3.透明少女
ジャックパーセルって滑るんですよ。
ゴールデンウイークは引っ越し作業で慌ただしく終わってしまった。明日から新しい高校生活なんて信じられない。僕の休みを返してほしい。
前の学校ではHRに僕の転校が告げられ、ただ定型文の挨拶を言って終わった。
「絶対連絡しろよな!」「夏休みは遊びに行くから!」なんて誰も言ってこない。
そりゃそうだ、2年間最低限のコミュニケーションしかしてこなかったんだから。
もう少し、学校に馴染むという努力をすべきだったかなと後悔しても遅い。
「…しんどいな」
重なった段ボールを開けると大量のCDが入っている。今はサブスクリプションが主流だけれど、やはり円盤を持っていたいと思うのは僕がオタク気質だからだろう。
ベッドと机、持ってきた音楽機材を全部部屋に入れてもまだスペース的にも余裕があった。田舎の部屋、広すぎんだろ。これならマーシャルのスタックアンプを買っても余裕じゃないか。それならいっそのことキャビはオレンジにしようかな。フェンダーのツインリバーブもいいな。色々な妄想が膨らむ。まぁ、そんな高いものいつ買えるかは分からないけれど。
荷解きに飽きてしまった僕は、昼食の腹ごなしに少し散歩をすることにした。
最後にここに来たのは10年も前だから、風景だって少しは変わって…いなかった。ごめん、田舎舐めてたわ。何も変わってない。周りを見渡しても山と田畑、申し訳程度に点々と民家が建っているくらいだ。コンビニなんて以ての外、バス停の横にマイナーな飲料会社の自販機が佇んでいるだけ。
記憶が確かなら、少し歩いた山の上に展望台のある公園があったはずだ。大人の足なら20分くらいで着くだろう。気分転換にはちょうどいい距離だと思う。正式名称は知らないが、魚のモニュメントがあるから「おさかな公園」ってみんな呼んでいた気がする。
どこのメーカーかもよく分からないスポーツドリンクを買った僕は、引っ越し作業で硬くなった筋肉をほぐすように伸びをしてから、おさかな公園へ向かった。
山の中をどんどん進んでいくにつれ、緑が濃くなっていく。
人並みな感想しか言えないけれど、頬を撫でる風が気持ちいい。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで吐き出すと、心に刺さった棘が少し抜けていくような気がした。
整備されている道だから、カートコバーンに憧れて買ったジャックパーセルでも全然問題なかった。このスニーカー、クッション性もなければ底もツルツルでグリップ力もないので、雨の日はよく転びそうになったものだ。
水分補給のため一息ついて足を止めると、どこからかアコースティックギターの音と歌声が聞こえてくる。
その瞬間、自分の心拍数が上がるのが分かった。僕はこの曲を知っている。僕がこの曲が好きだと言っても、誰しも首を傾げるだけだった。
Femme Fatale / The Velvet Underground
それを、しかもこんな田舎で弾き語る人がいるなんて信じられない。その上、歌っているのは女の人だ。遠くにいてもはっきりと聞こえる綺麗な歌声。僕は思わず駆け出していた。
息が上がる。音がどんどん近づいてくる。その歌声の倍音に鳥肌が立つ。そこにいるのは間違いなく天才だろう。
開けた視界の先、街を見下ろす展望台。そのベンチにギターを抱えた美少女が座っていた。
年齢は僕と同じくらいだろうか。透き通るような白い肌に小さな顔、少し吊り上がった大きな目はどことなく猫っぽさを感じさせる。少し赤みがかった髪が初夏の風に揺れて、太陽を反射してキラキラと光っていた。
滅多に人が来ない公園、そこには彼女だけの世界があった。誰のためでもなく、自分だけのために歌う姿はそれだけでひとつの作品だった。6本の弦はビリビリと死んだ木を震わせ、彼女の唇から紡ぎだされる歌声は、周りの空気を桃色に染めては溶けていくようだった。
思わず足を止めると、砂利を踏んだ音が大きく響いた。異音と共に演奏が止まる。まるで綺麗なものを汚してしまったような罪悪感が僕を包んだ。
突然の侵入者の驚いたのか、見られたことが恥ずかしいのか、彼女は少し戸惑ったような表情をしながらじっとこちらを見つめてくる。
「見かけない顔ね、あんたどこ中?」
そう言うと、彼女は取り繕うように嘘っぽく笑った。
とりあえずここまで。