった。
いきなり、連隊本部に憲兵たちが突入してきたと思ったら、一部の士官らを問答無用で連行していった。
なんでも、政府への反乱の疑いがあるらしいが、そんなの俺たちには関係の無い話だし、士官らが連行されていった後は予定通りに訓練に参加していたんだが、今度は突然の揺れに襲われて驚いた。
そこからは訓練では無く、実戦に移行していったわけだから配置の意味はあったのだとは思う。
揺れが収まった後は瓦礫の撤去やら、消火活動の手伝いやら、最後は避難所への食糧の配布作業までと、不眠不休で頑張ったよ。
ようやく交代人員の手配が付いたから、俺たちは連隊本部まで戻ってくることが出来たので、一息ついていたんだが……
うん??なんだか外が騒々しいな。
何があったんだと思いながら、外を見れば………入口に立っている歩哨たちが、民間人に吊るしあげられてるじゃないか!
なんだなんだ?借金取りか?…それにしては人数が多いが、何があった!?
そのうちに、多くの民間人が連隊の敷地内まで侵入してきた!
それもとんでもない人数で2000人、いやもっといるだろう。
しかも…子供連れの女性が半分近くいるんじゃないか?
慌てて士官たちが、兵を指揮して民衆を制しているが、とてもじゃないが制御できる人数じゃないし、男たちは全員が興奮していて、手が付けられない。
「我々が地震のせいで夜も寝られないっていうのに、お前たちは混乱に乗じて政府へ反乱を起こしたそうじゃないか!
いったい軍人は何を考えているんだ!」
…何で、それを知っているんだ?
どこから漏れた?
士官たちが必死に説明している。
「い、いや…その。全くの偶然で、誤解なんです」
その説明では火に油を注いでしまうんじゃ?
案の定、男たちが更に激昂した。
「「「何が偶然だ!恥を知りやがれ!!」」」
一部市民が叫んだ。
「構うことはない!こいつら全員を袋叩きにしちまえ!」
これを聞いた主席参謀が、土下座せんばかりの勢いで市民を制した。
「お、お待ちください!ただいま連隊幹部から説明させていただきますので、は、早まらないでください!
この通りです!」
“土下座せんばかりの勢い”という表現は…撤回だ。
参謀は、いきなり市民たちの前で、本当に土下座を始めた。
そうなると、俺たちだって、ただ突っ立って見ているだけというわけにもいかず、参謀に倣って土下座したんだが、後からやって来た連隊長以下、全ての将校と参謀も同じく土下座させられる羽目になった。
俺たちは下っ端だから良いけど、上の連中は…トホホだろうな。
9月2日 同夕刻 東京市神田区
Side:市民たちの会話
通りがかった見知らぬ人から、衝撃的な話を聞いてしまった。
近衛首相が襲われて、負傷したという内容だった。
これは…近所のやつにも知らせないといけない。
確かこの男は、普段から近衛首相を絶賛していたからな。
どんな反応をするやら。
「おい。聞いたか?近衛首相が襲われたらしいぞ」
「なんだって!?どういう話だ?」
「共産党員に襲われて怪我をしたらしいぞ。
一緒にいた首相の長男も重傷を負ったらしい」
「共産党の連中か!ドサクサに紛れて日本を混乱に落とそうとしていやがるんだな!?」
「それに違いない。
向こうにいる人が、奴らの潜伏先を知っていると言っていたぞ」
「こうなったら…弔い合戦だ!」
「よし分かった!もっと仲間を集めよう」
共産党員め、覚悟しろ。
9月2日 夜 首相官邸
Side:近衛篤麿
今回の陸軍による反乱未遂事件は、どこからか漏れて東京市民の知るところとなり、激昂した市民が六本木や赤坂の陸軍駐屯地へ多数押しかけて、反乱首謀者を引き渡せと騒いだらしい。
彼らの言い分としては、「大きな地震に襲われて混乱している内閣と政府の隙をついて反乱を起こすとは何事だ!恥を知れ!」などと叫んでいたそうだが、時系列的にそれは少し違うな。
だが特筆すべきことは、参加者には子供連れの女性が多くを占めていたという点だろう。
一体これはどうなっておるのか確かめたところ、私がこれまで行ってきた政策の支持者たちらしいと判明した。
