婚約破棄は時と場所を選ぶべし
ポロック伯爵家の次女ヴァレリーは王立学院を卒業すると結婚式を待つばかりであったのだが、その卒業式の日に婚約者から「好きな人が出来たから婚約を破棄する」と告げられた。
頭の中が真っ白になりどう答えて良いかわからず立ち尽くすヴァレリーを正気に戻したのは、同級生の公爵令嬢の言葉だった。
「恥を知りなさい!卒業という善き日にそのような言葉で水を差すとは一体どういう了見ですの?そういう内輪の揉め事はお身内だけでなさい」
「も、申し訳ございませんっ!オルグレン公爵令嬢様。この件に関しましては、父とアレンビー伯爵家とで話し合いをいたします。皆様お騒がせして申し訳ございませんでした」
ヴァレリーは頭を下げ一礼すると、まだ婚約者のウィリアム・アレンビー伯爵子息を引っ張るようにして、その場を立ち去った。その後両家の親を交えて話し合いが行われ、彼女の婚約は相手方の有責による解消という形で落ち着いたのだが、ヴァレリーは戸惑っていた。婚約と結婚が無くなった事が悲しいわけではなく、寧ろ全くダメージを受けていない自分に呆れるしかなかった。
確かに婚約者であったけれど交流も少なく、話した回数もいわゆるデートの回数も両手の指で数えても余るほど。プレゼントだって花束やお菓子といった消え物が多くアクセサリーは無い。
王立学院に入学してからは、誕生日にとりあえずドレスが贈られたが、多分伯爵夫人が選んだものであろう、ウィリアムの瞳の色を思い切り意識した青いドレスばかりで、そもそも燃えるような緋色の髪のヴァレリーには全く似合わなかった。それに着て行く場所も無かったのでそれらは箱に入ったまま忘れ去られてしまった。
そんな相手に対して好きという感情は無かったが、親が決めた婚約に逆らうほどの気概もない。粛々と受け入れるつもりでいたのに、何という事だろうか。
婚約破棄なんて場所と時間を選んでくれれば、どうでも良かった。よりによって卒業式という一生に一度の晴れ舞台にケチをつけられた事が悔しかった。
というのもヴァレリーはこの日、成績優秀者として表彰されることになっていたのだ。
それなのに、婚約者の場を弁えぬ暴言のせいで、王太子殿下の婚約者である公爵令嬢に睨まれ、いたたまれなくなってその場を立ち去ってしまった事を悔やんでいた。せめて表彰が終わってから婚約破棄でも何でもすれば良かったのに、と。
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「本当にあの時の貴女の顔色は酷かったわね」
優雅にお茶を飲んでいるのは王太子妃のマルガレーテだ。
そう、卒業式で婚約破棄を叫んだヴァレリーの元婚約者に、苦言を呈した令嬢である。彼女は卒業後王太子と結婚して王太子妃となった。
現在第二子を妊娠中であるが、その優雅で気高い様子は学院在学時となんら変わらない。寧ろ母になってからは表情に柔らかさが加わり、さらに美しさに磨きがかかったと専らの評判である。
王太子は自分の妃に仕事のパートナーとしての有能さを求めていた。恋愛感情は冷める事があるかもしれないが、国を守り支えるという志を同じくする仲間として一生添い遂げたいと望める相手を求めていたのである。自他共に厳しく公正で、強く正しくそして美しいマルガレーテ妃はまさに適任と言えた。
学院在学中から王太子カップルの仲は盤石であったが、それにも関わらず近寄ってくる、勘違いした下位貴族令嬢やいかれた平民の娘などがいたが、自らの立場と使命を正しく認識している王太子には、平民娘の怪しい魅了などは一切効果がなかった。
ところが、その胡散臭く怪しい魅了に引っかかってしまったのがヴァレリーの元婚約者であったり、高位貴族の子息達だった。
彼らは何不自由なく暮らしてきたボンボン育ちで、平民娘の物珍しい振る舞いに免疫がなかった。平民娘の飾らない言動が自然体で魅力的にも見えたのである。それはマナーも躾もなっておらず、多少の下品さを伴う言動だったのだが、間抜けな貴族令息達はそれすら可愛いと思ってしまった。
玉の輿に乗りたい平民娘は、小賢しい手練手管を使って高位貴族令息達に近づいた。その上、ペンダントやクッキーといった小物を使ってターゲットに緩い魅了を掛けていたのだが、素直で愚かな令息達はそれを真実の愛と勘違いしてしまったのである。
しかし平民娘の魅了は大変弱いものだったので、落ちるのも早かったが、醒めるのも早かった。
令息達は婚約者に婚約破棄を告げることはなかったし、婚約者の令嬢達は相手のちょっとした浮気心を、宝石やドレスという形で反省させたのだった。
ともあれ、学院内に混乱を齎したという事で、平民娘は強制的に退学させられた。誰もが魅了の後遺症など欠片も残っていない中で、ただ1人ヴァレリーの婚約者ウィリアム・アレンビーだけが、呪いのように魅力から醒めなかったのである。
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「その節はお見苦しい姿を晒してしまいました。妃殿下のお言葉がなければ、卒業式が台無しになるところでございました」
カップに新しいお茶を注ぎながらヴァレリーは答えた。
