白黒コンフュージョン
跡路市に住む高校生、まあ、僕こと四手統那は授業を終え、いつも通りに帰ろうと、大通りをのんきに歩いていた。
そのわずかな時間に、命を失いつつあるとも知らずに。
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突然、周囲から、人が消えた。
街道沿い、両脇に雑多な店が並ぶ、大通り。
決して人の絶えることのないここで、夕方にさしかかり帰宅をする人がそれなりに増えるのに、まるで人気がない。
そんな、命の見えない灰色の風景の中で僕は当然、
「え……」
と、そんな言葉しか出せなかった。
ゆっくりと、周囲を見回す。
やはり、大通りの片側、そしてそれと交差する路線の駅、その高架下で僕だけが、建物と樹木とそのほかの動かないもので埋め尽くされた世界に存在していた。
もちろん、訳が分からない。
「…………?」
しばらくして改めて、というか今更に、奇妙なことに気付いた。
僕の周りの物すべてが――地面、建物、街路樹、先ほどまで青の中に白を浮かべていた空に至るまですべてが――『色』を失っていた。
白黒の、無機質な、何も動かない世界。
もちろん、そんなものは、いつか、戦災にみまわれた場所の喩えでしか聞いたことがない世界だった。
そんなようにして呆然として、また遅れた発見をした。
「あれ……?」
僕は自分の違和感に気づいて、左手で目を片方、覆ってみた。
当然暗かった。
それがまるで、
当然のように、
真っ暗だった。
――だけれど。
何だ、これは。
僕は、なんだ。
とても、怖い。
「……誰か、」
そして、全く言語の通じない場所に飛ばされたみたいに困惑して他の存在を求める僕の前に、突然。
「お……? お前は……」
いつの間にか人影――これは色を失ってはいない、むしろ……――が現れていた。
そのとき、僕はあまりの非現実に呆気にとられていて、その事を認識したときには、十分に異物感を含んだそいつの接近を許してしまっていた。
逃げようと思えば逃げられたはずなのに。
その人影――体型からして男だろうと推測できる――は近づいてきてまじまじと僕の全身を見定めるように視線でねめまわし(僕には見られて悦ぶ趣味は無い)、大声を発した。
「おおおおおっ! お前、この中で動けるのか!?」
その稚気に満ちた喋り方をする声は飢えているみたいに枯れていて、渇いていた。
男はその渇きに反して二十代後半に見え、何故か上半身は裸だった。なんてワイルドだ。
また、下の格好から察するに、土木関係の仕事をしていそうに見える。ますますワイルドだった。
ただ、汚れたズボンだけがそうと、言えるだけで、他は、髪といい、肌の荒れようといい、手入れのまるで行き届いていない、野生児と言うにもあまりにお粗末な格好だった。
ただ、裸の上半身に骨張った部分は見られない。筋骨隆々とまではいかないが、漲っている何かは感じられる。
だけど僕にとって何より不思議だったのは、その格好ではなかった。
その男の周辺にだけ、灯りみたいな輝きを放つ、しかしどれだけ見ても眩しくない光……いや、少し違う――色、が見えた。
「黄……いや、狐色?」
遠目では放つ光みたいなものもあって、最初黄色だと思ったが、よく見れば、きつねうどんとかそばでよく見る、お揚げのそれだった。
男は僕の言葉に首を傾げたが、あまり気にしたようでもなく、自分の話を持ち出してきた。
僕の言葉なんて初めから聞いていない。
話すときに僕の目を見ていない。
こっちが男から視線を反らせないのにこの男は余裕でそれをやってのけた。
僕よりシャイ……な訳ではないのであろうということは当然分かる。
単に、この状況に対する緊張感の違いなのだと思った。
男は経験があり、僕は自分のことで手一杯だった。その違い。
そんな僕は情けないことに、
「んんーん〜? 何の事だ? ……まあいいよな、どうでも。……さて、あいつは撒けたみたいだな」
情けないことに、先程から打ち寄せてくる男の異様な雰囲気――見た目ではない黒さ、暗さ――に、ビビってしまって動けなかった。
男が周りに目を向けた。
いきなりだった。
さらなる怖気が僕を襲った。
何かこれからよくないことが起こる。
男が醸し出しているのは、そんな暗さだった。
僕が何も言わずにいると、不意に男が横に目を向けた――そこに、大通りを歩く人の姿が現れた。こちらも『独特』な色を、薄く光らせている。男ほど、強くは無い。淡い色だった。
おそらく、大多数の人と同じく駅へ向かうのだろうと、地元民の僕は非現実な光景の中で、真っ当な、間抜けな予想をしていた。
だから、男の行動は僕にとって、『予想外』だった。
『不可解』ではなかったが。
……それこそ不可解だったのだけれど。
「さーて、じっくり頂きますか」
そして男はその頭を掴み、
余りにも呆気なく無情に、
唐突に確実にゆっくりと、
手を根っこにするように、
栄養を吸うみたいにして、
その人の『色』を抜いた。
僕はそれを見てしまった。
何を、でも何が、でもなく、見た。
見たその時から、逃げることは許されなくなったのだろう。
「あ……」
思わず、そんな声が漏れていた。
ぎらり、と男の視線が僕に向けられた。
「う、う……」
「さて、その反応だと、どうやら殺さねえといけないようだな」
言うなり、男はその存在感――圧力を、こちらに向け、突進してきた。
その動きに、僕はその男が『人間と同じ人間』だとは、とても思えなかった。
「うわぁあああああ!」
今更な叫びを上げる僕。
本能的な恐怖からか、左手でブレザーの腹の辺りをひっつかんだが、それだけだった。
――最初は、そんなものだった。
「それじゃあ、イタダキマースっとぉ!」
そのまま、なにやら不気味な光を持った、黒を鈍く光らせる手で、恐らく何人もの人間を殺めてきたような、慣れた感覚で僕の胸を鋭く穿った。
「……ぅうっ! かはっ!」
左手で信じられない痛みの信号を送ってくる胸を痛みごと押さえつけて、僕は生にしがみつく。生を離すまいとしめつける。
だが実際には、それ以上のことは何も出来ず、ただ仰向け、苦しそうに呻いて倒れていただけだった。
その後、僕に多大な影響をもたらす『彼女』が現れたのは、まさにそんなとき、だった。
呆気ない様を見せている僕の目に、不思議な光景が飛び込んでくる。
それは僕の後ろ――今は倒れているので上と言うべきかもしれない――からこちらに向かって、見たことのない速さで走り、僕を通り過ぎてから、そのあり得ない速度を一歩で止めた。
そして、それを見た。
僕と同年代の少女だった。
ブレザーの制服に包まれた肢体は平均より高い僕をして十分に小柄、だが、そのものの持つ、意志、というか信念というか――正義というか――その強さが、迫力が、見た目の可憐さよりも先だって周囲に畏怖の念を抱かせる。
『普段』は後ろで束ねられているしなやかで漆塗りのように黒い艶のある髪は今、解かれて腰まで線を流し、その線を紅蓮と橙、双方の加減が炎の揺らめく様そのままにたゆたう。
まるで、闇を遍く照らし煌めく、本物の炎をそこにだけ切り取り、映し出したようだった。
もちろん、彼女はこんな不思議な色合いの髪では無い、はずだ。
まるで知らない人に見えた。
ろくに知りもしないくせに。
授業の始終ずっと結ばれている唇は走ったためか、少しだけ開き、その呼吸を助けている。
その口が、開かれた。
「許さない……!」
そこにいたのは、同じクラスの、前の席。
名前は、獅子島朱夏。