(17)
「ボルディーガを知っている?」
「それは……まあ」
ティーナはジルドの問いかけにどう答えるべきか悩んだ。思い返してみればティーナがレオンツィオについて知っていることなんてほとんどないような気がしたのだ。
あの穏やかな日々を共有していたレオンツィオは、ほとんど幻だった。好きな音楽も、好きな小説も、好きな映画もティーナは知っていた。フルーツの砂糖漬けが好きだとか、そういうささいなことをティーナは知っていた。
けれどもそれのいくつが真実なのだろう? すべてがまやかしであったとしても、ティーナは納得してしまうだろう。
しかしそれは理屈での話で、もしそうだとすればティーナの心はまた勝手に傷つくに違いなかった。
「ボルディーガはクズだよ。筋金入りのヤクザものだ」
「知ってる」――ティーナはそう言いそうになったが、口をつぐんだ。
ジルドの言葉を遮りたくなかった。けれども彼の言ったことを肯定すると、ティーナの知っているレオンツィオがまた一段と薄くなってしまいそうな気がして、怖かった。
その怯えが無意味だということは、知っている。レオンツィオが心底外道であることは、動かしようのない事実なのだから。今さら怖がるのはおかしい話だった。
レオンツィオとの鮮やかな日々はすべて幻だったのだ。ティーナはそう己に言い聞かせる。
「幼馴染は――フェリーチャは身売りせざるを得なかった。親がロクでなしだったから。でも僕はしばらく故郷を離れていたからそんなことには気づかなかった。それで、まあ、いわゆる『立ちんぼ』をしていたわけなんだけど、もちろん、そういう世界にもルールはあって、縄張りもあって……それで、それで……だから」
ジルドは幼馴染だと言うフェリーチャの姿でも思い出しているのか、先ほどまではよどみなく答えていた言葉が段々と詰まって行く。
「……それで、まあ、わざわざきみにどうなったか言うのは野暮かもしれないけど――うん。……フェリーチャはある日いなくなって、そこで僕はフェリーチャが今どういう状況にいるのか知ったってわけ。親しかった僕と駆け落ちでもしたのかと誤解されたってわけさ。実際は違ったんだけど……それで僕はフェリーチャの足取りを追った……」
ジルドはずっとうつむいたままだ。ところどころカラ元気を発揮して、明るい口調で告げるが、次の瞬間には暗くなる。情緒不安定な言葉が続いて行く。
ジルドはまだ受け入れられていないのだ。ティーナが未だ悩み続けているように、振り子が揺れるように、感情が揺れ動かざるを得ない。
「……人に言えないようなこともしてやっと見つけた。フェリーチャは……生きていた。けど、死んでたほうがマシだったかもしれない。ドラッグの影響なのかな? 肌がこう……ね。とても僕と同じ年には見えなかった。歯も全部なかったし。一瞬、彼女がフェリーチャだと言われても僕はわからなかった。というか、わかりたくなかったんだね」
ジルドが語る悲劇は、残念ながら「特別な」悲劇ではない。裏社会に身を置いていた前世のティーナは何度も、何人も、そういう「特別じゃない」悲劇を見てきた。だから特段ジルドの口ぶりに心が動かされることはなかった。
「――その元締めがさ、レオンツィオ・ボルディーガだったってわけ」
「……それじゃあ、彼のところへ行くつもりなんですか?」
「……そうさ」
「やめておいたほうがいいですよ」
ティーナの言葉は同情心やそういった類いの感情から出たものではなかった。単純にジルドのそれは自殺行為でしかなく、無謀で見苦しい行いだと思った。だからこそ、そう言って止めたのだ。
けれどもジルドがそんなティーナの言葉であきらめるとも思わなかった。しかし彼から出てきた言葉は、ティーナにとっては意外なものだった。
「僕もそう思う」
ジルドが顔を上げた。けれどもティーナは見なかった。展望台に集まっていた観光客の姿は少なくなって、藍色の夜空が迫る中、入れ替わりにお熱い恋人たちのデート場になっている。
身を寄せ合う若い男女を見て、ジルドがなにを思っているのか、ティーナにはわかりすぎた。
彼ら彼女らの現実は、ジルドのあったかもしれない未来だ。けれどそれはあくまで「あったかもしれない未来」であり、もはや「永遠にこない未来」であることは明らかだった。
「けど、やめてしまったらたぶん僕はもう生きてはいけない」
「……無駄な義務感です。彼女の人生は、あなたの人生じゃない」
「そうやって割り切れたらよかったんだけどね。ままならないのもまた、人生なんじゃないかな。少なくとも僕はそう思ってる」
「それならなりふり構っている暇はないんじゃないですか? あなたはまだ迷っている。それならやめるべきです」
たとえジルドがレオンツィオへの復讐に成功したとしても、そこから先の未来はない。ファミリーはひどく傷つけられた名誉を回復するためにジルドへ苛烈な報復に打って出るだろう。それはジルドもわかっているはずだ。
けれどもそんな未来をジルドは見ていないようだった。
彼が求めているのは復讐ではない。死地だ。
ティーナはもどかしさとイラ立ちを覚えた。ジルドはカタギの人間だ。それがわざわざ身をやつすような真似をしようとしているどころか、その身を投げ打とうとしている。それはもはや蛮行と言っても差し支えない。
生まれ場所はだれも選べはしない。前世のティーナは好きこのんで裏社会の人間をやっていたわけではない。そこでしか生きることができなかったから、仕方なくそうしていた。
ジルドは接点のなかった裏社会の一端に触れて、狂ってしまった。毒に触れたのと同じだった。けれども――まだ、戻れる。だからティーナは「やめるべきだ」とハッキリと言ったのだ。
けれどもジルドの心は動かない。
「ありがとう」
「お礼を言われたくて言ったわけじゃないです。やめる気がないのならお礼なんて言わないでください」
「それはわざと? 余計にきみを人質にするとか、そういうことはできないなあって思っちゃうよ」
ジルドがはにかむ。しかしその瞳孔は暗闇に沈む奈落のように先が見えない。
「きみは優しいね」
「それは違います。ただ、無駄死にしようとしているのが見苦しくて見ていられないだけで」
「そう思ってもかかわりあいにならない人間のほうが多いよ。そしてそれは賢い選択だ。ああ、きみが馬鹿だと言っているんじゃない。きみは優しさとは違うと思っているようだけれど、そういうのも僕はある種の『優しさ』だと思ってるって話だよ」
話はどこまでも平行線をたどる。
そしてティーナは不意に気づいてしまった。
今、ティーナと話しているのは、死人なのだと。もはやそこにはジルドの魂など存在していないのだと。
だから――ジルドにはティーナの言葉は届かないのだと。
その後、姿を消したジルドの行方をティーナが知ったのは四日後のことだった。その知らせをくれたのは、ほかでもないレオンツィオだった。