「でも貴女という優秀な女性を侍女に出来たのは、あの人たちのおかげだから。そういう意味では感謝しているの」
良い香りね、と満足げな王太子妃に恭しく頭を下げる。
婚約解消後、領地に引きこもっていたヴァレリーだったが、王太子とその妃殿下の熱心な誘いで、王太子妃付き侍女として王宮に上がることになってた。それから3年、侍女としての仕事の傍ら勉強を続けて女官採用試験に合格したヴァレリーは、王太子妃付き侍女と女官を兼任しており、その右腕と言っても過言ではない存在となっている。
「妃殿下に拾い上げられていなければ、今ごろわたくしはどこかの貴族の後妻か、或いは領地で行き遅れとして肩身狭く過ごしていた事でしょう。わたくしに居場所を作ってくださった妃殿下には感謝してもしきれません」
ヴァレリーの言葉にマルガレーテは満足げに頷いた。
2人は王立学院での同級生とはいえ全く接点が無く、口をきいたのも実はあの叱責が初めての事だった。
ダサいメガネに長い前髪で目元を隠して、夜会にも滅多に出てこないガリ勉、というのが大方の人の認知するヴァレリー像だ。王太子の婚約者で尚且つ公爵令嬢というヒエラルキーの頂点に立つマルガレーテとの接点がある筈もなかった。
しかしマルガレーテの方は、この一見野暮ったい娘が秘めたポテンシャルを見出しており、どうにかして王宮内部に引っ張り込めないか思案していたので、あの卒業式での婚約破棄宣言は予想外とは言えチャンスだった。そしてその好機を逃さないのがマルガレーテの手腕であり、王太子から信頼を寄せられる所以でもある。
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ヴァレリーの実家ポロック伯爵家というのは目立つところの無い欲の無い平凡な一族だが、その治める領地は豊かで実は資産家でもある。
真面目で堅実な父としっかり者の母と、優しい兄と姉に囲まれて、伸び伸びと育ったヴァレリーである。
彼女は勉強が好きでお洒落や化粧といった事に無頓着というか横着だったので、父に勧められるままに度の入っていない伊達メガネをかけ、前髪を長く伸ばして目元を隠していた。
それゆえ学院の同級生はヴァレリーの素顔がとんでもない美少女だという事を知らなかった。知られていたら、平穏で勉強三昧の学院生活は送れなかったかもしれない。
あまりに可愛いヴァレリーを、人攫いや立場をわきまえない輩から守るために、メガネと前髪で偽装させる事を思いついたのは父だが、自分の容姿に無頓着なヴァレリーはそれを素直に受け入れた。
悪い虫がつかない様にと、気心の知れたアレンビー伯爵家の嫡男と婚約させたのは13歳の時だが、既に勉強にしか興味のないヴァレリーと、思春期に差し掛かって格好をつけたいウィリアムは出会って早々にすれ違ってしまった。
流石に婚約の際にも偽装は失礼だろうと、家族以外に素顔を晒したヴァレリーの、美少女っぷりに圧倒されて喋れないウィリアムだったが、顔を赤くしてアレンビー家の庭を案内する事になった。折から満開の薔薇を自慢しようとしたところ、情緒面に疎いヴァレリーが薔薇の品種改良について滔々と一説かました後で、ウィリアム様はアレンビー家の薔薇園の品種改良についてどのようにお考えですか?と質問を投げかけたのである。
それはその後も続き、悪気なく小難しい学問の質問を投げかけたりするヴァレリーにウィリアムは恐怖を抱いた。
「お前みたいなガリ勉女、どれだけ顔が綺麗でも絶対嫌だ!お前なんか大嫌いだっ!」
そう叫ぶと走り去ったウィリアムの後ろ姿をヴァレリーは呆然と眺めていたが、そもそも婚約者の必要を感じていなかったし、解消になるかしら?そうしたらこのまま勉学の道に進んでいきましょうと、のんびり考えていた。
しかし残念な事に婚約は解消にはならなかった。ついに迎えた王立学院の卒業式で、ウィリアムがやらかしてしまうまで。
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今や王太子妃の信頼篤い女官としての地位を築いているヴァレリーには21歳になった今も婚約者がいない。それゆえ結婚の申し込みがぼちぼちと舞い込んでくる。
前髪を垂らすのはさすがにやめていたが、ひっつめ髪に纏めて相変わらずメガネ姿のヴァレリーである。
真の姿を隠す原因を作ったポロック伯爵は、あの婚約解消以来良縁に恵まれないのは自分のせいだと、しょげかえっていたので、ヴァレリーは両親を安心させるためにいくつか見合いをした。
しかし見合いの席でもメガネ姿に地味な服装でパッとしないヴァレリーは相手から断られた。そして逆に、彼女の立場を利用して王太子夫妻に近付く事を望む輩はお断りしたため、未だ婚約者がいないヴァレリーなのであった。
本人は尊敬できる上司夫妻に仕える我が身を幸せ者だと喜び、両親には悪いけど伯爵家には可愛い甥っ子の後継がいるし、嫁いだお姉様にも外孫がいるのだから、わたくしは独身でも構わないわよね、などと能天気に考えていた。
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