1章*王都の宮殿にて(3)アイドルちび
異世界ペトラ・タトラで迎えた初めての朝。
目覚めた飛鳥の視界には日本の見慣れた部屋とは異なる天井が広がっていた。
夢じゃない……
机もタンスも本棚も見当たらず期待は裏切られ、現実としてのペトラ・タトラが眼前に存在していた。
けれど飛鳥は弱音を捨てた。昨日のうちに全てを受け入れ、ここでの生活を決意した。
ちょっと残念だったのは魔法の世界でなかったこと。
呪文を叫んで悪人を吹き飛ばしたかったのに、と期待叶わず肩を落とした。
与えられた個室のベッドで上体を起こす。朝の陽射しに室内は明るい。
カーテンの向こうの天気は良さそうだ。早く起きて宮殿内の探索である。
この国をもっと知りたい
好奇心が不安を上回っていた。足元で丸くなって眠っている愛犬にそれを示す。
「おはよう、ちび。起きて散歩に行こうか!」
散歩好きの仔犬は即座にムクッと頭を上げてベッドから飛び下りた。
小さな体をブルブルさせて準備体操。キュンキュン鳴いて急かしてくる。
飼い主も床に足を下ろした。今日この瞬間からが本格的な異世界ライフの開始であった。
◆
屋外は予想通りの晴天だった。この世界用に設定し直したスマホの時刻はAM7:56。 日本なら通勤・通学に忙しい時間帯だ。
が、どうやらペトラ・タトラは違うらしい。散歩中の飛鳥やちびとすれ違う者は殆んどいない。
閑静な空間の、綺麗に舗装された石畳の道。飛鳥は瞳や首をフル活動させて辺り一面をキョロキョロと眺める。
見た限りではテレビなどで知るヨーロッパの宮殿風景。そう珍しいものでもなく怖さは薄い。
電気や交通のインフラ整備を制限した世界遺産の町。そこに旅行に来たと思えば、よけいな不安もなくなり楽しめる。
いかに不安を減らすか。心構えが重要なのだ。
それにしても建ち並ぶのは立派な宮殿ばかり。
それもそのはずで、この地区は通称『王都』と呼ばれる貴族たちの居住区で、民間人の立ち入りは禁止されていた。
人通りが少ないのは呑気な貴族たちがまだ起床していないから……とは散歩後に帰宅した宮殿で第二王子カミーユから聞いた話である。
カミーユ自身起床したのは10時過ぎである。
空間を華やかに彩る金髪と顔立ちの持ち主だが、通りすがった飛鳥には併せて寝起き直後で眠そうにも見えた。
そんな彼がそのとき何をしていたのかというと、一夜を共にした女との別れのキスの最中。飛鳥は偶然にも目撃してしまったのだ。
それが昨日の初対面以来の再会であったのだが、まずはドキドキが止まらない。
彼氏いない歴19年。つまり恋人など一度もいたためしがなく、キスも未経験の身には刺激的な場面であったのだ。
唇と唇が触れ合う感触をまだ知らない。想像もつかない。
興味があるだけに同世代の男女の行為に羨ましさを感じた。
焦ってはいないけれど恋人が欲しい年頃なのだ。
ふと見るとカミーユが片手で手招きをしている。すでに女はいない。気を取り直して小走りに近寄った。
気づいていたであろうにカミーユからはキスを見られた動揺は少しも感じなかった。
さすが無類の女好き。いや日本人特有の恥じらいによる偏見なのか、とにかく彼は堂々としたものであった。
◆
ふたりは使用人専用の食堂で他愛のない世間話を始めた。
カミーユは彼にとっての異世界人を自称する飛鳥の人となりに興味があり誘ったわけだが、あまりに普通で驚いた。
そして異世界の生活環境を聞いて別の意味で更に驚いた。
空を飛ぶ乗り物やエスカレーターを含めた動く歩道、電気なと信じ難い文明に神か悪魔かの人知以外の力を覚え恐怖した。
背中を震わせるカミーユに飛鳥は人の悪い笑みを浮かべる。
男の彼がこんなことで脅える姿がおもしろかったし可愛かった。
それに飛鳥だって驚いていた。
外国人にしか見えない彼と意思疎通し会話を交わしている現状が不思議でならない。
加えて王子と呼ばれる身分なのになんてフレンドリーなのだろう。
ああそう言えば、と第一王子アレクの侍女リディアの言葉を思い出した。
カミーユについて彼女はこう述べたのだ。
「明るく優しく憎めなくて、誰からも好かれている方よ」
美女リディアはカミーユのお気に入りだ。だが彼女にその気はなく涼しい顔をしていつも誘いを断る。
しつこい王子の態度に嫌悪を抱きそうな物だが、彼女自身が発言したように憎めない人格に控え目な抵抗しかできずにいた。
そんなカミーユだから女癖が酷くても悪名が囁かれないのだ。