うん。
これまで私がやって来たことは、無駄では無かったのだ。
庶民の間で、そこまで私の支持が高いものだとは気付かなかったが。
だが、無関係の一般市民を危険に晒すわけにはいかない。
何とか対応策を考えねばな。
9月3日 朝 首相官邸
Side:近衛篤麿
私は明石大将を呼んだ。
情報部門を掌握していて、裏の情報にも通じておるからな。
「今回の反乱を未然に防いだことと、暗殺未遂犯の摘発に際してのNTTと NHKの活躍は見事な物であった。
改めて感謝したい」
「当然の仕事をしたまでです。
それに、我々の近衛閣下への忠誠心は極めて高く、体制を揺るがす不穏分子の存在は認められません」
「…そうか。良いのか悪いのか悩ましいがな」
本当は我が家ではなく、国家へ忠誠を誓って貰いたいのだが。
「ところで…今日呼んだのは共産党についてだ。
あの集団の構成員はどれほどの数かな?」
「近年は閣下の施策が奏功して、脱退者が多いですが、まだ多数の信望者がいますし、幹部も20名以上確認されています。
またソビエトが送り込んだと思われる、ロシア系らしい人物も複数確認できておりますから、NHKによって常時監視中です」
ふむ。やはり。
「昨日の夕方に歩兵第一連隊をはじめとする、第一師団の拠点が市民に襲われたという話は聞いておるか?」
「もちろん存じております。
少し状況は誤って伝わっておるようですが、首相閣下に対する国民の支持が極めて高い故の現象であろうと思われます」
「明石大将もそう思うのか。
だが、市民を危険に晒すわけにはいかない。
今回は何とかしのげたが、万が一にでも逆上した軍が発砲でもしておれば、市民を対象にした虐殺事件へと発展し、皇軍にとって拭うことが出来ない汚点となったのだ。
今回は反乱に関係した軍への抗議行動だったが…共産党関係者による、私に対する暗殺未遂事件が表沙汰になったら、更に大きな騒動に発展するかもしれん」
「……既に一部の住民の間では情報が回っておるようですし、もっと一般に知れ渡れば歩兵第一連隊と同じような、いえ、もっと過激な市民の反応となって共産党関係者に襲いかかるでしょう。
…つまり、官憲ではなく日本国民が彼らを処断することになります」
「それはまずい。市民に被害が出たら大変だから、何とか市民の暴発を抑えるよう努力してもらいたい」
「…もしかすれば手遅れかもしれませんが…承知いたしました。
最善を尽くします」
「すまぬが頼む」
この機会を利用して、憲兵隊による一斉摘発を考えていたのだが、こうなってしまうと先が見通せぬ。
邪教が滅ぶのは喜ばしいが、下手をすると市民にも被害が出るだろうからな……
9月4日 夜 東京市内 某所
Side:コミンテルンたちの会話
残念な報告があった。
「難波議員の息子は捕まったらしい。発砲寸前で露見したとのことだ」
ちっ!あのドラ息子を利用した、近衛首相排除計画は失敗したのか。
だがまあ、他にも利用できそうな日本人は多数いるからな。
仕切り直して計画を練るとしよう。
「終わってしまったことは気にするな。
それより次はどうなっている?」
「次は、より首相に近い立場の者を利用しようと思う。
こちらのほうが成功の確率は高いだろう。
名前は西園寺公望の孫で…んん?…外が騒がしいな?」
確かにそうだな…いつもは静かなんだが。
なんだと思って外を見たら…
いつの間にか群衆に囲まれている!
なんなのだ!?
様子を見に行った同志が、慌てて戻ってきて言った。
「大変だ!周囲は全て囲まれていて逃げ場が無いぞ!
しかも近衛首相を襲った件がバレたらしい!
日本人は俺たちを襲うつもりだぞ!」
そしたら…リーダー格の男が慌てて言った。
「俺は逃げる!お前たちは俺を援護しろ!」
なんだって?全員で一斉に突っ込みを入れた。
「「「はあ!?」」」
この男は仲間を見捨てて逃げ出すなんて最低だな。
しかし、この群衆の雰囲気は確かに危険だ…
えっ!?ちょっと待て!ここに火を着けるのか!?
