それは誤解から始まった
王太子妃の怒りは相当のものだった。襲われた場所が場所である。王家の沽券に関わる問題だ。
それにしても、ヴァレリーに労りの声を掛けて、卑劣な暴漢に憤慨しつつも、優雅な態度を崩さない王太子妃は流石だ。ヴァレリーは感心してマルガレーテを眺めていた。
「まさかそんな行動に出る人間がいるとは、王城も安心ではないと言うと同じ事。警備をもっと考えねばいけないわね」
眉根を寄せるマルガレーテに恐縮してしまう。それでと伝えないと。
「恐れ多くも妃殿下にお願いがございます」
「まあ、何かしら?貴女の縁談なら何人か候補があるから心配しなくても大丈夫よ。わたくしが選ぶのだから変な男は一才排除するから安心して。
ただ、貴女は結婚してもわたしの侍女を続けて貰う事には変わりないけれど」
「いえ、そういう事ではなく。わたくし、しばらく外回りの仕事から外していただきたく存じます」
「あらヴァレリーは仕事に不満があるのかしら?」
口元の笑みは変わらないまま、すっと目を細めるマルガレーテの恐ろしい事、ヴァレリーは内心ひぃと慄きながらも勇気を出した。
「いえ、妃殿下や仕事内容になんら不満はございません。侍女としてお側仕えする事も、女官として妃殿下の公務にお供する事も、この上ない喜びでございます。けれども……」
「けれども?なあに?」
「実は伯爵子息に絡まれた際に近くにいて助けようとしてくれた王城警備の兵士が、元婚約者だったのです。あの方はわたくしと気が付かず名前を尋ねられました。あの時は誤魔化して逃げましたが、何故あの場に現れたのかが気に掛かります」
ヴァレリーにだってプライドがある。お前なんか嫌いだと言われ避けられ続けた挙句、卒業式で婚約破棄を宣言された事を忘れてはいない。例え相手に気持ちが無くても、諦めて結婚する事を受け入れていたヴァレリーの誠意を踏み躙られたようで、多少なりとも傷ついているのである。
尤もヴァレリー自身は、傷ついた事を自分の心が認めていないので、ただただ面倒ごとに巻き込まれたくないという気持ちなのだった。
「もっと詳しく聞かせてもらえるかしら?
わたくし達の大切なヴァレリーを不快にさせる兵士は辺境に飛ばしてしまいましょうか」
「そんな大層な話でなくとも、あの方がわたくしの視界に入らなければ良いだけなのです。確か領地で再教育を受けていると父から聞いていたのに何故王都に、しかもこの王宮で警備の仕事についている事が引っかかるのです」
本当は良からぬ企みを秘めているのではないかと疑っているが、さすがにそこまでは言い切れない。しかしあの帽子の奥に光った目、そこには確かに何かを熱望するものがあったように見えた。
「まあ……それは不安になるわ。まさか復讐でも考えているのではと疑うのは当然の事よ。貴女は大層嫌な思いをしたのに、逆恨みも良いところだわ!不要なモノはさっさと捨てましょう。早速、王城警備部隊長を呼び出して話をつけましょう」
「いえ、あの方は顔を合わせなければどうでも良いのですが、関係あるかどうか別としてこのような噂がございます。
学院を引っ掻きまわした例の平民の娘ルルーシュが王都に戻ってきているという噂があるのです。王宮図書館に赴いた時に小耳に挟みました。
もし、彼女が何らかの意図をもって隔離施設から抜け出して王都に戻ってきているとして、同時期にアレンビー伯爵子息が王城警備の任についている事に何らかの関連があるのではないか?と、つい穿った見方をしてしまいました」
ヴァレリーは頭を下げ王太子妃の言葉を待つ。
「それが貴女の仕事とどう結びつくのかしら?」
「ルルーシュ嬢が何か良からぬ事を考えているとして、護衛の数を増やすと途端に警戒されてしまいます。護衛術の心得のあるわたくしが、妃殿下から離れる事なくお側にいたいと願っております。
本当に噂ですし何事もなければそれで良いのですから、しばらくは妃殿下のお側から離れることを避けたいのでございます」
*
一方思わぬ再会をしたウィリアムは、その相手が元婚約者のヴァレリーだとすぐに気がついた。ずっとずっと大好きで、しかしそれを彼女に告げる事は叶わなくて、ただの虫除けとして名目上の婚約者にされてしまった自分に、貴女を今も愛していると言つ権利も勇気も無い。
美しく凛とした人になっていた。いや、元々あの人は俺なんか足元にも及ばない人で、ただあの人の婚約者がこんな俺で良いのかと、あの頃は浮かれまくっていたんだよなあ……。
ウィリアムは装備を解いてあてがわれた自室のベッドに寝転で、肌着の隠しに潜ませた一枚の紙を取り出した。それはまだ少女の、弾けるような笑顔の絵姿だ。
裏に残る文字は、何度も何度も繰り返し取り出して見ている経年の劣化のせいか薄れているが、まだ読み取る事が出来る。
『ウィリアム様へ ヴァレリー』
ウィリアムはその文字をそっと指でなぞる。
相変わらずメガネでその美貌を隠そうとしていたけど、全然隠れていなかったな。それにあの男、どこぞの伯爵子息だったか、あいつはいったい何をヴァルの何を見てたんだ?不細工だとか貶していたよなあ、馬鹿な男だ。
いや、馬鹿な男は俺だ。
ため息とともに、我が身を切り刻まれるように苦しく辛かったあの卒業式までの日々を思い返した。身体中を虫が這いずり回るような不快感で吐きそうになる。
父から告げられた言葉。ヴァレリーを守るために婚約者になれと。但し本気にはならないように、お前が不幸になるだけだと。
どうして俺は……いや、どうして俺だったんだ!
ポロック伯爵の周辺には利用できそうな子どもは他にも居た筈。なのにどうして俺が。
こんな出会いでなければ、きちんとヴァレリーに想いを告げる事だって出来た。その結果振られても後悔はない。ただ、不機嫌で不誠実な元婚約者と思われている実情が、悔しかった。
気がつくと頬を伝う熱いものがウィリアムの手元を濡らしている。はっとして手に持つ絵姿を肌着の隠しにしまった。
俺の命は貴女に捧げる。貴女を守る、必ず。
ウィリアムは目を閉じてベッドに横たわった。泣いている場合ではない。今は来るべき時に備えて少しでも身体を鍛え剣技を磨き、そして必ず彼女を守る、その為に俺はあの日彼女に別れを告げたのだから。
お読みいただきありがとうございます。
ウィリアム側の隠された事情みたいなものが、おいおいわかってきますが、ちょっとヘタレで情けなくてそれでもヴァレリーが好きな男です。