それを納得させる人懐こい笑顔が不意に浮かぶ。
足元で走り回るちびを見てプッと吹き出し、思い出し笑いを始めた。
昨日このたぬきみたいな仔犬をリディアにプレゼントしようとして飛鳥に怒鳴られたのだ。
「いきなりバカ男と誘拐魔扱いされたんだよな」
悪気なく好意的にボヤく。それを感じつつも飛鳥は恥ずかしさに頬を赤らめた。
そうして気持ちをごまかすような反論と謝罪も忘れない。活発だが優しい性格なのだ。
「ごめん。でも私だっていきなりちびが服の中から出てきてビックリしたんだもん」
そうかもしれないな。カミーユは己の非常識な行為に納得を示して苦笑した。
ちびは一時世話になった王子の懐の温もりと甘い香水の匂いが気に入ったのか側を離れない。足でつつかれて遊んでもらいご機嫌だ。
水を運んで来た侍女が王子は当然、可愛いちびと飛鳥の分も運んで来た。
一日が経ち、飛鳥は客人待遇を受けていたのだ。
マメシバの仔犬ちびはたった半日で宮殿内のアイドルになった。
飛鳥やふたりの王子が居住するこの宮殿には数十人の使用人も同居しており、そんな彼らに昨夜第一王子アレクが紹介した客人が飛鳥とちびであった。
ちびはそのゆるかわな愛らしさで使用人たちの心をわし掴みして離さず、一目で歓迎されたのだ。
そのおかげかアレクの人望によるものか、飛鳥も特に疑われることなく宮殿の住人となった。
そしてアレクが伝えた彼女の肩書きは『宮廷画家』である。紹介に先立ち飛鳥と王子が口裏を合わせたのだ。
とはいえ絵画経験が皆無な飛鳥ではない。高校時代は美術部で、それなりのセンスは持ちあわせている。
ここで生活する上で暇潰しにもなるし、とアレク専属の画家という設定に収まったのだった。
ちなみに「なんかカッコいい」と飛鳥はこの肩書きがお気に入りだ。
名を尋ねられた際には決まって「宮廷画家の飛鳥です」と罪のない笑顔で返答するのだった。
侍女が運んでくれた水で喉を潤し、すっかり仲良しの男女は和やかに引き続き会話を交わす。
「カミーユは本命の人いないの?」
気さくなのをいい事にひとつ年上の王子についつい突っ込む飛鳥である。
けれど相手に気にした様子はなく、綺麗な青い瞳を質問者に向けた。
「本命?リディアかな?あれほどの美女は中々いないしな」
「本気には見えないけどなあ」
昨日のナンパシーンを見た限り、あしらわれるのを楽しんでるとしか思えない。
今の口調にも冗談っぽい響きが含まれていたし……。
判断に迷う飛鳥の前で思わず見惚れる瞳の若者はまた口を開いた。
「兄上の侍女に手出しはしないよ。あーあ、オレの侍女になってくれないかなあ。オレなら毎晩離さないのに」
カミーユの侍女は初老の、しかも女侍従長。若い者では危険と判断され、彼女自らの立候補である。
小うるさいが気配りのきく温かい女性であった。
飛鳥は違和感に表情を歪ませる。やはり王子の口調は不真面目で嘘か本気か判断に苦しんだ。
それに何故か彼はこの話題にこだわった。会話はしつこく続く。
「どうすれば振り向いてくれるかな。アスカにいい案はない?」
親しく名前を呼ばれて無意識に彼女のテンションは上昇を見せた。
悩めるイケメンのために大学受験以来初めて真剣に頭を悩ませた。受験問題より難題にすら感じた。
「んーそうだなあ、襲われてるところを助けて恩を売るとか。カッコいい姿を見せつけるの」
考えた末の結果がこれである。
視線の先にはテーブルに立てかけられた彼の長剣。これを見て閃いたのだ。
カミーユは無言だ。呆れているのだろうか。
冷ややかな場の空気に役立てなかったど感じて飛鳥の全身に冷や汗がにじむ。
おそるおそる、上目使いで王子を見つめた。
「……古典的過ぎたかな。やるだけ無駄?」
すると王子の険しかった顔に変化が表れた。
「いや、そんなことないぞ。おもしろそうだ。やってみたい!」
綺麗な顔にニヤリと笑みをたたえて身を乗り出した。思考はすでに作戦準備に取り掛かろうとしている。
いいのかなと思いながらも飛鳥も乗り気だ。実行に向けての計画に胸をワクワクさせて惜しみない協力を約束する。
ちびも足元でキャンと鳴いて仲間入りを希望した。
真剣なカミーユの姿にリディアへの本気の愛情を認め、飛鳥は応援したいと瞳を輝かせ腕まくりをするのだった。
こうしてリディア本人の気持ちを全く無視した、人間と犬の異種族による秘密作戦が実行日を目指し一歩を踏み出したのであった。