(15)
どういったやり取りがあって、今ここにアルチーデがいるのかティーナは知らない。
アルチーデはいつも通りの洒落者だったが、今日はなんだかそれが鼻につかない。まるで憑き物が落ちたかのような……これがアルチーデの自然体なのかもしれないとティーナは思った。
レオンツィオの言った通りならば、アルチーデの心はひとりの女性に奪われたままなのだろう。となればティーナを口説くのは甚だ不本意であったはずだ。それはアルチーデからすれば苦役にも等しいだろう。
「ボスに言って候補からは外してもらったよ」
耳触りのいいテノール。そう告げると同時にアルチーデは大げさに肩をすくめた。
アルチーデはティーナのプライドを守ろうとしているのかもしれない。芝居がかった態度は、そういうことなのかもしれないとティーナは考えた。そんな芝居はティーナには必要ないのだが、アルチーデは知らないのだろうから仕方がない。
「それは残念です」
ティーナは心にもないことを言う。いや、実のところちょっとくらいは残念だと思った。本当に、ほんのちょっと、毛の先ほどでだけの考えであったが。
直属の部下がやらかしたのだ。上役であるアルチーデが責任を取る形となるのは、致し方ないことだろう。無能な部下を持つと上司は大変だなとティーナは他人事で思った。
アルチーデは夫候補たちの中では無難な選択肢だとティーナは考えていたから、そういう点では心底残念であった。
「そう思ってくれていたのなら、嬉しいよ。――たとえ上辺だけの言葉でもね」
アルチーデの美しい青の瞳がキラリと閃いたような気がした。ティーナは少しだけ心臓を跳ねさせる。
しかし上辺だけの言葉と看破されたとしても、なにも問題はない。アルチーデだってそうだったのだから、ティーナひとりが責められる謂われはないわけである。
それでもティーナは黙り込んでしまった。ほんの少しだけ、罪悪感が湧いたからだ。
アルチーデとティーナは誠実な付き合いをしていたわけではない。嘘と嘘とを突き合わせていたような関係だった。
けれどもどちらかが本音をさらけ出していれば、なにかその関係はいいものに変わったかもしれないという身勝手な予感が、このときになって湧いて出てきたのだ。
しかしそれはしょせん「タラレバ」というやつである。ティーナもそれはじゅうぶん承知していた。
それでも人間は愚かであるから、起こらなかった「タラレバ」に囚われがちだ。ティーナがレオンツィオに対する感情を捨てられないように。
「お嬢、幸せになりたいのなら、愛してくれる人間のところへちゃんと行くんだ。そのほうがいい」
ティーナは釘を刺されたような気分になった。
アルチーデの言葉の裏には、「お前を幸せにすることはできないのだ」という思いがあるように感じられた。
アルチーデが幸せにしたかったのはきっと、もうどこにもいない彼女なんだろう。そしてアルチーデはその彼女以外を幸せにするつもりもないのだ。
だからティーナに釘を刺すようなことを言った。「どうか心を寄せてくれるな」、と。
心を見透かされたような気になったティーナは、少しだけ自分が恥ずかしくなる。アルチーデのことを憎からず思っていたわけではないのだが、しかし、ティーナの心はそういう風に揺れ動いていたのもたしかで。
「それは残念です」――アルチーデにかけた言葉は嘘っぱちだったのに、その嘘を口にした途端、言葉通りの感情が湧き出てくるのだから、不思議だ。
「……でも、わたしを愛してくれる人がわたしを幸せにしてくれるとは限りませんよ」
心を覆い隠したいとでも言うような、精一杯の憎まれ口。しかしアルチーデには鼻で笑われた。
「まるでそういう男に引っかかったことがあるような口ぶりだ」
アルチーデに言われて思い浮かんだのは、レオンツィオの顔だった。
ティーナはレオンツィオに愛されているという意識はなかった。ただ、彼からの異様な執着は感じていた。
それが愛だとすれば、いったいどんな種類の愛なのだろう。ティーナは考えてみるが、答えは出ない。
「お嬢、あんたは後悔のない選択をしろよ」
「……それはとても難しい話ですね」
そのときに悔いはないと思った選択肢を、あとから悔いるだなんてことは人生で掃いて捨てるほどあるだろうに。アルチーデは難題をティーナに突きつける。
ティーナはずっと後悔している。レオンツィオと前世で心中したこと。それよりずっと前に、レオンツィオに――心奪われてしまったこと。もっと遡れば、生を受けたこと自体が間違いだったかのような気すらしているのに。
「あんたの心はもう決まっているように見えるが」
またたきを何度か。アルチーデと見つめ合いながら、ティーナはその実、別のところを見ていた。
「決まっているわけじゃないです」
「……そうか?」
己の発した言葉が嘘なのかどうか、ティーナにはわからなかった。
決まっているわけじゃない。自分で決めたわけでもない。恐らくは――。
「まあとにかく、俺はお嬢が愛してくれる人間のもとへ行くことを願ってるよ」
そんな人間はこの世にいるのだろうか? 可愛くない言葉がティーナの心に浮かぶ。
同時に脳裏をよぎるのはレオンツィオの顔だった。