(33)
スマートフォンのスピーカーから流れるコール音がティーナの鼓膜を震わす。
ガエターノの電話番号は知っていたが、一度としてそこに電話をかけたことなどないし、逆にかかってきたこともない。
アントーニオの穏健ならざる勢いに押されてガエターノの番号にコールをかけたものの、ここから先、どうすればいいのかティーナはわからなかった。
アントーニオに逆らえないわけはないはずだったし、そもそもティーナにはアントーニオに従う理由もない。しかし、ティーナはそうはできなかった。
心の中にある引っかかり。アントーニオを裏切っていたという事実。それが、ティーナからアントーニオに抗う言葉を奪う。
響き渡るコール音。ガエターノはなかなか電話に出ない。隣に座るアントーニオがイラ立ちを募らせていくのがわかり、ティーナの心にあせりが生まれる。
『レオナ?』
ようやく繋がったかと思えば、応答したのはまぎれもなくレオンツィオの声で、ティーナはますます混乱した。
なぜ、どうして。そんな言葉がティーナの脳裏を駆けめぐるものの、口からは出てこない。当惑はそのままティーナの言語中枢に作用しているようだった。
レオンツィオが電話口に出てきたことで困惑するティーナの様子をどう取ったのか、アントーニオがその脇を小突く。ティーナはびくりと肩を揺らしたあと、どうにかこうにか言葉を吐き出す。
「……ガエターノは?」
『ああ、今はちょっと出られそうにないから。代わりに私が。それよりもレオナから連絡するだなんて、どうかしたのかい?』
「えっと……話したいことがあって。今から屋敷に行ってもいいですか?」
『電話では話せないこと?』
「……ガエターノにちゃんと話したいんです。できれば今日中に」
『……わかった。迎えは――』
「大丈夫です」
『場所はわかる?』
「はい……」
『それじゃあちゃんと伝えておくから。屋敷のほうで待っているね』
「はい……。それじゃあ」
通話が終わり、ティーナはそっと息を吐く。スマートフォンを持つ手のひらは、汗をかいて少ししっとりとしていた。
「なんでガエターノの屋敷に行くなんて言ったんだ?」
アントーニオは面倒なことになったとでも言いたげな顔をしている。彼の予定ではティーナの口から直接アントーニオとの結婚の約束を、ガエターノから取り付けるところを見るつもりだったのだろう。
アントーニオは疑り深いところがある。けれども一方で己の力を過信しすぎるところもあった。ティーナはそんなアントーニオの性質をよく知っていた。
「今日中に言ったほうがいいかなって、思ったんだけど……」
「……たしかに、なにごとも早いに越したことはないが。……チッ。ガエターノが電話に出ないとはな」
己の計画が狂わされたからなのか、アントーニオはイラ立ちを募らせているようだ。ティーナはそんなアントーニオを注意深く観察しながら、切り出す。
「それじゃあ、わたしは屋敷に行かなくちゃならないから――」
「俺もついて行く」
「――え?」
「なんだ? なにか都合でも悪いか? ……もちろん屋敷には入るつもりはないが。俺の車で屋敷まで送って行ってやるよ」
「……ああ、うん。ありがとう……」
ティーナはまた背中に冷や汗が浮かぶような思いをする。
ガエターノの屋敷へ行くと言った以上、行かない選択肢はない。それでティーナはアントーニオがひとまず引き下がると思っていたのだが、その思惑は外れてしまった。
ティーナはまたどうすればいいのかわからなくなった。迷子になった幼子は、こんな気持ちになるのかもしれない。そんなどうでもいいことを考えることで、ティーナは心を落ち着けようとする。
しかし戸惑いの目を向けるティーナを嘲笑うように、アントーニオは追い打ちをかける。
「屋敷に入る前にスマホは通話繋ぎっぱなしにしとけよ。きちんと聞いておきたいからな」
アントーニオは的確にティーナの逃げ道を塞いでくる。ティーナは頭の中が真っ白になりそうになる。「どうすればいいのかわからない」。そんな建設的ではない言葉ばかりが浮かんでくる。
ティーナが混乱しているのをしり目に、アントーニオは手早く連絡先の交換を済ませて、ティーナにスマートフォンを返す。
「それじゃ、行くか」
アントーニオは人好きのする笑みを浮かべて、乱暴な手つきでティーナの手首を取った。ティーナはアントーニオの手を振り払うことができなかった。そうすれば、またアントーニオを裏切ることになるのではないかという恐怖が、ティーナの精神を蝕む。
どこかで、「律儀にアントーニオの言う通りにする必要があるのか」と問う声が、ティーナの脳裏をよぎる。けれどもティーナの体は固まってしまって動かない。
わからなかった。なにもかもがわからない。己はどうすればいいのか、どうすべきなのか――。
うつむいたままのティーナをアントーニオは引っ張って車へ向かう。アントーニオの歩幅に合わせて、ティーナは小走りになる。
助けを求める言葉が、脳裏に響く。
浮かんだのはレオンツィオの顔だった。