いかん!いかんぞ!!
9月4日 深夜 首相官邸
Side:近衛篤麿
NTTとNHK職員たちの努力も空しく、群衆によって邪教の拠点が襲撃されたとの一報が入ってきた。
共産党幹部の氏名はもちろん、彼らが拠点としていた複数個所の潜伏先もなぜか全て知れ渡り、こちらも大群衆に包囲されたという。
明石大将の努力は手遅れだったのだ。
群衆の中では「近衛総理が暗殺された」、「共産党員が井戸の中に毒を投げ込んだ」などの根拠のない流言蜚語が自然発生的に飛び交う事態となり、群衆による暴言に始まって投石、放火騒ぎへと拡大して、更には共産党員に対する暴行、虐殺へと発展した。
被害者の中には、多くの日本人幹部に加えて、コミンテルンと称されるソビエト共産党から派遣されたとみられる、複数の外国人が含まれていたらしい。
結果的には日本における邪教組織は壊滅し、日本の市民には損害が無かったそうだから、結果は良かったのかもしれぬが、なんとも後味の悪い結末だったな。
一方の反乱未遂事件を引き起こした陸軍に対しては、摂政の皇太子殿下から正式に勅勘を書面にて被る事態となった。
勅勘とは「天皇陛下の勅命によって勘当されること」を指し、我が国においては極めて重い処分であり、古においては、次第に蟄居閉門処分も科せられるようになった。
私の先祖である関白藤原忠実も、白河法皇の勅勘によって蟄居閉門のみならず、関白を罷免とされた事実もあるが、近年においては例を見ない。
今回は摂政殿下からではあるが、当然ながら陛下もご承認されての書面であるから、目に見える形での改革が必須となるだろう。
言うなれば、天皇陛下と摂政殿下による、軍部への不信任表明であり、宮中にて拝謁した際の摂政殿下のお怒りは、筆舌に尽くしがたいほど激しいものであった。
これもちょうどよい機会だ。
組織変更や関係者の処分だけでなく、軍部の規律を維持するためにも、しっかりとした後始末をせねばならんだろう。
ただでさえ軍人は強大な武力を行使する特権を持っておるのだ。
二度と反乱など起こさせてはいかんのだ。
それよりも先に復興だ。
被害が大きかったからな。何とか体制を立て直さねばな。
9月10日 東京市内某所
Side:北一輝と、井上日召の会話
「しかし、今回のクーデター失敗は痛かったな」
「そうですね。北さん。
良いところまでいっていたとは思うのですが」
「これで陸軍内での、我らへの賛同者は激減してしまったな。
どうやってここから盛り返そうか?」
「ご心配には及びません。
人間の数だけ不満があるものなのです。
遠からずして機会が巡ってくるでしょうから、当面は雌伏の時としましょう」
「そうだな。また時間をかけて手駒を増やしていくことにしよう。
ところで、今回の蜂起が露見したのは何故であろうな?」
「聞くところによれば、陸軍内にスパイが多数いるようです」
「政府のスパイ組織か?そんなものがあるとは寡聞にして知らんが、いつの間にそんな物が出来たんだ?」
「噂では、どうも首相か国防相の私的な組織らしいですが、実体がはっきりしません。
ですが、先週の共産党員虐殺にも絡んでいるそうですから、我らも油断できないでしょう。
共産党員の潜伏先を市民に漏らして暴動へと誘導したのは、首相への忠誠心過多のスパイたちらしいとの話でしたから…
それと…市民を煽って歩兵第一連隊などへ抗議に向かわせたのも、彼らの仕業であるとの噂があります。
そもそも、反乱未遂事件などという、軍内部の出来事が市民に知れ渡るのが速すぎるのです」
そうだ。それは私も疑問に思っていたのだが、そのような裏があるのか…
「…なんとも恐ろしい話だな…迂闊に動けば我々の動きまで察知されて、次は我らが襲われかねんか?
これは厄介だな」
どこにスパイが潜んでいるか知れたものではないということか?本当に厄介だ…
目の前のこいつも、どこまで信用して良いのやら。
これでは身動きが出来ない…




